君に、花を贈ろう。
 言葉に出来ぬ想いを託し
 君に、花を―――。




「なんだぁ?コレ‥」
 朝起きれば窓の側、一輪の花が置かれていた。
「遊子がおいてったのか‥?」
 朝露に濡れたその瑞々しさは、妹が摘んできてくれたにしては不自然なのだけど
「礼いっとかねぇとな‥」
 男に花なんて似合わない。そうは思うが可愛い妹からの贈り物だ。頭のひとつもなでてやって、ついでに笑ってやるくらいはしないといけない。
 抓んで持てる程度の小さな白い花を、花弁を散らさぬよう掌にのせると一護は花瓶代わりのコップをもらいに、階下へ降りていった。




  君に贈る詩




 軽快な包丁の音が黒崎家の朝を変わらぬ日常のものとしてくれる。
 ただ、今朝は少し違っていて。その理由である小さな花を掌に、一護はリビングの扉をくぐった。
「あ、おはようお兄ちゃん」
 今日も朝から可愛い妹。包丁さばきも味付けも、兄の腕では遠く及ばない。一護はもはやそれが平素の貌となっている眉間の皺もわずか緩めて、愛する妹に微笑みかけた。
「おう。あのよ、これ‥」
「お花!お兄ちゃん摘んできたの!?」
 可愛い!と満面の笑みでそれを覗き込もうと、鍋の火も忘れてつま先立つ妹に、一護は予想が外れて首を傾げた。
「お前が摘んできたんじゃないのか‥?」
「え?違うよ〜。なんていう花?可愛いねぇ」
 花やレースを好む妹が知らないとなると、この花はこの辺りの道端に生えてはいないもののようだ。
「欲しいなら‥」
 目を輝かせる妹に、兄たる一護はくれてやろうかと口を開きかけて
「いや、水、くれるか?」
 部屋に飾るから。
 何故だかそうしなければという気持ちになった。否、そうしたいと、身体の何処からかが訴えた。
「うん。丁度いいくらいのコップがあるから、ちょっと待ってね」
 少しだけ残念そうな顔をみせた妹に、悪いことをしたかなと申し訳なく思いつつ、しかし戸棚からとりだされた掌ほどの小ぶりなコップを黙って受け取った。
「サンキュ」
「うん」
 人差し指の腹ほどの花弁がいっぱいに開いた八重の花。可憐な花は目の前で哂う妹に相応しく思うのだけれど。透き通るような白色に、一護は記憶の誰かを見たような気がした。けれどもそれが誰かは思い出せなかった。




『グ‥ッモーニンいっちごぉーーおふッ!?』
 (バカめ‥)
 恐らく自分のいないベッドに思いっきりダイブしただろう父親の間抜けな声に、一護はダイニングのテーブルで朝のコーヒーを飲みながら吐息した。

 戦場から生還した武者の如くにリビングへ現れた一心は、どこまでも芝居がかった動きで一護のもとまで歩み来るとがっしとその肩を抱いた。
「やるな一護!見事なトラップだ‥っ!」
「暑苦しい」
 青春の汗を流してそうな父親が親指を立てるのに、その顔を容赦なく掌で押しやるが、一体何の意地を出しているのか肩にまわされた腕は外れない。
「な・ん・だ・って・ん・だ・よ‥」
「ふはははは甘いぞぉ一護ー。父さんはなーまだ負けたわけじゃあないんだー」
「意味分かんねぇよ!」
 そのまま膠着状態が10分ほど続いた後で、リビングへ降りてきた夏梨によって一応の終着をみせた。持ち越されただけなのかもしれないが。
 それで、解放された一護は遊子が出来上がった朝食を並べるを手伝うために立ち上がり、一心は筋肉の強張った首筋を擦りながら自分の席へと向かおうとしたときそれを目に留めて足を止めた。
「おい、一護‥。これどうした‥?」
「あん?知らねー。部屋に置いてあった」
 一心の見つめる先にはあの花がコップの淵によりかかり、しとやかな風情をみせている。
 興味なさ気に背中を一瞥しただけの一護は、一心の表情が常からとわずかながら変化していたことにも、彼の声が多分に緊張を孕んでいたことにも気付かなかった。


