10:現実は奇なり、そして幽玄 思い出せない夢は現実になるとは誰が云った? 朝の光を目蓋越しに覚えてようやく、それまで自分が見ていたものが夢だと知る。引き剥がされてゆく記憶に手を伸ばして抗ったところで、結局は忘れてしまうと分かっていて。一護は最後の光景を忘れまいと浮上する意識を集中させるのだ。 そうして憶えているのは白の光。春の日のような柔らかに暖かい、花曇に似た白の光彩。 その世界に初めて足を踏み入れたとき、驚くよりも先に既視感を覚えた。ノスタルジーだろうか。家々の造りも踏み固められた土の道路も川にかかる橋も自分たちの世界に嘗てあったものだから。 純粋な好奇心と純粋な安堵。それが奇妙で心地よかった。 現世と対なすその世界で、一護は大海の嵐に呑まれるような経験を休む間もなく――そもそもそこ自体が嵐の只中であったようだから息つく間さえない――積まされたから、一週間前の晩御飯は何を食べたとか、一昨日の朝はどんな天気だったとか、そんな些細な事を覚えていられる余裕も思考もなくて。だからその男を前にしたとき、どうして自分がそれまで意識の表層にも持ち上げなかった記憶、それも眠っているときにいい加減に再生された信用するに足らない、いっそ話の種にもならないそれを思い出したのか。それと同時にこの世界に踏み入れたときまず覚えたあの感覚をどうしてこのときそのまま身の内に思い出したのか不思議で仕様がなかった。 だから目の前の男がだんだんと眉間の皺を深くしていくのを視認していたって、それに自分が関わっているとは――明らかなことでありながら――ちらとも思ってみなかった。 だから目の前の男がこの上もないほど不機嫌を撒き散らす貌で自分を呼んだと知ったとき、一護は自分が情けないやら恥かしいやら申し訳ないやら不甲斐ないやらで周りが呆れるほど狼狽したのだった。 『俺の貌に何かついてるか?‥一護』 『え!?いや、なんでも‥っ?、すまんっ違‥っ』 もはや何を言っているのか、何を言いたいのか定かでない一護に周りは気を捕られていたのだけれど。その後落ち着いてその節のことを思い出したものがいたならば、何を不自然に思うかは瞭然だったろう。 一護の狼狽の度合いか。彼よりひとつ頭以上低い背丈の男を見て最初の一護の呆けた様子か。 否、 『一護』と呼んだ、男の事実である。 なぜなら彼らは初対面のはずだから。自己紹介だってまだのはずだったのに。例え事前に名前だけを知っていたにしても、男が『一護』と呼んだときの舌は滑らかで、良く慣れているという印象を思わせたから。 しかし誰もそんなことは考えなかった。15の子供の狼狽ぶりがあんまりにあんまりなもので、いっそ哀れに思った彼らにとってその直前に聞こえたかもしれない彼の男の最後の台詞など、子供を宥めるうちに忘れてしまうほどとるに足らぬものだったから。印象に残るにはあまりに薄弱なものだったから。 萱草色の髪をもつ、正式に死神代行人に任命された黒崎一護と、御廷十三隊第十番隊隊長日番谷冬獅郎が初めて顔をあわせたのは、一護が現世へ帰るその折のことだった。 * 会ったこともない顔の人間が夢に現れるということは、まま、ある。 それは恐らく確かく記憶に残っていないだけで、何処かしらにあった顔が何がしかで視界にはいったという偶然、記憶の箱に仕舞われたのだろう習慣と解釈していたから、そのことで冬獅郎が思い煩うということはなかった。 眦が下がりがちの眼だとか、皺のよった眉間だとか、威嚇するように曲げられた唇だとか。オレンジ色の、派手な髪の色だとか。 多数の人間から切り取って組み合わせれば出来上がらないこともない。 けれど不思議に思ったのだ。眼を覚まして、朝の光にそれが夢だったと認識して、それでもまだ醒めぬ思考に眼球の裏、その影が貼り付いている気がするその貌が、忘れてしまうにはあまりに印象強くて。 「誰だ‥」 一度みたなら忘れるはずがない。忘れられるはずが、ない。 (お前は、誰だ) 褥の中で冬獅郎は自分が寝汗をかいている事にも気がついていなかった。 死覇装を着ていたから、あれは死神のはずだ。 一度目以降、たびたび逢うようになった夢中の少年が頭から離れず、冬獅郎は瀞霊廷内の死神の名簿を片端から調べていた。今は漸く三分の一が終わったところである。通常の業務に加えて膨大な量の人員名簿に目を通す作業は彼と並ぶ位階の者でなければとうに精神疲労で寝込んでいるだろう。それでなくとも集中した冬獅郎は人並みはずれた忍耐力を見せるのだ。副官が心配する中、それでも疲れなど欠片もみせず彼は隊長室と書庫の往復の日々を重ねていた。 