08:正論は誰が為、理性の優越



「ね、隊長」
 酒の息を匂わせて猫のようにすりよる副官が嘗てまともな発言をしたことはない。そう一度も。
 今回もまた、酔っ払いの戯言だと、怒る気力もはなから失せていた冬獅郎は両のこめかみを押さえて席をたったのだった。


 無礼講だと始まった瀞霊廷大宴会の名目はなんだったろう‥。
 もはや宴もたけなわ。出来上がっているのは平隊員たちだけではない。京楽はもとより、浮竹も狛村も相当に酔っていた。看護にと卯の花が、付き合いきれんと砕蜂が冬獅郎よりも先に席を立っていたが滅多にない羽目を外せる機会だから、各々気心の知れた相手と晩酌と洒落込んでいるのだろう。
「ったく。酔っ払いどもが」
 苛立ったように吐き捨てる冬獅郎も顔にこそでてはいないが、酒気は十分体中に回っていた。火照る肌に夜風が気持ちいい。
 どうせ一言も置かず出てきたのだから、このまま消えてしまっても不都合はあるまい。少し外の空気を吸うだけのつもりだった冬獅郎は早々と予定を変えて、屋根の上での月見に興じることにした。
「満月にはまだ遠いが、雲も星もない夜だ。酒の理由にはなるだろう」
 と、冬獅郎は自分の屋敷の方角へと屋根を渡った。

「うん?」
 屋敷がそろそろ見えようかというところだった。一段高くなっている屋根の上で自分がまさにこれからしようと思っていた月見に興じているらしい影がひとつあった。
 横目に映ったそれに、冬獅郎は足を止め、影に沈むその後姿が誰のものなのか確かめようと目を凝らした。
「一護?」
 呟くと同時に屋根を蹴って。
 ”たんぽぽ”と称された頭をもつその影の下へ向かったが、そこに寸分の逡巡もなかった。酒の無謀さも助けたのかもしれなかった。 
「一護」
「おわ!?冬獅郎‥ッ?」
 気付いていなかったのかと呆れ半分、気付いてもらえていなかった寂しさ半分で、小さく嘆息した冬獅子郎は一護を後ろから覗き込む位置に立っていた。
「何やってんだよこんなとこで?」
「それはこっちの台詞だ。お前こそ一人で何やってるんだ?そういえば宴会場にもいなかったな」
 宴が開いた初めにはその姿を確かめていた。それがいつのまにか消えていたことにも気付いていた。しかし直ぐに探しに行こうとした冬獅郎を酔っ払いたちが邪魔したのだ。それがあんまりしつこくて、結局なぁなぁで長いこと引きとめられた冬獅郎は一護を探しに行くことを断念したのだった。その当人が偶然にも見つかったのだ。内心冬獅郎はうかれていた。声音にもそれが滲んでいたのだろう、一護は不思議そうな顔してまじまじと冬獅郎の顔を下から覗き込んだ。
「なんだ?」
「いや、なんか嬉しそうだなぁって。なに?酔っ払ってんの?」
 云われて、しかし自覚のない冬獅郎は口のにやけを確かめるように顔を撫でて、首を傾げた。その仕草が妙に彼の容姿を子供らしくみせていて、一護は思わず吹き出すとそのまま笑いをかみ殺すのに喉を鳴らして笑った。
「めっずらしー‥酔っ払った冬獅郎なんて初めて見た‥」
「酔ってねぇぞ」
 機嫌を悪くしたように言い返した冬獅郎だったが、やっぱり一護は笑ったまま
「ムキになるとこが酔っ払ってるっていうんだよ。らしくねーもん」
 云ったらば
「酔ってねぇっていってるだろ」
「おわ!?」
 肩を引かれて仰け反った。
 見上げれば、天を隠す冬獅郎の貌と幾許かの月の影。銀髪が月に染められる様の透明感に一護は目を奪われた。
「酔ってねぇよ」
 だから冬獅郎のその声で我に返ったとき、一護は無駄に狼狽している自分に気付く。
「別に‥っ、そのことはもうどうでも‥」
『ね、隊長』
 酒の席、最後に聞いた部下の言葉が蘇る。
『一護とどこまでいってんですかぁ?』
 野次馬、出刃亀以外のなにものでもない台詞に脱力して宴を抜けてきたはずだったが、冬獅郎自身意外に思うほど彼女の台詞は耳に残っていたようだ。
「酔ってねぇ」
 唇を合わせる直前、冬獅郎が呟いたのも先より繰り返すその言葉だった。


