まさかこんな形で再びこの世界へ来ることになるとは思わなかったなぁとのんびり考えている一護はおそらく頭の中が飽和状態なのだろう。己が逃げるとでも心配しているのか世界の境を渡る時から握られている手がまだ離されていないことにも頓着していられないといった様子だ。 目の前にいる老爺とその両脇に従う二人の男は皆隊長の羽織りを身に着けていた。 「やぁ冬獅郎。どうやら話は本当だったようだね、ちょっと意外だったけど成程彼なら話も分かる」 手を引かれるままに従った一護が連れてこられたのは一番隊の隊長室であった。そこに用があるからと冬獅郎はそれだけしか一護の問いへは返さなかったが、こんなことならもっと情報を引き出しておけばよかったと心の準備をさせてくれなかった男へ一護は内心で毒づいた。いやに重厚感に満ちた扉の先へはやはり威厳に満ちた老爺が杖など不要のように佇んでいて、両脇の二人と共に己を観察するように眺めるからずっと居心地の悪い気分でいるのだ。それも先の言葉で3人の注意が己から傍らの冬獅郎へ逸れ、一護はこっそり安堵の息を吐いた。白髪を長く伸ばした男は、温厚な顔で笑って言った。 「元柳斎先生、俺に異存はありませんよ。黒崎も承諾しているようですし」 は?何のことかと疑問に思った一護は次には彼のいう意味を察して思うよりも先に身を乗り出していた。しかしそれも己の手を握る冬獅郎の手に押しとめられる。咄嗟に首を捻って彼を見下ろせば冬獅郎も一護をその目で見上げていて。どうやら黙っていろということらしいが。そういう訳にもいくまい。 「ちょっと待ってくれよ浮竹さん。俺が承諾してるってもしかして‥っ、‥‥‥その‥」 口が澱む、己より高い目線から見下ろしてくる3対の目に言葉の先を急くのだけれどどうにも口にするのは憚られた。 「君が冬獅郎の気持ちに応えた、と判断しているのだけど。違うのかい?」 「俺は‥っ」 抗弁に口を開いて、ふともう一人の男、手に持った笠を玩んでいる女物の着物を羽織りの下に引っ掛けた男と視線があった。 その目の云わんとするところ、それを悪戯っぽく哂うその瞳から一護の直感は読み取って血流が押し上げられるのを感じた。思い出したのだ、己の部屋で今己の手を捕っている男が己に為した行為を。自分たち以外知るはずの無いそれをなのにその男は十分に承知しているような気がして羞恥に顔を俯ける。下から覗き込める男がいるから、その男からも背けて。 「どうしたんだ?黒崎」 突然の一護の行動に白髪の男は全く何にも気付かずに問うたけれど、彼へ応えを返す者はおらず、代わりに彼の親友が云った。 「じゃ、後のことは若い二人に任せるってことで。良かったねぇ山じぃ、他の奴らも納得するよ。僕からも言っとくし」 「おい、京楽?」 「浮竹、どうやら僕等が心配することは微塵もないってことさ」 ね、山じぃ? 俯く一護の、唯一意識を向ける耳は元柳斎の安堵する息が細く吐き出されるのを聞いた。 それから一護は傍らの男の動く気配に目は向けないまでも軽く一礼しただろうと推察した。そうしてどうやら会見は終わり、目的も達したらしい冬獅郎に再び手を引かれ元来た扉へと導かれる。だから手を離してくれと思うのだけれど、先の京楽により縫われた口は開いてくれそうになかった。 ちらと振り返った視線の先で、京楽は父親に似た顔で哂って。一護はまた説明できない気恥ずかしさから嫌に敏感になった背中を持て余した。 「日番谷‥っ、おい、日番谷っ」 紅潮した頬は夜気に冷まされ月影に元の血色よりも白くみせる。高い白壁に挟まれた路地は真ん中に月を仰いでいた。 放されない手も振り返らない貌も。これ以上男の好きに従うことに強い抵抗を覚え始めた一護は掴まれた手を放そうとして今度は手首を捕られていた。無理矢理に振り解こうともがいても予測した以上に男の力は強く、つっかえるように足を運んでいくばかりだ。 「どこに行くんだよ、さっきのも一体何だったんだ」 「じじぃが要らねぇ心配しやがるからな。