続々.君に贈る詩/最終話



 寂しい家だ。人気のない、森閑とした広いだけの屋敷。
 引かれるままの手を振りとくことももはや頭にない一護は、とぼとぼと冬獅朗に従ってそこへ踏み入れた。瞬間弾けるような軽い音が鼓膜を揺らしたが、その違和感を瞳に浮かべると同時に察しのよい彼は「結界だ」と教えた。普段帰らない家だから、面倒事を避けるために結界を張っている。
 そうか、しかしそれなら屋敷の管理は誰がするのだろう。当然のように上った疑問は口をついては出ない。思考することに疲れていた。何度足を止めようとしたか知れないが、その度に引く腕の強さに挫かれた。
「日番谷‥」
 何を、言おうというのだろう。言葉なんてもっていない。言うべき台詞なんて知らない。日番谷、また呟いて口を噤んだ。冬獅朗もまた、一護が何をいうつもりでそうできないのか知っているようだ。

 玄関までの短くはない途を歩いてそのまま左へ折れた。家の中へ入らないのか、戸惑いに足が鈍ったが、目指す先が庭の縁側なのだと知って後に従う。従う、従ってばかりだ。
 月の影を満たしたような池が現れ、それを前に縁があった。障子まで開かれて月の光を集めている。この様子だとこの屋敷に鍵などないのではないかと一護は思った。それほど自身の結界に自信を持っているのだろうか。その力の程をまた確認する。
 縁へ上がる段階になって、一護はようやく放してくれと明確に冬獅朗へ伝えた。逃げないから、とその瞳は訴えて、冬獅朗も了承した。風は凪いで、心も静まっていた。
『決着をつけろ』
 男は云った。
 決着をつけるなら男の屋敷で。それはもう必要ない。手を引かれ、月の照らす道を辿りながら心は落ち着いていった。泣きたくなるのはまだ最後の抵抗が残っているからだろうけれど、それでも俺は決めたのだ。知ったのだ。
「日番谷」
 男を呼ぶ。部屋に上がって、そこに用意されていたらしい酒と肴を確かめてこちらへ運ぼうとしていたところを一護は未だ土の上に立ったまま呼んだ。
 花の‥意味。
 京楽や浮竹の顔が浮かぶ。彼らに挟まれ静かに己を見やっていた元柳斎の顔も。今になってようやく思い至る、あの老爺は己に訴えていた。観察していたのではない。己に伝えようとしていた。
 それが、立ち向かえなのか受け入れろなのか逃げてしまえなのかまでは分からないけれど。
 月の熱が背を包む。肌を慰める風がないからしっとりと汗ばんでいくのが分かる。咽が、引きつらなければいい。これほどの緊張を、俺は知らないだろう。
「俺は、多分‥」
 お前のこと好きなんだと思う。

 だってあんなものを見たのだ。




 優美に形作られた餅の収められた重箱を手に冬獅朗は一護を眺めた。月の影はその姿を塗りつぶすほど強くはない。視点を定められずに揺れる瞳をそれでも絞ろうとするのは迷いからか羞恥からか。朧な夜に溶けそうだと思った。
「そうか」
 冬獅朗は自身の声を耳元で聞いた気がした。その声音の落ち着きように驚いた。
 足を進めて一護の側まで行く。片手にぶら下げた酒と重箱を縁側のふちに置いて、その隣に腰を下ろした。
「座らないか」
 促す。
 一護は軽く頷いたらしいが、それを確かめることはなかった。酒と肴を挟んで座る。その距離にも相手の熱を感じるようだった。
 さて、と冬獅朗は思考を整理しなくてはならなかった。一護の言葉が予想していなかったものだからではない。それが唐突だったからでもない。
 浮き立っている。そう、以前副官が己に尋ねたことがあった。そのときの状態よりも数段己は高揚している。抑えるための素振りも傍らの彼を警戒させはしないかと無闇に動くこともできないなんて。参ったな、正直にそう思った。
「酒は呑めるか?」
 杯を持ち上げ一護に手渡す。受け取るのは了承だ。一護が未成年だとは知っているが、それほど念頭には上らなかった。尋ねたのは確認ではなく、会話の切っ掛けを求めたためだ。
 酒を注ぎながらその顔を覗き見れば視線は指の先。どうやら顔を合わせられないのはお互い同じらしい。
 自分の杯にも酒を満たして一口呷る。さて、どうしよう。
 なんだかしんみりした空気になってしまった。月があるのは都合がいいが、しかしこれでは一向に会話が叶わない。空になった杯を片手で弄りながら見れない一護の顔から一心に月を見上げた。

 さて、どうしよう。




 ふざけた男だと思ったのだ。
 前触れもなく、面識をもったかどうかさえ定かでないのに、現れたかと思えば圧し掛かり、そうしてあの花は自分が贈ったものだと、俺を自分のものにするのだと。
 冗談にしか聞こえないだろう?
 頭沸いてんじゃねぇのかと思うだろう?
 ちらりと隣を覗き見てすぐに視線を放した一護は酒を舐めた。飲みやすい。父親の晩酌に付き合わされることから酒への免疫はついているが、それでも辛い酒は好みではなかった。ほろほろと喉に落ちていくような酒だ。
 選んでくれたのだろうか。自分のために?馬鹿な。その思考はいただけない。
 自分の考えに揶揄われたような気分で頬が恥ずかしい。
 男は口を開かない。月を眺めるばかりで、それでも己から意識を引き剥がそうと腐心しているようだと思えるのはただの気のせいだろうか。己自身それを図っているからだろうか。喉が渇く。酒を舐める。
「なぁ‥、日番谷」
 あぁ、まったく。どうして俺というやつは考えるより先に口が開くのだろうか。次の言葉を考えていないのに。それでも一護の舌は滑らかに言葉を繰り出した。意思と舌が切り離されて動くのを、一護は初めて体験した。
「あの花‥、仕来りだとか‥教えてくれるっていったよな」
 知りたかったのだろうか。知りたかったのだろう。舌が勝手に動いたくらいだから。
 随分久しぶりな気のする翡翠が己に向けられるのに、どくりと心臓はもったいぶって鼓動した。


