『何か大切なものを忘れていると――――』




 忘れてはいけない、何か――――


 現れた総隊長一団に移した視線の隅で橙色の頭が揺れた。十二番隊の羽織をまとった見知らぬ男が、軽薄そうな不精髭の頬を緩ませ背後の旅禍に行けと促す。知らぬ橙、明るい陽の下でそれはもっと明るく山吹色の、髪した少年が一隊の副隊長に指図し地を離れる。咬みあわせた鎬の感触を掌に握り締めたのは、思い出そうとしたのだろうか。己はあの眼を知っていると――――
 冬獅朗の眼に橙色が棚引き消えた。



 耳元で悲鳴のように高く啼き流れた風を見送り、冬獅朗は廃墟の外壁の突き立つ日暮れの丘を見上げた。小高いそれは冬枯れの景色の中、実に悠然と時の無常を顕現し、懐に隠す霊圧さえ溶け込ませようとしているようだ。
 影から一歩爪先を進めればそこから先は広大な原野だけがあり、今、彼が肘をつき、日の中に顔を出す出口の代わりとなった建造物の名残も岩石の類もひとつとして存在してはいなかった。唯只、ひたすらに風踊る野原が広がり、遠くに霞む山間が空中に浮かぶようにして見えるだけだ。
 冬獅朗は声を発さなかった。通常、先客のいる場所へ、それと知って赴いたのであれば何かしら一言挨拶するのが礼儀だと承知してはいる。弁えてもいる。だが、冬獅朗は先だってこの景色に休んでいる客に視線を落とすこともしなかったし、声を掛けることもしない。言葉を探しあぐねていた。
 目に鮮やかな山吹は茜色の大気を含んで色を濃くして冬獅朗の眼下にあった。視線をくれないのも、挨拶をくれないのも己と同じだ。だのにそれが焦らしい。
 思い出しているものならあるのだ。
 記憶という、実に曖昧で頼りなく、信じるに疑わしい好い加減な脳細胞の記録。そんなものを盲信する余りに、己の魂に従えなかったのだ。
 違和感ならばあったというのに。

 思い出しつつはある。だけれどまだ、知ってはいない。


 迷いを振り切るように冬獅朗は先客の隣へ腰を下した。座り心地は悪い。草は横たわる石を避けて生えてはいるが、細かな石塊は草に紛れて転がっている。直に沁みるような冷たさが袴を通じて伝わってくる。
 先客は冬獅朗を垣間見たろうか。冬獅朗はその気配を察したつもりだったが確信はなかった。先客の名は知っている。――――黒崎一護


「思い出したのか?」
 唐突に先客である少年は声を発した。否、待っていた切っ掛けではあるから唐突といってはあまりに無様だ。冬獅朗は知らず躁状態にあるらしい自身を諫めて通常の声音で応えた。
「お前の名前はな。他の奴らも直ぐには記憶を取り戻せずにいるらしい。少しずつ、元の状態に戻るだろう」
「そうか…」
 答えて冬獅朗は、少年の訊ねたのは朽木ルキアに関することだっただろうかと思案した。だとしたら己は全く的外れな回答をしてしまったことになるのだが、そうかと流してくれた返事には冬獅朗へ気を使った雰囲気を感じ取れない。冬獅朗は話を少年に関する方向で進めて良いかと断じた。どの道行きつきたい話題は其処だった。回り道という保険が無くなったことは然したる問題にはなるまい。
「黒崎、一護、だったな」
「あぁ」
 少年の声が緊張している。沈み行く太陽の行方を追う眼差しはそのままに、肌を刺すような緊張感が伝わってくる。正直なんだなと覗いた横顔からも霊圧からも汲み取った。
「疾うに現世へ戻ったと聞いていた。此処に居たのは何故だ?」
 あぁ、違う。違うのだ。こんな訊き方をするつもりでは。
 己は言葉を選べない。否、選んでいるつもりが、口に、声に出したところで全く別の意味に変容してしまうのだ。声の質がそうさせているらしいというのは分かるのに、予め声音を作ることが出来ない。
 下手糞なのだ。
 冬獅郎の問いに迷ったのだろうか、逡巡するらしい間があった。
「そのつもり…だったんだけど、俺だけ何もしねえで帰るってのも、な。悪くて」
 手伝うつもりで残ったのだが、結局何も出来ずにぼうっとしていたと少年は言った。出来なかったのではなくさせて貰えなかったのだろう。掟に厳しい分義理にも堅い。返って持て成されようとしたところを逃げ出して、
「更木にでも捕まったか?」
「――っ、………分かるか?」
 罰の悪そうに身を縮め苦笑いする一護に冬獅郎も思わずくつりと喉を鳴らした。何より戦いを求める十一番隊長は強い奴とみると戦いを挑む癖がある。黒崎一護の力の程は既に十分知れ渡った。そんな一護に戦いを挑まない訳がない。
「災難だったな」
「あぁ。何度も逃げてるってのによー」
「何度も、か」
 あ、と口を滑らせたとでも言うように一護は冬獅郎の表情を窺って口を噤んだ。やけに気に掛けるものだと、刃を交えた折との違いに可笑しくなる。そんな顔もするのかと。そんな、子供らしい一面も――――
 俺は知っている筈なのじゃないか