 馬鹿野郎‥松本。
 キスだってまだだっつーの‥


 啄ばむだけで離れた冬獅郎は全く何も認識していなかった。彼としては頭の中で回る先刻の部下の言葉をうざったらしく思っていただけで、自分の身が傾いだことさえ自覚していなかった。
 だからふと気付いて目の前の一護を視認したとき、彼の表情に首を傾げたのだ。
「どうした?お前酒でも飲んでたのか?」
 純然と訝しげに訊ねる冬獅郎にはたして罪はあるだろうか、ないのだろうか
「‥‥‥ッツ!!っの‥ッ酔っ払い!!」
 真っ赤な顔した一護が逃げるように――実際に逃げて――姿を消しても、呆然と見送っていただけだった。
「なんだ?アイツ‥」
 眠たげな目をして頭を掻く彼が、一夜目覚めてこの時の記憶を持っているかどうか。それは定かでない。







正論は誰がため、理性の優越。言い訳の正論に頭を固めていたって、酒の幻惑には勝てません。呑んだ後で疾走すればなぁ‥(普通は気持ち悪くなるもんだと思うが)




09:夢幻は絵空、されど真否


 君が彼方で待っているというのなら
 無限の河さえ渡ってみせる。



「陳腐な絵巻物だな」
 云って、冬獅郎が放り投げたのは一年に一度だけ逢瀬を許された男女の御伽噺である。
「あ、投げんなよお前‥っ。それ柚子のなんだからなっ」
 部屋の隅まで滑っていったそれを拾い上げたのは、机に座って明日の予習をしていた一護であった。
「それがなんでお前の部屋にあるんだ?」
 珍しいものがある、と手を伸ばしたのは冬獅郎であったが、そういえば何故それがここにあるかは考えなかった。夜闇、仕事のついでと管轄が違えど想い人に運ぶ足が渋るはずもなく、訪れた情人の部屋のベッドに無造作に置いてあったのだ。
「先刻までそこで読んでたんだよ。もうすぐ七夕も近いからな。本読んで想像力働かせて本番に臨むんだと」
「可愛らしいことで」
「お前今馬鹿にしたろ」
 ベッドの上、胡坐をかいて膝で頬杖をつく男が詰まらなそうな顔で云ったから。それがまるで妹ではなく自身を揶揄られたようであったから。一護は羞恥を抑えて唇を尖らせた。
「いや?妹に甘いお前は可愛いぜ?」
「な‥ッ!?」
 どうやら対象は自分で間違っていなかったようだが含んだ意味が気になる。そうとは考えていなかった一護は思わず正直に驚きを顕していた。
「顔が紅いぜ?」
 頬杖ついたままの男は口の片端を持ち上げて哂った。いかにも意地悪気なその様子に一護も憮然とした顔をつくって自尊心を庇った。それから話の流れを変えようと片手の本を掲げた。やや目線は逸らしつつ。
「お前らの世界にはこういう話ねぇのか?一応繋がってはいるんだし似たようなのくらいあるだろ」
 霊魂を見守り、導くのが死神だ。SSが死した後人の魂が住まう世界なら、霊魂が現世の記憶をそのまま語り継いでいても不思議じゃない。そう考えて一護は訊ねたのだが。
「いや、ないな」
 少なくとも俺は見たことがない。
 あっさりと返された応えはそれで。一瞬間一護が呆気にとられた顔をしたのも無理はない。
 だってこの話は小学生だって、いや幼稚園児だって知っている日本では極々メジャーなお話なのだ。冒頭から起承転結全て語れというのは無理だとしても、その粗筋くらいは知っていてよさそうなものなのだ。
