笑うことが苦手になるな。
強張った表情の貴方を微笑みとキスで俺が壊す。



「冷たい花」



摂氏マイナス四十度の液体窒素をかけられたカーネーションだか薔薇だかが凍った場面を何かの実験で見たことがある。
高校の化学の授業だっただろうか。花は美しくその瞬間に時を止め、一瞬にして凍り付く。
分子間の結合が強固になり凍結した花は散ることを知らない冷たい眠りの底につく。
永遠に涸れない冷たい花。
けれど、凍結してしまったことにより凝固してしまった分子はそれ故に酷く衝撃に脆い。
手の高さに持ち上げてから、ぱっと手放してしまったら、それは床に触れると同時にぱりんと高く澄んだ音で壊れて砕け散ってしまう。
硝子細工の欠片みたいに。


ぱちり。
唐突にブラウンの瞳が開いて微睡みから一気に引き上げられる。
眠った瞬間の記憶はない。ただ怒濤のように何かが押し寄せ何かが引いていくのを身体に刻み込まれた記憶が憶えている。
その記憶を植え付けた本人は、いつの間にか隣には居ない。
癖のように手を伸ばして、慣れた温もりを探した腕は何もないシーツの海にただ沈んだだけだった。

ああ、だからか。
腑に落ちて納得する。
彼の温もりが側にない、だからこそこんなに目覚めがクリアなのだ。いや、無理矢理覚醒させられたというか。
もしも無二の体温が側にあったら、自分は安心と微睡みの中で未だぼんやりとしていただろう。
不自然なシーツの冷たさは違和感を一護に与えて、だからこそ唐突な目覚めを可能にした。

はあ、吐息を吐いてころんと乱れたシーツの海で寝返りを打って丸まった。
一人には広すぎる。そんなことを思いながら。
午前四時。もうすぐ夜が明ける、そんな時刻だ。けれども空には、今夜最後の星灯りが、暁に染まる空に海の底で光る貴石の輝きで煌めいている。
眠いと思う。でも眠れないのは何でだろう。
いつの間にか一人残された状況に不安と不満を憶えて、子供のようだと苦笑する。いつからこんなに我が侭になったのだろうか。
室内は薄暗い。照明はつけられていない。多分眠っている自分を気遣って何も灯りをつけなかったのだ。
誰も居ない部屋は灯りが有る無いに限らず酷く寂しいと思う。

広い室内に置かれたベッドの上で、起きあがろうと思ったその時。
かたりと意識の隅に触れる音が静寂の中に響いた。
開かれる扉の音に一護はとっさに目を瞑る。ぱたりと起きあがりかけた手をシーツに投げ出して、そのまま呼吸を静かに潜める。
再びかたりと襖の閉まる音と共に、静かに気配がベッドの方に近づいてくる。
横たわる一護のすぐ側で慣れた気配がして、そっとベッドのスプリングが軋んだ。座った気配、微かに沈むベッド。
エメラルド色の視線は一護を真っ直ぐに見て、そしてふっと息を吐いた。彼の手が伸ばされて、橙色の髪にそっと長い指を絡ませる。
触れた感触が心地良い。互いに慣れた感触と仕草に、無意識に安堵する。
少し冷たい指先にほっと息を吐いたとたんに、静かな呟きが一護に落とされた。
「タヌキ」
ぴくり、と馬鹿正直に肩が揺れる。こちらに背を向けたまま、乱れたシーツを巻き込んで横たわる体が薄暗い部屋の中、不思議と柔らかな色彩で浮かんでいた。
「……タヌキじゃねぇ」
不満そうに声が応えてくる。巻き込んだシーツもそのままにぱたりと寝返りを返してきて、一護は仰向けに転がった。
見下ろしてくる彼の顔は小さな呆れを含んでいる。 薄暗い室内の中でベットの際に座った冬獅朗がブラウン色を見下ろしている。
「い、ま、起きたんだよ」
「ああ、そう」
完璧に狸根入りして驚かせてやろうとしたささやかな目論見が外されて、その上何だか呆れたような、馬鹿にしたような小さな笑みすらも浮かんでいて。
「大体、独りにした冬獅朗が悪いんだよ」
恨みがましくそんな言葉を吐いて見せても、何にもならないことも知っている。自分らしく無いとも解ってるが。
その言葉の珍しさに微かに驚いて、冬獅朗がぴくりと眉を上げた。
「――寂しかったとか」
「いや、全く寂しくなんか無いですけど?」
完全な当てつけ以外の何ものでもないが、にっこりと笑った顔だけが相反している。