「何故、ここに来たんだ?尋問されるような情報なんて持ってねえぞ」
「……………。俺とお前の関係について」
 持ち直したか、冬獅郎と己は深く知り合ってはいない仲なのだと示すように頑なな声音を作った少年は、しかし正直に肩を強張らせた。冬獅朗へ対してわずかに背けられた顔は絶妙な角度で表情を読ませない。だが、陽を追う視線が無くなり、彼の霊圧の動揺が静まりきらないことは冬獅朗の舌を滑らかにする助けともなった。少年が己の言葉に耳を、神経を研ぎ澄ませていることをもはや注視して確かめながら冬獅朗は唇を開く
「俺が思い出したことは名前だけじゃない。俺の…」
 そこでたっぷりと間を取って
「お前を好きだという感情だ」
 感情を思い出す。不可解な表現だろう。だが実際にそうとしか言い表せられない不可解な心地なのだ。
 好きだという好意の感情をまず思い出す。その人物の顔といえば、旅禍として捕らえようとした戦闘の間のものしかなく。個別認識である氏名でさえ、顔と一致するのかしていないのか曖昧な感覚であるのに『好き』だという。己はこの少年のことを好きだという。狐狸の類に化かされているかの如き感覚だ。少年も理解しかねているのだろう、背が問いたがっている。

「お前を好きだと思うのに、俺はその理由を思い出せない。これから思い出すのかもしれないが、待っていられずお前を探した。この目で確かめたかったんだ。俺が覚えているのは…知っているのは今日出会ったお前の顔と、以前から知っていたようなお前の名前だけ。なのにお前を好ましいと思っている。……特別な意味で。
 これが一方的な想いならばその確信も同時に思い出しただろう。だが俺はこれが一方的なものだと思っていない。俺はお前に会わなければならないと確信した。
 この確信は、間違いか?」

 問い掛けは少年へだ。確信が間違いではないという確信を持つ己に少年が否定する言葉を探しもしないだろうことすら確信していた。




「ルキアの…
 ルキアに関する記憶が皆から消えたのは前にもあった。」


「ルキアが俺に死神の力を譲渡した罪で尸魂界へ連行された時だ。
 あの時にもどうしようも無ぇくらいの寂しさ?っつうのかな、を、覚えたもんだけど。今度のはなんだか、輪をかけてというか…」
 もっと、ずっと嫌な予感がしたんだ、と冬獅郎の問いに答えるではない黒崎一護はぽつぽつと言葉を零した。胸に溶けて溜まった言葉の海から辛うじて形を成す言葉の残骸を拾い集めるかのような話し方に冬獅郎も口を挟むことは出来なかった。
 あれってさ、お前に忘れられてるかもって、思ったからかなと告白した一護の表情を冬獅朗は生涯忘れえないだろう。それほどに少年の声は彼の胸の内を訴えていた。
 一護の明かした己の胸の内、苦悶に歪もうとする表情筋を無理やりに笑顔にしようと引き攣らせ、泣き笑いの哀れな表情となった潰れそうな胸の痛みを押し抱く子どもの悲痛な努力が、怜悧な刃物となって冬獅朗の心臓に刻まれた。肉を削り、皮膚の下に墨を留めるよりも深く濃く、一護の健気さは、天の邪鬼さは冬獅朗を一護に留めて已まない。いっそ糾弾してくれれば楽なのにと、償いきれぬ罪の重さに歯ぎしりし、その通りに冬獅朗は請うた。

 掴んだ手頸は未だ少年の域を出ない己のものより太く、引き倒すに肌蹴て見えた襟首の頼りなさ、掴もうとして地に付くことへ避けた肩も恐らくは同様だったろう。立派に肉はついていると着物の上からでも分かるのに、少年から青年へ変遷する途中の若々しいしなやかさは、それ故の危うげさは全身にあった。危うげだなどと思うのは冬獅朗個人の見解だと十分に理解していた。そう考えるのが、冬獅朗個人の感情によるものだと、冬獅朗自身十分に――――。
 自身に跨り被さる冬獅朗の下で、一護に大きな動揺は見られなかった。必死なまでの縋るような眼でいることが彼自身良しとしないことだろうというのは冬獅朗にも分かっていた。だからこそそんな眼をせずにはいられない一護に冬獅朗の心臓はさらに強く引き搾られるのだ。滴る血の一滴もなくならんとするほどに。