 彦星と織姫っつったら、一種夏の風物詩じゃねぇか‥。
 風鈴、スイカと並んで七夕があるんだぞ?
 と、ここまでは飛躍しすぎているかもしれないが、殊イベントを大事にする黒崎家においてはそれが常識であった。
「なんだよその顔」
 そんなに驚くようなことか?と首を傾げる冬獅郎にはっと我に返った一護は慌てて頭を振って
「いや、そんなことはないんだがっ。マジで?全然聞いたこともねぇの?」
 身を乗り出すようにして訊ねる一護に至極何でもないことだと云う様に、あぁと頷いた冬獅郎は
「御伽噺の類はないな。そもそも死んだ奴らが集まる場所だぜ?空の上の神様だとか死んで星になるとか‥そんな話は夢想にもなんねぇ」
 いっそ妄想だろ。とぶらりと手をふってみせた冬獅郎に、一護は感心したような表情で
「夢がねぇ〜」
 まぁ直接魂と関わる仕事をしているのだ現実主義者の粋を極めていたって不思議はないが、ここまで徹底してリアリズムを見せ付けられると少々寂しい気持ちも覚える。
 しかし一護の溜息をどう解釈したのか、冬獅郎は眉間の皺を深くして
「あぁ?」
 と不機嫌な声を出した。どうやら馬鹿にされたと思ったらしい。
「いや、別に悪いとは言わねぇけど。だって死んだ人って現世の記憶持ってるだろ?だったらそういう話だって残したりすんじゃねぇのかなって」
 多少はたじろいだものの一護はそう応えて、応えながら椅子から立ち上がり冬獅郎の座るベッドに腰を下ろした。丁度冬獅郎に横を向く形の一護は手に持った七夕の絵本を何を思うでもなく捲って、挿絵のひとつひとつを眺める。
 その横顔を眺めながら、相変わらずつまらなそうに頬杖をついていた冬獅郎が
「もともとから死神になるって決まってたようなもんだからな。あっても読ましちゃくんなかったろ‥」
 ぼそりと呟いたそれは一護の耳に届くことなく。
 聞きなおそうと顔を向けた一護に、あいぎょうを崩して哂うと屈めていた背を伸ばした。
「あー〜今日はもう帰るか。向こうでこわーい人が目ぇ光らせてまってっから」
「あん?なんかしたのかよお前」
「現在進行でな」
 立ち上がった冬獅郎は訳が分からないと見上げる一護に揶揄かうような困ったような笑みを浮かべてみせて、じゃあなと窓を開けた。そうして桟に足をかけ、屋根に飛び乗るのが常の別れの常套なのだが、外に身を乗り出した冬獅郎はそこで振り返ってじっと一護の眼を見つめた。
「な‥なんだよ‥」
 ただならぬ、でもないが、男の何かを言いたげな目は一護を戸惑わせるには十分の効力を持っていた。
「笹の葉に願い事下げる風習はないが、あっちでも一年に一度天の川が見れる夜がある。来るか?」
「へ‥?」
「迎えに来る」
「え?あ、ちょっと‥っ」
 手を伸ばしたときには既に男は消えていて、なんなんだよと呆れてみた後で一護は冬獅郎の言葉をようやく理解した。
 笹の葉云々、天の川云々‥。『迎えにくる』?
 あぁ、誘われたのかと脳髄まで至って、唐突に肩の力が抜けた。
「‥‥‥強引だ‥」
 でもその強引さが楽しいと、心地良いと思うから自分は冬獅郎に惚れているのだと自覚する。
「顔があちーーー‥」
 引いていた熱が戻った顔を掌で仰ぎながら、まだ天の河には遠い夜空を見上げた。







夢幻は絵空、されど真否。絵空は夢幻、けれど君が現れるなら児戯も本気で戯れよう。