軽くシャワーを浴びてさっぱりしてきたのだろう。かいた汗のべたつきもなく、新しく着替えた寝間着で冬獅朗はベッドに座ったまま軽く足を組んだ。
別に起こさなかったのは自分に対する気遣いだと知っている。寝ている人間を無理矢理起こす手間もない。でも、汗でべたべたなのは冬獅朗だけじゃない。
自分だってさっぱりしたい。ちゃんと寝間着も着たいしシャワーも浴びたい。つまり先にさっぱりした冬獅朗への当てつけもきっちりと含まれている。
独りにされたことの寂しさと乗算して、ぐるぐる自分の中で回っている。本当に子供みたいだ。

にっこり笑いながらその影で不機嫌さを隠さない声に、何を思ったか冬獅朗がぴくりと眉を寄せた。
ぱたんと乱れたシーツの上に投げ出されている両手を長い指が掴む。
え、と一護が思う瞬間もなく、唇が重なった。
瞬間的に抵抗を思いついたが、縛められた両手はシーツの海に縫いつけられたまま離れない。
柔らかな唇を甘噛みされて、細い柳眉が震え、寄せられた。濡れた感触にぞくりと背筋が泡だった。そのまま数秒間か数分か――唇は重なり続ける。
やっと離れたときには、一護の勝ち誇った笑みが上気した頬に浮かんでいた。
「一護」
「絶対、嫌だね」
満面の笑顔で微かに息を上げて浅い息を繰り返しながら、高らかな勝利の声が薄暗い室内に響いた。
冬獅朗が沈黙して、一護は満足してにやりと笑う。
ささやかな報復はやっと実った。それは簡単なことだ。唇が重なり続ける間、一護は唇を開かなかったのだ。
どんなにその行為に促されても、身体が浸食されそうになっても。それ以上の進入を許さなかった。それだけだ。
ははんと一護が笑って、冬獅朗は沈黙する。
と、その縛められた手首に力がこもった。ぐいと引き寄せられるように、力任せに押しつけられる。
そのまま、片手だけで簡単に頭の上で束縛されてしまって、身動きがますますとれなくなる。
驚いて少し息の詰まった一護に構わないで、その細い首筋に冬獅朗は唇を寄せた。一護の弱い部分は知ってる。
其処を強く口付けて、噛んで、紅い痕を強く強く残す。
「んっ…!」
きゅっと思わず目を瞑る。ぴくりと敏感に肩が揺れた。
そのまま当たり前のように唇は下がっていく。
鎖骨に微かに唇の感触が触れたとき、食いしばっていた口を思わず開けて、喘ぐように、焦るように、一護が呼んだ。
「っ冬…」
獅朗。
繋がるはずだった言葉はぷつんと途切れた。その瞬間を逃さずに、一気に首筋を引き寄せる。
噛み付くように口付けて、惑う暇もないくらいに一護の唇を侵し始める。絡まる熱に一護が喘いだ。
今度はたっぷりと数分は確実に離れないで。
それでも名残惜しく離した唇は、薄暗い室内に微かに濡れて輝いた。
濡れた唇を長い唇が拭ってやりながら、浅く呼吸を繰り返す一護をエメラルド色の瞳が見下ろした。
「何が嫌だって?」
無表情の下では絶対に面白がっていること間違いなしなその口調。何と腹が立つことか――。
「―――っ!」
真っ赤になって、潤んだブラウンの瞳がキッとを冬獅朗を睨み付ける。腹立ち紛れの言葉は根こそぎ奪われたように、一護は暴れ始める。
今度は簡単に、縛めていた手首を離して、冬獅朗は軽く起きあがった。