「お前は、真っ先に俺を諦めただろう?」


「お前は真っ先に俺を諦めた。そうだろう?」
 声の胸底から這い上がるような声音になるのを抑えられない。責めるのは己ではないのに。
 少年の目が大きく見開かれている。大きく揺らめいて、夕陽の色を湛える様は美しかった。泣き出しそうな色だった。
「俺に忘れられても仕方がないと考えたのか?いずれ思い出すならばそのときでいいと?何故…ッ」
 違う。違うのだ。止めろ。止めなければ。
 責めるべきは己じゃあない。
 己は今も思い出せていない。少年の名前、死神となった由縁、それだけだ。それと、己が彼を好いているということだけだ。特別な意識でもって。

「………俺を詰れ。でなければ、殴れ」
 まだお前の名を呼ぶことも出来ずにいる俺を。名を呼ぶことを許せない俺を。

 言葉が真摯な想いに届かない。
 お前は俺を殴っていい。声の限りに罵倒していい。だのに。だのにそうしないのは何故だ。
 地に浸み込んでいくかのような重苦しい口舌にその言葉を乗せることが出来ない。一護の冬獅朗を責めない理由など分かりきっている。他人のためには命を掛けることは厭わないのに、己のこととなると途端に無頓着だ。
 分かっている。分かっているのだ。
 分かりすぎているためにこんなにも言葉を奪われる。

「一護………一護、頼む…」
 我慢、しないでくれ
 不思議だ。名を呼ぶというそれだけで、己の中の何かが変わっていく心地がする。冷え切っていた胸の奥から湧き上がる温かいものがある。「一護」と彼を呼ぶことは、甘い水を口に含むようなものだった。
 素肌と着物の境界線、襟にのぞく鎖骨に額を押し付けて冬獅朗は懇願した。することもされることも、知ることはないだろうと、想像していた執着の味は酸っぱく苦い。分厚い壁の向こうに両腕を乞い伸ばすことの無意味さ、非力さを今、味わっている。だが、
 それこそが俺への罰なのだとしても、俺は抗うだろう。
 罰ならば撥ね退けられないほどの強力な圧力でなければならない。
 反駁の意志さえ奪うほどの絶対的な権力でなくてはならない。
(お前にはそれがないんだ)
「一護………一護…、一護」
 一護の肩に伏して冬獅朗は唱える。這い蹲る男の下にある体勢を変えようとする気配もない一護の泣き笑いの眼を想像しながら、幻影に過ぎないであって欲しいと都合の良いことを考える自身を嫌悪しながら、そこまで弱くなってしまう己の容易さを冷静に観察しながら。
 一護、一護と繰り返す。声にならないまま繰り返す。
 一護、一護、一護、一護
 まだ、まだ、まだ、まだ足らない。全然、ちつとも、呼び足らない。お前への想いに追いつかない。
 冬獅朗は「一護」と決意を込めた面持ちで身を起こした。握っていた拳を地に開く。土と草の感触とがともすれば肉体から乖離しそうな精神を繋ぎ止める。両腕の間に見下ろす顔はやはり泣き笑いの顔だった。静かに閉じあわされる唇の裏では歯を食い縛っているのだろう。両の眼はまっすぐに冬獅朗を見返すが、笑うには引き絞られた柳眉が裏切っている。
「一護…、俺を、詰れ。でなければ殴れ。でなければ…」
 泣いてくれ。
 俺の為に、泣いてくれ。お前の為に…
「てめえは…」
 揺れた一護の眼を冬獅朗は見逃さなかった。たとえ斜陽に影になろうと、濃い茶色の黒目が蠕動するように揺れ、眼を潤す情動が湧き起こった瞬間を冬獅朗は見逃さなかった。
「勝手だ。何のために、誰のためにだって?何でテメエなんかの為に俺が…っ」
 泣かなきゃならないんだとその叫びは形にならなかった。冬獅朗の体があるために手で顔を覆えぬ一護は声を詰まらせ、嗚咽を噛み殺して尚堪え切れなかった激情を眼から溢れさせた。鼻へと通るそれを啜り上げながら、物言わず彼を見下ろす男を睨みつけ肩肘を張って眦から米神へ、耳殻へと冷たく冷えては滴り落ちる言葉にならなかった激情を流した。
「俺を…っ」
 知らないと言ったんだお前は。記憶にないと。片鱗さえも覗かせない無感情な瞳に俺を映した。
 それこそが罪だと叫ぶ一護の痛みを冬獅朗は聞き取っていた。言葉にならない一護の叫びを確かに聞いていた。

 分かりすぎるほど分かるから言葉を奪われる。
 理解しても伝わっても、言葉にしなければならない必要がなくなる訳はないのに。
 捧げるべき言葉は五万とあって、それらが一息に出ようと雪崩を起こす。言い訳さえ出てこないこの歯痒さ!