他隊長の立会いの下で証明したんだ」 「証明って‥」 零してしまった、それとは意図しなかった問いの答えを聞きたくない、と思った。そうしてやはりこの手を振り解かなければ、と。なんだか拙い気がするじゃないか。 なのに男は平然と、それまで目を合わせなかったことなどには何の理由もなかったとでもいう風に一護の邪推を破って振り返った。その碧さ!何よりその瞳に深刻される懇願にも似た 「一護?」 立ち止まり、頑なに追従を拒む一護に冬獅郎も足を止めた。 「どうした?一護」 「お前‥なんで‥」 あんなものを見てしまったと、そんな気になってしまうぐらいには己も嵌りかけているのだろか。そんなはずはない。一護は冬獅郎からの視線を避けるように俯けた顔を捕われていない方の手で隠した。 その冷めた熱さえ感じ取れそうだと一護は路地の土から陰を掃く月に思った。一歩先を行く冬獅郎の影が足下を掠めて伸びている。そこにその男がいるという証が奇妙に息苦しくて一護は惑乱した。思い無く引いた腕はやはり許されないまま男と繋ぐ。息を、吸って、乾いた大気に男の匂いが混じっているようで、思考の糸は解れないままだった。 それをじっと見ていた冬獅郎が一護の皮膚が引きつるほどの強さで彼の腕を引き、瞠目する一護を一瞥だけして 「俺の屋敷に準備が整っている。決着つけるならそこでつけろ」 一護の迷いを押さえ込む語調で墨色の背中はそう云った。 こんなもんかしら、と乱菊は腰に拳を当て背を反らした。唸るような声が喉の奥から漏れ、まだ畳に膝をつき最後の仕上げを整えていた七緒は苦笑した。 「さ、これで終了です。お二人が戻られる前に私たちは退散いたしましょう」 「悪かったわね七緒、殆どあんた一人にやらせちゃって」 上司から言いつけられたのは彼の屋敷、寝室に酒の用意をしておく事だった。なんだそんなこと、と軽く考えていれば継げられた言葉に思わず上司を凝視した。 『餅‥ですか?』 さきイカとか塩辛でなくて? 二人分というのはいいのだけれど、酒のツマミに餅とは乱菊の常識にはなかったものだ。 『簡易なものでいい』とそれだけ云ってさっさと仕事に戻ってしまった上司に、彼の前で立ち尽くす乱菊は何がなにやらさっぱり分からなかった。 (”みかよのもち”ってなに?) 『”三日夜の餅”。現世の平安時代における婚礼の儀式ですね。今回の場合は意味が変わるでしょうけれど。ということはあの物語は現世から輸入されたものかしら』 もしかするとあの上司は己が七緒と合流することを読んでいたのかもしれない。そんな学が自分にないことは明らかなのだから。 閉店間際の餅屋へ滑り込んで、無理を言って上司お求めの品を作ってもらっているところである。店内に据えられた腰掛へ二人並んで休んでいる。 『成程ね、風習はどうあれうちの隊長が意外とロマンティストだってことは分かったわ』 『あら、違いますよ乱菊さん』 『?何が違うのよ?』 呆れてそして、同意も貰ってこの会話は打ち切れるとの当てを外された乱菊が七緒を見やると、彼女ははすっかり承知しているような顔をしていて 『なによ、七緒』 もったいぶっているというよりは、自分がこれから口にする愉快を堪えているようで。 もう一度催促してようやく彼女は、それでも漏れそうになる笑声を堪えなければならなかった。 『日番谷隊長は必要性を感じられたんじゃないでしょうか。どうあっても噂は正誤に関わらず広まるものですから。それなら誰も口が出せないような方法を、とそう考えられたのでしょう』 正統性のある儀式を通れば、おいそれとは文句をつけられませんよ。 咲う七緒は、なるほど日番谷冬獅郎に自ら手を貸していたらしかった。受動的なものだと思っていたのだ。 はぁ、あんたうちとこと副隊長換わらない?乱菊は心からそう云ってやりたかった。 私もむしろ八番隊の隊長とこそ気が合いそうだし。 上司の私邸を立ち去る頃には、一片も欠けたところのない月が中天に浮かんでいた。絹のような雲が一面に張られた朧の夜だ。 続く 2005/10/12 耶斗 |