ふと窓の方へと目を向けると、薄い光が入ってきている。夜が明け始めた。いつの間にだろうか。今襖を開けば朝が始まるだろうか。
暁に染まる空は、きっと高く晴れている。
「冬獅朗…!」
枕を一護が手に入れて、おら!とばかりに投げつけた。あまりに子供じみた反撃に冬獅朗は溜め息を隠そうともしない。
ぼすっと勢いにへこんだ枕を簡単に受け止めてから、ぽん、と橙色の頭を軽く叩いた。その手の下から恨みがましい視線は消えないことは知っていたが。
「寝ろ」
小さくと息して言われた言葉に、一護もふうと息を付く。朝っぱらからこんなことして体力を消耗したいわけでもない。
それでも納得できない何かは残るけれど。冬獅朗の言い分ではないが、非生産的なことに時間を費やしすぎだとか不機嫌に思った。
頭の上に乗った手のひらの感触にはいつの間にか慣れた。もう随分前のことだ。
乱れたシーツの海からそっと視線を上げて彼の顔を見上げる。見ていることがばれないように。小さく俯いた視界に、冬獅朗が映る。
綺麗だな、と思う。影の落ちる睫の形とか、繊細な顔立ちとか。

何となく見ているうちに落ち着いて、一護は小さく息を吐いた。取り敢えず温もりは側にある。
自分が何より望んだものが。それなら眠れるかなと思って、薄い瞼を閉ざしてしまおうとした。
まだ朝は浅い。暁色に世界が染りゆく時間。
冬獅朗に微かな冷たさが走った。軽く下を向いた視線は冬獅朗が考え事をするときの癖だ。ベッドの際に座りながら、視線だけが冷えていた。
唐突に映ったそれに、一護はぱちりと目を啓く。
そして思い出す。冬獅朗がこんな顔をしているときは思索の海に沈むときだ。それもあまり楽しくはない。

心当たりは一つしかなかった。唐突に思い至った。総隊長の呼び出しを。
極楽貴族、王族と全隊長の集まりだった。
恒例の、重鎮やスポンサーが集まっての。例年通り行われるそれは冬獅朗が厭って止まない恒例行事だ。ただ、例年とは違うことがたった一つあった。
招待は全隊長だけじゃなかった。黒崎一護も呼ばれていた。改めて知った自分の立場と、彼の組織に対するの重要性。
それを聞いたとき、唇を噛みしめた冬獅朗を知っている。拒めないほど大きな集まりであるとも知っている。
嫌だったら出なくて良い。浮竹隊長がそう言った。けれど出なくては隊長達の顔を潰すことになることに、一護は聡く気が付いていた。

冬獅朗が一人寝室を出ていったのは、もしかしたら総隊長に会いに行ったのかも知れない。
すぐにでも面会をしたかったが、真夜中に大物である人物にそんな礼節を欠かいた行為をすれば、ますます態度を強固にしかねない。
冬獅朗が連絡を取ってみると言っていたが、この様子では断ることは無理だったのだろう。

