十万打御礼;(陰間)






 久しぶりだね。と男は笑った。
 地面に足を投げ出す己に腰を折って。壁と男の体の間に俺を閉じ込め、外の目に触れさすまいとするように。
 男の纏う空気を嗅ぐのは久方ぶりだった。どうしようもなく隠微なそれは、常ならば眉を顰めさすことも、瞳を潤ますこともさせる。己の意思がどちらに偏っているのか判然とさせないけれど、今ばかりは目を開いていることさえ億劫だ。
 酷くしていい?と男は訊いた。
 それはどういう意味か。そういう意味だろうとは判じながら、今の己の態を見てそんな台詞が出るなんて並ならぬ人でなしだ。嗤おうとして切れた口端は歪んだだけだった。
 だから止めとけって云ったのに。と男は、呆れているのか嘲笑っているのか哀れんでいるのか陰を被っていて。それでなくとも霞む視界では表情を読むことなど出来なかった。
 あれからどれくらいが経ったろうか?男と最後に顔を合わせたのはいつだった。あの時には男からこれほどの、あからさまな陰の気配を感じたろうか。
 あぁ、怒っているのかと分かった。分かったといっては語弊があろうか。それはきっと理解ではない。もしかしたら察知でさえない。ただの思い込みだ。自分がそう、思いたいだけなのだ。何のために?どういった理由で?そう思われたい?
 襟を掴み、引き上げられて大きく肌蹴る。伸びた腹の打撲傷が痛んだ。肋骨の突き刺すような痛みに、やがてそこへ広がるだろう青痣を思って溜息が出た。
 だから云ったのに。
 男がまたぼやいた。怒っているというより拗ねているような風情に知らず喉が笑った。
 ここはアンタの街じゃあないんだよ。
 面倒くさそうな口調は相変わらずのものだ。出会いがしらの険も取れている。さすがに大怪我を負っている人間を傍らに担ぐのであれば意気も萎えていくというものなのだろうか。らしくないじゃないか。お前はより怒気を増す奴なんじゃないのか。飄々としているようでいて全てを見捨てているようでいて睥睨しているその双眸はその実全てを見守っているのか。腕(かいな)に抱(いだ)いているのか。
 あぁ、夢を、見ているのだ。
 そんな想念ありえないことだと、引きずられながら歩こうとする己の足の、元の色を留めていない土に汚れた足袋を見下ろしながら首も振れず振り払う。振り払おうとして、離れない。しばらく浸っていたいのだとでもいうように。己の甘えた無意識が。自覚したくない意識が。
 男の首へ回され、男の右手に手首を掴まれた右腕の、肱から肩にかけての骨だか筋だかが軋む。肩まで捲くれ上がった袖に、柔らかな肱裏の皮膚が男の頸の皮膚と密着している。吸い付くようなのは汗を掻いているからか。それならそれは己の油汗だろう。今もじりじりとした一歩を進めるごとに全身の毛穴から吹き出る脂汗が、未練がましい女の恋情のように男と己を貼り付ける。
 冬獅郎…?
 己は呼んだ。
 なに?
 男は応えた。何の気なしに呼んだのだと分かっている声だった。
 冬獅郎…
 己はもう一度呼んで、今度は応えない男は己の言葉の続きを待っていた。続きを待って、そして、吐き出した己を慰める準備をしていた。
 悔しいよ…
 狭っ苦しい路地に二人飲み込まれていくように進みながら、夜の喉管から吐き出されるのを厭うように、風の通り抜ける口外よりも、街中の滓が流れ込み何倍にも濃度を増した泥臭い陰に沈んでいたいというように、だらりとぶら下げていた左腕を持ち上げ男の袂にしがみ付いた。項垂れる頭(こうべ)に血が溜まって視野が狭窄する。眼球が焼かれるように痛み始めるのは膨張する管のためか。滴り落ちたのは汗か血か。咽び泣いているのは己か。




 遊女が死んだ。
 紅い襦袢の女が死んだ。川に浮いていたところを掬い上げた。土座衛門は膨らむ前で、蝋のような白い肌に乱れた髪の黒々としたのが生々しい。周りを囲む群衆を掻き進んで、漸く前へ出た一護は、しかし肩を押された。曰く
「アンタの出る幕はねぇ」
 これは俺ら(廓)の問題だと。
 なんだそれは、俺はこの町を任されたんだと反論しようとして、さらに背から己の肩を抱く腕があった。
「悪ぃな、まだこの町のことを分かっちゃいねぇんだよ。俺の顔に免じて許してやってくれ」
 誰だと、振り返るまでもなくその顔を察せた一護は、その声が今ここで、耳の傍で聞こえたことに唖然としてしまって。引き摺られるまま人の輪を後にした。
 遊女が死んだ。