 普段から口数が少ないのだろう男の語りは、時折喉を湿らせながらゆるゆると続けられた。
 花言葉のうち多くは作り話だが、これはどうやら違うようだと冬獅郎は言った。偶然にそれを書き記した書物を見つけたのだという。
「長いこと開けられなかった書庫があるんだが、暇つぶしにそこへいった。たいていの本は読み漁っちまった後だったから何か興を引くものはないかとな」
 被る埃に染められたなんじゃないかと思うほどにどれもこれもが皆古びた表紙で、誰も掃除をするものがいないようだから古書独特の匂いが充満していた。
「今思えば、鍵が開いていたのが不思議だな‥。出入りする人間がそういないからいつかの折にかけ忘れたまま放置されてたのかもしれない」
 天井まで届く高さの本棚が並ぶ中を気の向くままに歩いてふと足を止めた。特別異様だったわけではない。何故だか気を惹いた。不思議だなと思うこともなく、実に自然にそれへ手を伸ばしていた。
「歴史のような、自伝のようなものだった。誰の手によるものかは分からないが、仔細まで忠実に表そうとしていたようだ。綺麗な手だった」
 あれは女かな、と唇を摘むようにして冬獅朗は呟いた。
「それにまぁ、あの花のことが書いてあって、そのときはたいした感想も抱かないまま本を戻した。他の本を読んでいくうちに忘れたと思ったんだが‥」
 花の噂が届くようになった、と彼はいった。
 曰く、誰彼が麗しのあの人に贈っただとか。曰く、それで晴れて夫婦となったものがいるだとか。何百年も前ではこぞって誰もがその花を道具に愛を歌っただとか。
「くだらねぇと思ったよ。そんな手は古くさい慣わしだろう。今でも使う奴が本当にいるとは思えねぇと。だけどなぁ‥」
 ここで、冬獅朗はばつの悪いような顔を覗かせた。言おうか言うまいか迷うような顔だった。
「その後なんだよ‥お前を見た。一連の騒動で俺も身動きできねぇ状態になっちまったし、お前とはちゃんとした挨拶もできなかったけどな」
 お前が帰るまでの間、ずっと見つめていたのだと、顔を隠しながら冬獅朗は言った。
 一護もまた、冬獅朗の着物の裾さえ見れずに自身の足元を凝視した。
「黒崎」
 呼んだ声に懇願を思う。それは己の希みの表れか。
「強引な方法を使って悪かった。だが、お前は気付いちゃいないだろうが‥お前は、その‥」
 落ち着きを取り戻そうというように一度冬獅郎は深呼吸する。それが少し、可笑しくて一護は口端を緩ませた。緊張していた分、こんな空気が嬉しい。
「色々と面倒に巻き込まれやすい」
 『面倒』と彼は濁した。その内実は確かく一護には伝わらなかったけれどそれでよかったろう。知れば間違いなく喚きたてただろうから。冬獅郎の頭には一護を取り巻く幾人もの人間たちが浮かんでいた。
 一護は得心しないまでも、冬獅郎がそう表すのならそうなのだろうと頷いて酒を舐め際にぽつりといった。思わず冬獅郎が聞き返すような微かな呟きだった。
「何ていったんだ?黒崎」
「‥‥‥ったよ」
 首を傾げる冬獅郎の視線から逃れながら、一護はもう一度繰り返した。
「俺も、お前のこと知ってたよ」
 怒ったようにいったのは照れているのを隠したかったのだろう。あの花をみて連想したもの、それをようやくになって思い出したのだ。まさか記憶として焼きついているなんて思わない。どこで見たかまで覚えていないのだ。ただ、その姿を見止めた、そのことしか覚えていない。それほど強烈だったのか、周りの景色に溶け込みすぎて意識が働かなかったのか、兎に角一護は冬獅郎を現世へ帰る折より前に確かめていた。
「馬鹿みてぇ‥まるで一目惚れだ‥」
 零れた呟きに一護は自身のものでありながら気付かなかった。それを聞きとめて苦笑している冬獅郎にも気付いていない。そうして彼が
「お互い様だな」
 と哂ったことにも気付かなかった。


 雲が、晴れようとしている。朧の時は解かれようとしている。徳利にはまだ酒が残っている。餅はちまちま摘まれて。
 逢瀬のときはまだまだ長く許されているようだ。



 □ □ □



 あの夜からさらに3日経った朝である。
「なんだこりゃ」
 通常通り自分の部屋で目が覚めた一護が超絶目覚めの悪い声で目を据わらせたのは
 一様に『祝・黒崎様ご婚約』と書かれた品々が部屋を埋め尽くさんほどに並んでいたからだ。それらの一角に埋もれるようにして腰を下ろしていた日番谷冬獅郎がまるですまないとは思っていない表情でのたまった。
「喜べ、これで公認だ」
 ふざけろテメエこの野郎
 怒鳴る元気も奪われて、一護はへなへなと布団に突っ伏した。
 何が喜べなんだ何が公認なんだ
 泣いていいのか怒っていいのかまだ判別のつかない一護が『三日夜の餅』について聞かされるのはもう少し後のことである。





 終

2005/11/04 耶斗