「隊長?休憩をとられては如何ですか」 書庫の入り口から顔をだしたのは冬獅郎の副官である松本だった。こぼれんばかりの乳房をようやくといった態で収めている彼女は手にお茶をのせた盆を持っていた。 「お前か‥今何時だ?」 「9時です隊長。通常業務はとっくに終わりましたよ」 言外にまだ帰らないのかという響きを含ませつつ、彼女は気遣わしげに茶を差し出して、冬獅郎の広げる文書を覗き込んだ。 「こないだから一体何を調べてるんです?何か気になることでも?」 「いや‥。気になっているといえば気になっているんだが‥」 熱い茶を啜りつつ応える上司の、常にはない歯切れの悪さに何事かを感じ取った松本は、それでもなんら興味をそそられたでもない顔して身を起した。 「ま、あんまり根詰めすぎないでくださいね。隊長に倒れられると私たちにやれることなんてないんですから」 「あぁ分かってる」 「それじゃ」 「あぁ」 そうして部下の去った部屋でまた独り、蝋燭の灯り一つで冬獅郎は夜半過ぎまで名簿を捲り続けるのだった。 奇妙なことが起きた。 夢の少年に変化があったのだ。 一言も喋らなかった彼が口をきいたということではない。 「お前、斬魄刀を持ってたか?」 死覇装とは対で考えていたものだからそれを持っているかいないかを確かめていなかった自分の間抜けさに夢のことながら情けなく思う。 少年は背に身の丈ほどの大刀を携えて、三夜ぶりに冬獅郎の前に現れた。 「見たとこ不安定な形をしているな。名はまだ聞けていないのか‥?」 応えぬ少年を相手に一人喋り続けることにも慣れた。土台誰も知ることのない自分の世界でのことだから、柄にもないそんな行為さえさしたる抵抗もなかった。 「なぁ‥、お前は何処にいるんだ?」 俺はずっとお前を探しているというのに、現実にいるはずであろうお前はちっとも顔をみせる気配もない。 「なぁ、俺は何故お前を探すんだ?」 自問でさえ声に出すのは、これが夢だと知っているからだ。そうして少年が応えないと知っているから。 「なぁ、俺はお前を見つけられるか?」 これだけ焦される相手を、俺は嘗て知らない。 「お前は、何のために俺に姿をみせるんだ? 俺は何故お前を夢にみるんだ?‥‥‥教えろよ」 応えない少年は冬獅郎と正面を向いて立ち、身じろぎもせず見つめ返し、表情もかえず口を閉ざすまま。ようよう聞こえてきた音に冬獅郎は目覚めが近いと察知する。これも、慣れたものだ。 夢と現の境界が明らかすぎて。 逢えば苛立ち、逢わずば焦がれ 「お前のせいで、俺はゆっくり夢見を楽しむこともままならなくなった」 責めるように云いながら、冬獅郎は翳み始めた視界に少年に 「また、いつ逢えるだろうな」 そんなことを戯れではなく云い遣るのだった。 全ての名簿を調べ上げた。過去のものから、現在養成中の生徒たちまで全て。 なのに、欠片も類似した者さえ見つからなかった。 あの眸、あの髪、あの刀 見つからないことはいっそ不自然だ。 苛々と廊下を歩いているところに、十三番隊の隊長と会った。 「やぁ冬獅郎。機嫌が悪そうだな」 人のよさそうな顔して訊ねる浮竹を、冬獅郎は初め誰だか知らぬという顔で睨んでいたが、やがてそれが己の知人だと認識すると僅か眉間の皺を和らげて 「あぁ、浮竹か」 とひどく空疎に呟いた。 それに浮竹は苦笑して 「なんだい?機嫌が悪いだけじゃなくて具合も悪いのかな。風邪でも引いたか?」 「まさか。いたって健康だ。お前こそ出歩いて大丈夫なのかよ」 「おいおい。そんなに病人扱いしないでくれ。俺だってたまには運動しないと返って身体に良くない」 「あっそ」 いささかも興味を引かれないといった様子の友人に、何事かを思いついた浮竹は揶揄るように唇を笑ませて 「なんだ、心ここにあらずといった様子はまるで恋煩いだな」 「‥ッな‥!?」 そっぽを向いて受け答えしていた冬獅郎が弾かれたように浮竹の方へ顔を向けたときには既に彼はいなくなっていて、前方で哂いながら手を振っている姿ばかりであった。 「馬鹿か‥暇人が‥」 恋煩いとは冗談じゃない。今俺の頭から離れないのは現実にいるかどうかも分からない少年であって、けっして恋愛の対象になるような相手ではないのだ。 それでも頭を抱えて熟考してしまうのは。覚えがあるとかそういうのではなしに、明確な反論を組み立てるためだと冬獅郎は己に言い聞かせた。 その浮竹が後日また顔を合わせたとき深刻な顔をして洩らした一言が冬獅郎の胸に蟠りをつくって離れなくなる。 『うちの隊員が一人‥現世から帰ってこないんだ‥』 何故、気になったのだろう。