優しく髪に絡まる長い指先。微かに冷たい体温。
きり、と一瞬唇を噛みしめて一護は自分の髪を梳く手に手を重ねた。
ふと、触れた体温に冬獅朗がこちらを見下ろす。もう眠ったと思っていたのかも知れない。
冬獅朗がこちらに意識を向けた瞬間に、一護の腕が伸びた。ぐい、首元を掴んで全力で引き倒す。
完全な不意打ちに冬獅朗はそのままベッドに打ち付けられるように倒された。一護の腕が首の両脇に付かれて冬獅朗の動きを制限する。
沈むベッドに、冬獅朗が口を開きかけた。けれど何かを言われる前に、一護はその唇に唇を重ねた。
「んっ」
吐息が混ざる。舌を絡めて、キスを続ける。吐息が混ざり融け落ちるような感覚。
やっと唇を離したとき、一護ははあっ吐息をついだ。押し倒されたままされるがままになっていた冬獅朗が、訳が分からず胡乱な瞳を返してくる。
濡れた唇に指先を寄せると、一護が鮮やかに笑った。
何も着ていないシルエットが、薄暗がりで浮かんでいた。
「眉間にしわ寄ってるぜ」
「……は?」
さらりと、何でもないことのように言われた言葉に、妙に無防備な声を冬獅朗が上げた。
それが微かに可笑しくて、一護はあははと笑いながら言葉を続けた。彼の瞼に唇を寄せると軽く冬獅朗が片目を閉ざす。
ひんやりとした素肌に柔らかな感触が触れた。
「笑わなくてもいい。でも笑うことが苦手になるな」
冷たい唇に吐息を寄せて。酷く鮮やかに一護が笑った。
「俺はそんなに弱くないし、冬獅朗がいれば強くなれる。これは絶対の真実」
一護の言葉に黙り込んで、冬獅朗が微かに目を瞠る。それでもしんとした無表情は凍ったように崩れない。
「だから笑わなくても良い。苦手になるな」
笑える強さを知っている。笑わせることの強さを知っている。それを持っていたいと思う。そうして生きていきたいと思う。
凍った花のような冷たい無表情。それは涸れないけれど、酷く脆いことを知っている。冷たさと美しさを内在させた凍った花みたいな冬獅朗の顔。
一人で視線を俯かせて思索に沈んだ顔を視たとき腹がった。その冷たさと美しさを孕んだ無表情。
「――破綻してる」
「言葉が?」
軽く声を上げて一護が笑った。
「ああ、自覚してる、でも繋がるんぜ。言いたかったしこれで良いんだよ」
そう言った彼のブラウンの瞳が鮮やかに煌めいて笑った。
その眼差しに、詰めていた何かが、枷が外れて、意識しないで溜め息が零れた。
眉間に寄った皺がそれと同時に融けていくのを一護はみて、よしと満足げに頷く。

そうして朗らかに一護が笑んで――瞬間、腕が捕らえられた。
は?と思う間もなく、次の瞬間には体制が逆転している。
簡単に一護をひっくり返して体を押し倒して、冬獅朗が微かに、それでも鮮やかに笑った。
不穏な、とばっちりと修飾語の付くその笑みで。乱れたシーツが巻き込まれて、薄い影を引いていく。
「え?」
ひくり、と口元が引きつった。
「誘われるのも偶には悪くないな」
「な…!」
――誘ってない!
心の中の絶叫は、叫ぶ声にはならずに消える。ふさがれた口付けで、息もできないほどに絡め取られた。
「ふ…は、んっ」
「ん…」
小さな喘ぎは静寂に消えて、再び熱に覆われる。
朝焼けが世界を染める薄暗い遮られた閉鎖空間で、意識の欠片も残さないで、再び融けて、堕ちていく。


融けた花は久遠を喪いいつか枯れて果てるだろう。けれどいつか種を残してそして強さを手に入れる。鮮やかにしなやかに生きていく。
どうか忘れないで、温もりが側に在ると言うことを。
冷たい花に口付けを。
強張った表情の貴方を、微笑みとキスで俺が壊す。







素敵雰囲気鴻軌さんワールド で す よ。
もはや私がなんぞ語らせていただくことはございますまい。
皆様、存分に、彼女の世界に浸ってくださいませ。


2005/09/09 耶斗