 無理心中か、終わらぬ苦役を恨んでの自害か。どうあれそれは、その町の保安を任された者に課せられる問題の筈だ。人の世に云うありんす国。春を売る町は世界を変えても、女と男が分かれる限り存在し続けるのだ。死神が秩序を保つ世界にさえ。
「この町に死神をよく思ってる奴なんかいないんだよ」
 いい加減学習したらどうなんだと、一護をあの場から連れ去った男は2階の自室に着くなり一護を放り出した。畳の上へ尻餅をついた一護は男を鋭く睨み上げて
「それでも事件なら俺(死神)たちの仕事だ!」
 と強く言い返した。それにも男は呆れたような溜息を重々しく吐き出して
「よくアンタみたいなのが回されてきたもんだ。いや、アンタだから、なのかな。そんなでどれだけ持つか楽しみだね。別の意味で」
「どういう意味だよ‥」
「その内分かるさ」
 襖を閉めた男はぶらりと手を振ると一護の脇を回って窓の桟に座った。開け放しの障子窓には窓の半丈ほどの手摺が付けられ、やや外に突き出している。其処は男の定位置だった。一護も窓へ身を翻して胡坐を掻く。足首を両手で握った。
「俺はこの町に派遣された。ここを安全に保つのが俺の仕事だ。町には町の掟があるのは承知しているが、弾き出されるのでは堪らない。俺にも俺の役割があるんだよ」
「この町はアンタを必要としない。アンタら死神が派遣されるのだって建前さ。この町を利用する死神のための、な。お飾りなんだよ。事実、今まで派遣されてきた死神たちは格好の骨休めと、いい加減に遊びまくっていったぜ」
 一方じゃ閑職とも呼ばれてるそうじゃないかと揶揄る男に一護は猛然と反論した。仲間を愚弄されることを何より嫌う。
「そのような輩はそうそうに任を解かれて別の地へ派遣された!この町で勤め上げられる者こそ必要とされる能力を有しているということだ。俺はこの任を果たしてみせる。ここも俺の‥」
「護る町?」
「‥そうだ」
 己の言葉をとられてやや面白くない一護も、何度と無く言い合ってきただけに仕様もないかと引き下がる。気がつけば、此方へ向き直っていた男の顔は贔屓目にも楽しそうではない。正直に評せば気分を害している。しかし己の意見を反すことは出来ないのだ。死神として、死神の沽券は守らなければならない。
「アンタは欲張りだよ‥」
 嘆息して、立ち上がった男の言葉を一護はよく聞き取れなかった。問い返そうとして男を見上げたが、そこに認めた表情によくないものを感じ取る。
「俺がいなきゃアンタ、この町でやってくことなんか出来ないんだぜ?」
 声は厭くまで軽いままだ。軽く見せているままだ。だがその眼差しが‥
 足首を掴んでいた手が拳を作る。屈みこんで来る男から距離を取ろうと身を傾げ、男は一護の顎を指に掬った。長く、節くれだった男の指が、添えるだけで視線を捉える。そのまま近付こうとした顔へ
「手前の言ってることは一々分っかんねぇし癇に障るんだよ!」
 と、一護の平手が正面から押し返した。一護の指の隙間から恨めしそうに見下ろす緑の瞳を、一護は負けじと睨み返しながら、今度は擽ってくる顎の指を叩き落として云った。
「俺は!俺のやりたいようにやる。うざがられても袖振られても、それが俺の仕事だ。俺は俺の仕事を果たすっ」
 それだけ云えば用はないというように、勢いよく立ち上がった一護は叩き付けるように襖を開け放して階下へ降りていった。板敷きを鳴らす派手な足音に、暫らく彼を見送っていた男はふと苦笑した。
「あっつい野郎‥。可愛いねぇ」
 憎まれ口も天下一品。
「アッチの世話までしたくなっちまうじゃねぇの」
 咽喉を鳴らして哂いながら、その声は険呑だった。
「くそ‥っ、あの野郎‥」
 歯噛みしながら一護は昼の花街を歩く。見回りも兼ねたウサ晴らしだ。先ほどの件の聞き込みもしたかったが、死体は疾うに片付けられて居所も知れない。皆協力しないのだ。その鬱憤まであの男に投げつける。
 一護は彼を陰間だと紹介されていた。男も己を陰間だと説明している。確かに花街に生活するもの独特の空気を男は身につけているし、陰間茶屋の2階に居を構える彼は顔も広い。しかし我儘だ。気に入った客しか取らないし、どうやら男、女と関係はないらしい。気に入ったら金勘定もどうでもいい。一護のように。
「違う!断じて違う!」
 はっと我に返り、一護は己の思考を否定する。己はあいつを求めちゃいないし認めてだっていない。今まで行われたことは全て不本意なのだ。不意打ちだ。決して合意のもとなどではない。