隊員が戦闘で命を落とすことが全くないわけではないのに。あらゆる可能性が考慮されて然るべきなのに。 その隊員というのが、かの朽木家の人間であるためか。否、そんな他人思いの心を己は持ち合わせていない。 あらゆる可能性が考慮される。 それだからか‥。 そういえば何故自分は離れたところから話しかけるばかりで、彼に近づいてその身体に触れてみようとはしなかったのか。 床に入るとき唐突にそれを疑問に思って、もし今夜彼と逢えたなら彼の下まで行き、彼に触れてみようと冬獅郎は決めたのだった。 あの夢だ‥ 今回はどれくらいぶりか。少年が刀を携えているのを初めてみたのがこの間のことだ。あれから半月ほど経っただろうか。 冬獅郎はこの場所に着て初めて自覚する。 自分がどれだけこの時を待ち遠しく思っていたか。 来ようと思って来れる場所ではないだけに、期待も抱かずにいたつもりだったのに。動悸が乱れるほど焦がれていた。 「名も知らぬお前。今夜は無意味な問いかけはやめるぜ?」 翳む白の彼方に見え始めた髪の色に冬獅郎は唇の片端を持ち上げた。 「よう」 いつもの定位置。手を伸ばせば届きそうに思えるほど近く、それでいて踵を返されれば決して追いつけないだろう間隔を開けて二人は対峙する。冬獅郎はゲームを楽しむときの、相手を挑発するような笑みを浮かべていたが、少年は相変わらず感情の読めぬ貌で冬獅郎を見つめ返していた。 「そっちに行くぜ?」 前置きも無しに(あっても無駄だ)、応えも待たずに(どだい返らない)、冬獅郎は足を踏み出した。彼の歩みは悠然と、迷いなどなく見えたが、その実少年との間に見えない境界線でもあったらば、そしてそれを踏み越えてしまったらば、忽ちに少年は消えてしまうのではないのかと、そんな漠とした恐れを持っていた。 しかし冬獅郎が足を止めたとき、少年は冬獅郎の手の届く場所に立っていて。逃げる素振りも消える気配も無かった。 「触るぜ?」 手を伸ばして触れた手は仄かに生きているものの熱を持っていて、知らず冬獅郎は息を吐く。ついで腕を、肩を、しっかりと掌に確かめて筋肉のしなやかさにまだ本当に少年なのだと思う。 「お前、何処にいるんだ?」 以前にも、何度もした問いかけだ 「お前、現世にいるのか?」 少年の眼は揺らぎもしない。 「お前、現世で生きて、何者からか死神の力を得たのか?」 少年の背に負う斬魄刀。 名簿にはない、しかし確かに死覇装を身に纏う少年。 「朽木、ルキアが、お前に死神の力を譲渡したか?」 そのとき、朽木ルキアと冬獅郎が含めるように口にしたとき、片時も感情の動きもみせなかった少年の眼が初めて明瞭に冬獅郎をみた。 「‥れは‥」 「なんだ?」 聞こえたのだ。 聞こえたのだ少年の声が! そして、彼の声が何を語ったかと確かに己の耳は拾ったのに確かく言語としては解せ無かった。少年の言葉が何だったのか、それを確かめたくて冬獅郎は少年の肩に乗せていた己の手に無意識に力を込めていた。 「なんだ?お前は今何を言ったんだっ?」 「‥お、れは‥」 『い ち ご だ』 「『一護』?お前の名か?‥っおい、他に何か‥ッ」 冬獅郎が少年の言葉を吟味する間もなく焦らなければならなかったのは、少年の身体が霞に包まれ始めたからだった。 夢の醒める兆候。 まだ、早いじゃないか―――? 「おい‥ッ、お前‥!‥‥‥‥っ一護!」 呼んだところで意識の深層は無情なのだ。 「一護!」 手の中の感触がだんだんと不確かになる感覚をどう表すことができるだろう。不気味、ともいう。奇妙ともいう。砂がこぼれ落ちる感覚はまだ安い。人の肉体がまるで霞に変化していくなんて、夢でもなければ味わえない感触だ。 「一護‥」 如何に大気を操る斬魄刀(かたな)を持っていたとして、この手がそれをできなければ意味はないんじゃないか。できたところで捕らえられはしないだろう少年の残滓を握り締めて、冬獅郎は己の意識が浮上するのを待った。 * 『旅禍の一人は身の丈ほどの大刀にオレンジ色の髪をもった死神である』 冬獅郎はなんら驚かなかった。 それらが極囚を助け出しに来ていると、聞かされてもまるで当然とでもいいたげな眼をみせただけだった。 「ようやくか‥」 一護 一護 一護 独り呼びなれてしまった名前をまた口腔で転がして、冬獅郎はうっそうと笑みを刷いた。 囚人は処刑されるに相応しいか?囚人は救われるに足るか? 狐顔の男のおかげで言い訳は、得た。 お前の手助けが出来るぞ 「一護」 白の羽織を翻して、十番隊隊長日番谷冬獅郎は副官を従え双極へと向かった。 現実は奇なり、そして幽玄。ほら、疑わなければ逢えるのだ。 |