 白く、白い、可憐な花弁。
 それは現の世には咲かぬ花。




 □




 晴れ渡る蒼天に雲は悠々と流れ、心地よい初夏の風が瀞霊廷の人々の肌を撫でる。
 人の声も遠い廊下を行くのは、銀髪をたて、白の陣羽織の背に十の文字を負う少年と、彼の一歩後ろにつき従う、同じく十の文字が刻まれた腕章を帯代わりに腰を締めている女性であった。護廷十三隊・第十番隊隊長日番谷冬獅郎と、彼の副官、松本乱菊である。
 松本はこの数日、己の上司がどこか浮かれた様子なのを薄々感じ取っていた。しかし周りの人間の誰に尋ねてみても、皆一様に首を傾げるだけで。ともすれば何の変化があるのかと逆に訊ねられたりもする。
 しかし彼女には分かるのだ。
 浅からぬ付き合いの上司が、確かに、この数日何事かに心浮かせていることを。
 今日も前を歩く彼の足は軽やかで。背中は後方の敵を微塵も疑っていないほど油断している。
 (片時も緊張を解いたことのないお方が‥)
 ここまでくれば天変地異の前触れか。
 いかに表情が眉間の皺一本変わらないからといったって、この男のもつあの頑なな空気は今や大気に融けてなくなりでもしたかのようだった。
 (気持ち悪い‥)
 それが上司に向ける言葉かと、不敬罪にも処されかねないがそれはそれ。口に出さなければいいのである。
 だからこの数日松本は喉に刺さった小骨の如く気になって気になって歯がゆくさえ感じているこの謎を解くことに腐心していた。
「あのー‥、隊長ぉ‥」
「なんだ」
 怖々かけられた声に日番谷は振り向きもせず応えた。
 その声音といい、反応の速さといい、以前の日番谷となんら変わったところはないのだが、やはり拭えぬ違和感に松本は次の言葉に迷った。
『最近何かいいことありましたか?』
 そんな問いかけでは他愛無くはぐらかされてしまうだろう。否、はぐらかされもせずに一刀のうちに断ち切られてしまうかもしれない。
 何もない。とそういわれてしまえば松本につづけられる言葉はないのだ。
 松本がこの話題にふれるのはこの時が初めてだった。
 これまでにも何度問いかけようと思ったことか。そのたびに何かしら邪魔がはいるのだから不思議だ。しかしその邪魔も普段の生活に突如として飛び込んできたものではなく、書類の提出であったり整理であったり、友人の訪問であったりで。つまりは常日頃から忙しい、とそういうわけなのだ。
 それが何の用件かは知らないが突然の総隊長からの呼び出しを受けてこうして話す機会を得られた。今は一番隊詰所へ向かう廊下なのである。
 地獄蝶が執務室の窓に現れたときは松本も何事かと構えたが、一方の日番谷はというと実に綽々としてその連絡事を聞いていた。まるで伝えられる内容を既に知っていたかのような余裕ぶりだった。
 地獄蝶の言葉はただ一言、総隊長の十番隊隊長を召喚する旨であった。
「なんの呼び出しでしょうね」
 結局言葉が見つからなかった乱菊が見繕ったのはそんな、日番谷の興味無さ気な応えが返るだけの言葉だった。



 次の角を曲がれば総隊長のおわす一室が見えるというところ、知った顔がその角から現れて松本はあら、と瞠目した。
「七緒、あんたも総隊長のところへ?」
「あら乱菊さん、と日番谷隊長今日は、いいえ私は京楽隊長を探しているんです」
「いつものところじゃないの?」
「いないんですよ‥」
 苦渋満点。日頃のセクハラに加えて放浪癖のある上司に七緒は苦笑してみせた。
 歩みを止めないまま言葉は交わされた。直接総隊長の呼び出しは受けていない松本としては足を止めて彼女と話したい気持ちもあったのだが、七緒の挨拶にも目だけで応えたらしい日番谷に先を急ぐのだと考え直す。
「じゃね、七緒」
 擦れ違い様にその肩を叩こうと左手を上げながら、しかし寸前でその動きは凝固する。
「日番谷隊長、返事は来られましたか?」
 彼女が声をかけたのが自分の一歩前を行く日番谷で。それが意外といえばあまりに意外であったから。
 丁度二人が並んだところだった。
 二人の間にたつ形になった松本は七緒の肩に届かない手を浮かせたまま日番谷の動向を待った。
 ゆっくりと七緒へ向けられた瞳は変わらぬ上司のそれで、思わず松本は七緒の心配なんぞをしてしまった。理由もなく暴力を働くような無頼な彼ではないが、意味もなく威嚇するような浅はかな彼でもないが。とかくその眼は徒らに人を恐縮させる。
 しかし七緒は柔らかに微笑して、日番谷の応えを待っている。
 日番谷も元から彼女を威圧しようなどとは考えていないのだ。松本の憂慮を挫く実に素っ気無い調子で応えた。
「元から返事なんざ期待しちゃいねぇよ」
「あら‥それは‥」
「あっても面倒だからな」
 残念そうな顔をみせた七緒に日番谷は哂いながら顔を前方に向ける過程でそう云って、驚いた顔をする七緒を残し再び己を召喚した人物の下へ歩き始めた。
 七緒とともに残されそうになった乱菊は慌てて同僚に別れを告げると、上司の後を追った。
 二人の会話の内容など、彼女にはさっぱり分からなかった。




 あの花を知っている。
 黒崎一心は息子が自分の部屋へと持って上がった花を思い出しながら難しい顔をしていた。
 白衣を着ているのは仕事中だからなのだが、腕を組んで診察室に座る彼は傍らの患者など目に入っていないようだ。先ほどから不安げに己を呼ぶ声もまったく耳に入っていない。彼は患者のカルテを凝視して、そんな顔をしているのだ。患者に心配するなと云うほうが難しい。
 白く、白いあの花は向こうの世界においてさして珍しい花ではない。だが、それを摘もうという者はそういない。
(あれを贈るってこたぁ随分古式床しき人物だろう‥。それをあいつどこで見つけたってんだ‥)
 が、あの花の意味を息子知っている素振りはない。すると一方的に‥
(だとしたら参ったな‥。やけに情熱的な相手だ)
 彼は眉間の皺を深くしながら自嘲気味に唇を歪ませた。
 面白い、と思い始めている。
 あの花を贈った相手、それを想像しながら彼は事の行く末を楽しみ始めた。
(いってぇどんな女だか‥)
 深刻な顔をしていると思いきや怪しげに哂いはじめた彼に、見守っていた患者は病院を変えよう‥と決意した。


 古の習慣に歌を贈るというものがある。
 己の想いを文にしたため、時にその意を準えた花を添える。
(だがあの花はそんな生易しいものじゃあないんだ)



――――――その昔、盗賊と姫が恋に落ちた。