 立ち止まってぐるぐる考え続けている一護を不審な目で見ていく人々にも気付かない。過去の数ある所業を反芻しては顔色を青くさせていた一護だったが、漸く現状を思い出すと何をおいてもまずは報告だと、町を出たところにある詰所へ向かった。




 記憶は曖昧だ。
 詰所での情報集めの後、聞き込みのために街へ向かった。現場検証さえ碌に叶わなかった原因の人間たちの陰に、どの店(たな)も口は重く、死んだ女の店の仲間たちさえ目を合わそうとしなかった。そのうちの一人がようやく顔を向けたかと思えば、先の男と同じ忠告をくれただけだった。
 ―――やめときなよ。何も無かったふりをするのが一番いい
 そんなわけがないだろう。
 一護は諦めなかった。不安が無かったといえば嘘になる。裏で取り仕切っている人間たちが、この街においては死神よりも有力であるということも十分に承知していた。それでも課せられた仕事を全うしようとするのは矜持よりも沽券よりも義務のためだった。報いなければならない人がいた。死んだ女への同情もささいなものに思えてしまうほど、絶対の人がいた。
 一護は今、男の匂いが染み付いた布団に仰臥し、未だ明けぬ空の色に染まる天井を見つめている。その色にどこか郷愁めいたものをなぶられるのは寂寥感が身のうちを占めているからだろうか。寂寥というよりは寂獏としたものだ。こみ上げる哀惜などというものはない。何もない時間、空疎な空間においては過去の由無し事が思い出される。思い出すだに無駄な記憶が。
「一護さん」
 一護が起きていると知っていたのか、声をかけながら襖を開けたのは冬獅郎だった。一護の寝る寝具の持ち主であり、部屋の主だ。薄墨の中にあってさえ彼の白銀の髪は身を潜めるということはない。
「眠らねぇのかい?」
 眠ればいいと男は云う。それは、状況だけを問うならば心遣いの言葉ととれなくもないが、彼の瞳がそれを裏切っている。瞳と、白眼とそれが構成する眼と、付随する表情筋が。
「眠りなよ、一護さん。気が張って眠れねぇってんなら抜いてやるぜ?」
 揶揄ではなく男が笑ってみせる。歪めた口端をじっと見詰めて、一護は目を伏せた。男の顔をみて何故だか張っていた糸が緩んだようだった。
「そう、それでいい。眠りなよ、一護さん。今はただ、眠りなよ」
 男の手が額の髪を梳き上げる。彷徨う指先が愛撫めいてこそばゆかったが、疲労が急激に肉へ還元されて下ろした目蓋を引き上げるほどの力も無い。長い息を吐くと、そのまま沈み込むように眠りへ落ちていった。
「それでいい、一護」
 男の眼差しが変わる。揶揄が揶揄になりきらなかったのは、瞳に膜を張ったものがあったからだ。今、その膜は剥がれ、ぎらぎらと本来の色で輝き出す。兇暴な視線を畏れるかのように、開かれた窓から吹き込む風は無かった。




 困るんだよねぇと薄ら笑いを浮かべる彼を男たちは物珍しげな目で見返した。一目でやくざ者と分かる男たちになんらの怯えを見せない彼が、男たちには不可思議なものに映り、また、面白くはなかった。家々の隙間の陰から湧き出したように男は前触れもなく現れた。見下すような眼差しには嘲笑う揶揄があり、男たちは誇りを傷つけられたように感じたが、男の得体の知れなさに直の行動は取れなかった。
「困るんだよね、俺のものに手ぇ出されちゃさ。つまんないでしょ?」
 つまんないでしょと彼は嗤った。それは誰へ向けられたものなのか。つまらないことをしてくれた男たちの、これから創痍となる哀れみからかもしれなかったし、今、床に臥している情人へだったかもしれない。興醒めの声音にも怒気が孕まれたとして、彼が向けるのならば情人に対する言葉だとて相応しい。
「誰だてめえ」
 誰でもいいよ。彼は答えた。それよりも今夜アンタらが痛めつけてくれた死神を憶えているかと訊ねた。
「死神ぃ?あぁ、あの橙の。こそこそ嗅ぎまわってやがったからな、俺等は邪魔者を処分しただけよ。恨むんなら郭の掟を守らねぇあの死神の軽薄さを恨んでくんな」
 彼を先刻痛めつけた死神の知り合いだと合点した男たちの一人が愉快そうに答えた。人を殴ることに慣れた拳にはありありとその感触を呼び起こすことができる。不意をついて襲い掛かった死神の驚いた顔が思い出される。傑作だった。何かと首を突っ込みたがる今度の死神には彼らの誰もが、おそらくはこの町の仲間たちは誰も煙たく思っていたのだ。