 言葉は無力だ。噛み締めている。だのに今ほど言葉が必要なことはない。言葉でなければ与えられない安心がある。言葉にして伝えなければ意味を為さない誓いがある。
 無言の誓いなど独り善がりだ。

「愛してる…」

 俺の心の在り処。魂の休まる場所。愛しい……愛しい、

「一護、愛してる」

 お前を好きだという感情だけは思い出している。そう俺は言った。
 お前を好きになった理由はまだ思い出せない。そう言った。
 だが今俺の口から滑り出ている思考の余地も与えないこの言葉。
 これが俺の有りの侭というものなのだろうか。真実であり、誓い、なのか。
 分からない。お前のことは分かるのに。痛みを分かち合う程に分かるのに。

「誤魔、化すな…ッ」
「誤魔化してなどいない」
 それとも誤魔化すような男だったのか?お前の前での俺は。
 揶揄のつもりなど無かったが意地の悪い質問にはなったらしい。泣き顔を見せまいと背けた顔が唇を引き結ぶのが見えた。怒る肩が拳を震わせているだろうことは容易に想像がつく。いけないと思うのに、顔の強張りが溶けていく。目の細まるのも口元の解けるのも、引き締めようとして出来るものではなかった。両腕の筋肉だけが己の体重を支えるために緊張し続ける。

「俺を好きになった理由だって思い出していないんだろう!?」
「理由なんて無かった。お前を好きになったことに理由なんて無かったことを思い出した。いや、もう一度好きになって分かった。理由なんてないんだ。必要もない。ただ、お前を好きになった切っ掛けだけが有る。それ以降、好きで居続けることに理由なんて必要ない。お前の容姿だとか仕種だとか言葉だとか行動だとか、そんなものに理由を求めるなんて愚かだ。いや、分けられるものじゃないんだ。お前の眼、鼻、口、指、それぞれが好きだと上げ連ねることは出来る。だけれど、お前の全てが好きだということをそれら一々に細分化して伝えることは今はまどろっこしい。
 お前が好きだ。それだけだ。笑うか?俺はお前に二度恋をしたことになるんだぜ」

 何十年も、百を超える歳月を数えても恋るということを知らなかった己が。お前という人間を知って一年(ひととせ)もしない月日で二度。二度もお前に恋をした。

「恋を、したんだ。お前に」

 今もしているんだ。

「お前が受け取ってくれなければ、俺は恋情を抱くばかりだ」
 交わされない情は恋のままだ。だから「言ってくれ」と冬獅朗は一護に請う。己に注がれる視線から庇おうと顔の傍まで持ち上げられて草の上に寝ている一護の左手を視界の端に見止めつつ、冬獅朗は背けるために差し出されるような彼の右耳に唇を寄せて
「言ってくれ」
 と囁いた。耳殻を擽る声音に首筋を粟立たせる反応を見せ、一護は屹度泣き已んだ赤い目を向けて
「言っただろ」
 と掠れた声で威嚇する。至近にある男の貌に罷り間違って己の肌の一部でも触れないようと怖じる様な声だと冬獅朗は唇を弧に弛ませる。見咎められればそっぽを向かれる。そうと知りながら御せない。御すこともしなくていいと己は知っているようだった。だから冬獅朗は遠慮するどころか唇を一護の米神へと移動させ、橙色の髪の上から滑らかな皮膚に唇を押し当てて
「聞いていない。今の俺には聞かされていない。
 言ってくれ、一護。俺の為に…」
 俺の為に。そうか。他人の為には底なしにお人好しな一護であるから、己は『俺の為に』などという自分本位な表現さえ使っているのか。一護が許してしまうから。許す限りのところまで附け込むのか。
 推測が確信へと変わるから、冬獅朗は一護の瞼へ、鼻筋へと唇を滑らせ、額を擦り合わせ、触れないぎりぎりまで言葉を聞こうとする其処へ唇を寄せて、戸惑いに震えた一護の其処を注視し言葉を待つ。
「聞かせてくれ、一護。お前の言葉で、声で聞きたいんだ。俺に聞かせてくれ。お前の心からの言葉を」
「馬鹿、ヤロ…」
 弱弱しい詰りの後に、冬獅朗の望んだ言葉は与えられた。
 ずっと失っていた奪われたものを取り戻せたというように、その言葉は冬獅朗の胸にゆっくりと染みていった。










2009/01/04  耶斗