 数えれば夜陰に男たちは5人いるらしかった。青白い月影の下で、着流しの袂から白いさらしが燐光を発するようだった。川沿いの道に人といえば彼らだけで、柳の青い葉が幽霊のこまねく手のように揺れている。賭博の帰りでもあるのだろう。女の家から引けてきたのかもしれない。彼を視界に納めるまでの彼らの会話から彼は考えるでもなく判じていた。
「適当にあしらってやりゃ良かったのよ。俺が怒ってんのはあの人に傷をつけたことさ。俺は俺のものに傷をつけられるのが何より嫌いでね。あぁ、もういいよ。話がしたいんじゃないんだ。アンタらがアンタらの落とし前をつけたようにね、俺も俺の落とし前をつけさせてもらうよ。恨むんなら、てめぇらの考え足らずな頭を恨みな」
 面倒くさそうに彼は手を振った。顔の前を飛び回る蝿を追い払うような仕草に男たちが肩を怒らせて前へ出ようとしたが、それから表情を変え、腹の底から響くような低い声で凄んだその睨みに足が竦んだ。彼へ向ける目には侮辱への怒りが揺れていた。男たちは皆、己らを威圧する男の底知れなさに怯えを無視することはできなかったが、矜持のためには無理矢理にも己を奮い立たせないわけにいかなかった。たかだか一人の男に腹を反す真似などできない。
「てめぇ‥、どこのどいつだ」
 主格と見える真ん中の男が懐へ手を差し入れる。先ほど馬鹿な死神と嗤った軽薄そうな容貌の男よりははるかに平静を保っているように見えたが、彼は親父と呼ばれる組の長にさえ久しく覚えない畏敬の念を肌に染み入るように感じていることを誤魔化せない。目の前の男は堅気かやくざか知れないが、己を前にして威風堂々としていられるのは普通じゃあない。余程の自信があるのだろうが、自惚れたところなど窺えない。怒りに相手の力量を量れていないのかと侮ろうとしても、男の眼光はそれを許さないのだ。(何者だ‥、この男‥)懐の短刀を握り締め、その感触が酷く強張っていると思った。ぎこちない感覚は己の掌の方だと分かりはしたが、それを認めることなどできそうになかった。
「答える必要はないね」
 つり上がる口角の優美さに、男たちは彼を物の怪かと疑った。狐が化けて、己たちを揶揄かおうとしているのかと。しかしそれはある筈もないことだった。ここは、死者の霊魂が営む世界だ。狐や狗は、あるいは死神たちの持つ斬魄刀として現れるかもしれないとしても、単独で、一個の魂として浮遊することはない。それでも物の怪の類を疑ったのは、目の前の男があまりに浮世離れして見えたからだ。月影を吸って発光しているような様が、本能的な恐怖を男たちに齎すのだ。
 突然の恐怖に人がとる行動は限られる。主格の男は引きつりそうな踝を叱り付けて、短刀を抜き取り様、己の根源が畏れる影へ向かって駆け出した。




 心地よい温度の風に額を撫ぜられて一護は目を覚ました。目を開いて初めに、男の匂いが鼻に届いて思わず探したが、それは己が包まる布団から匂ったものだと知って、知らず落胆した己に戸惑い、叱った。
 顔の位置をずらせば開け放した窓へ黎明が訪れていた。青く染まる障子はやがて色を落としていくだろう。長屋から見る空とはどこか違うなと一護は考えたが、それは二階から見る空だからという単純な理由ではないように思われた。圧迫するように空は近く、息苦しいのに安堵する。内包されているようだと、一護は思った。たとえば母の胸に。
「起きたかい?」
 訊ねる声が襖を開けた。現れた男に、一護は彼が眠っていないだろうことを見て取った。己の具合を心配してというわけではないだろう。一仕事片付けたような顔だ。それで一護は、彼が訊ねながら聴いていないことを理解した。訊くより前に分かっているのだ。様子を窺われていたのだろうかという据わりの悪さを覚えた。
「あぁ‥」
 答えようとして、渇いた喉に咳き込んだ。二度、三度と繰り返す苦しさを知っている一護が唾を送ろうと硬く目を閉じて堪えるのに、冬獅郎は枕元の水を取ってやった。抱き起こして、湯飲みを口に充ててやる。傍にあったのかと息が足らずにぼんやりする頭で水を啜りながら、自らでは体を支えられず、体重を男に任せた。わずかも揺らがない男の腕の硬さに、己が急に貧相になったような錯覚を覚えた。そんな筈はない。怪我を負って体中が熱を持って気だるいが、引き締まった筋肉なら己にもある筈だ。
「冬獅郎‥?お前‥」
 何処に行っていたんだと問いたい一護に男は
「ずっとアンタの傍にいたよ」
 と薄い笑みを刷いた唇で答えた。それはいつか見た仏像に彫られた笑みに似ていた。
 









('07/10/23  耶斗)