11:恋は戯れ、美醜な虚言 駅の構内、喧騒の中彼はいた。一人柱の側に立って、人を待つでもなく。探し人をするでもなく。なのに何故だか居心地悪そうに時折身じろいでいる。その薄茶の瞳は焦点を一点に定めようと懸命になっているようだったが、それが傍目にもそれとわかるほどなので返って不審である。 派手な、橙色の髪の毛に、けして地味とはいえない服装。さらに不機嫌そうに寄せられた眉根は、しかしわずか上がり気味で。歳が歳なら保護されただろう庇護欲をそそるものがあった。 しかし未だ誰一人として声をかける者がないのは、見た目しかり、誰ぞかが近づく素振りをみせたならすかさず彼の目が威嚇するように光るからだった。 黒崎一護。染めていないのになにかと因縁をつけられ続けて15年。至って普通の人間だと自負する彼は、見えない誰かを傍らに、柱に凭れて落ち着きを取り戻そうとしていた。 「なぁ‥。なぁって‥っ」 囁き程度までに押し殺した声で一護は傍らの男を呼ぶ。自分よりも頭ひとつ分以上丈の低い銀髪の頭。物珍しそうに人群れを眺めてなにやら一人感心している。 「なぁっ、おいっ、冬獅郎ッ」 傍から見れば腹が痛いのかと思うほど背中を丸めて、一護はもう一度、今度は彼の名で呼んだ。 冬獅郎。古風な名に似合う黒の内掛けに黒の袴、白足袋、草履。普段着としては時代錯誤の感があるその服装はさらに白の羽織と、背に負う日本刀で締め括られていた。 冬獅郎は一護の堰いた空気など知らぬ顔で、むしろ咎めるような胡乱な目で一護を見やった。身体上仕方のないこととはいえ人を見上げことを心地よしとしない彼は睨みあげるという行為を何の気なしに為してしまうほど長く生きていた。しかし一護も慣れたもの。 「なんだ、一護」 「なんだじゃねぇっ」 気おされることなく言い返した。 「お前が一度見ておきたいからって連れてきたけど、もーそろそろ一時間以上経つぞッ。帰らせろっ」 「たった半刻じゃねぇかガタガタいってんなよ。それとも足が疲れたか?」 いかにも「鍛え方が足りない」と言いたげに哂われれば、一護もムキになるのを止められない。 「誰が‥ッ、これくらいのことでヘバるわきゃねぇだろ!」 人の目が気になんだよ、とか。貴重な休日の午後をこんなところで過ごす青春なんて虚しいだけなんだよ、とか。 説得できなくもない理由をもっているのに、今の一護の頭からはそれらが綺麗に吹き飛んでいた。 ふん、と顔を背けて。腹を据えたか先ほどまでの挙動不審から居直ったような形で一護は腕組みし柱に背をあずけた。 しかし、ふと思い返す。 冬獅郎は『人間の生活を観察しておきたい』と今朝方突然現れた際そう云った。そして『人間の集まるところで虚がでると厄介な場所があるならその対処策も練っておきたい』と。そこで一護は、人が集まり、かつ閉鎖されていて事が起こると面倒そうな、地下鉄の構内へ案内したのだが。 (別に‥、付き合う必要なんてないんじゃないか‥?) そう考えた途端一護の思考は冷静になった。と同時に肩の力も抜けた。 (今更迷子になるわけでもなし。俺が一緒にいる必要ねぇじゃねぇか) よし、そうと決まればと凭れていた柱から腰を浮かせた一護は、そんな考えを容易に読める男が下から自分を眺めていたなんて思いもしなかった。 「一護」 だから歩き出そうとした丁度その時呼ばれた名前に、条件反射で顔を向けることに警戒を抱くわけがない。 声の主を視界に入れない内に襟首を掴まれ引寄せられた一護に、声をあげる暇も口も無かった。 少年が突然倒れこんだ。ように見えたのはガクリと膝を折り、上体がタイル敷きの床へ落ち込みそうだったから。途中で持ちこたえ半腰の状態にになっているが。まるでゼンマイの切れたブリキの人形だ。 コンタクトでも落としたろうか。しかし短い前髪の下から覘く垂れ目がちの眼は焦りというより純粋な驚きに見開かれていて、焦点は地面に結ばれてはいない。空中の、何か。それを凝視しているようだ。もしかすると具合が悪くなったのかもしれない。勝手に立っておいて、しかも十分に挙動不審ぶりをアピールしておいてなんちゅー人間だ。と思わなくもないが、喉の圧迫を解こうとするように服の襟元を握り締めている様子は緊急を要するようでもある。 だが、誰かがよくよく観察したならば、それが酷く不自然な形に握られていることに首を傾げただろう。しかし彼の周りを行き交う人々は、まるで彼一人なんの役にも立たぬというような顔して通り過ぎるだけで良くて一瞥、でなければ完全な無視だ。それでもその状態が長く続けば彼へ向けられる視線は増えてくる。歩みを止めることはないが、通り過ぎ様にもあからさまな視線をくれる者もいる。 しかし視線を集める当人はそんな自分の状況を分かっていないのか。まさかパントマイムなのか。爪先も揺らがない。 ただ見開かれたままだった、思惟のない瞳に少しずつ我を取り戻し始めているようだった。 何を‥やってるんだ‥? 屈めた腰と曲げた背中と重心のかかる爪先が、辛い。 何を‥されているんだ‥? それは人前でする行為じゃない。 少なくとも自分に関しては、そうだ。 呆然とする一護の唇をなにかつつくものがあった。訳が分からないまま一護は唇を開き、それの侵入を許す。ぬめった感触‥食感?のそれが歯牙をたどり歯肉をなぞる。そうして上あごを舐め上げられたとき、刷毛が撫ぜるような感覚を背に受けて、一護は咄嗟に逃れようと腕を突っ張った。 しかし男も弁えたもので。肩を押したくらいじゃびくともしないし、対格差にものをいわせようとしたところでそれが敵うほど軟くもない。 場所がどこかなんて一護の頭からは吹き飛んでいた。 兎に角羞恥と恐怖の混じるこの行為から逃れなければならない。 性に疎い15の少年が容易に受け止められるほど、冬獅郎は甘くなかった。 「ふ‥っ」 鼻にかかる声が自分のものだとして、それがさらに自分を辱しめるなんてことを一護は初めて知った。 男の肩を押していた手はもはやそこにはなかったが、抵抗をやめたわけではなくどうにかして冬獅郎を自身から離そうともがいていた。それが段々と力を失っていき、息が上がっていくにつれ男に縋りつく格好になっていることに一護は気付いていなかった。膝にあたる冷たさが地面のタイルだということさえとるにならぬことだった。土台、気付けてはいないのだが。 「ん、ふ‥」 布が水を吸うように、じくりじくりと下肢へ熱が溜まっていく。やばい、と一護は思う。思うが御する力を彼は持っていなかった。抗おうとしたところでそれを端から崩していく男があるのだ。追い詰められていく感覚に甘美を覚えて、一護は視界を占める冬獅郎の哂う瞳に目を閉じた。 「は‥」 もう、どうだっていい。と、それは諦念と陶酔だった。 石田雨竜は愕然としていた。 彼が好んで通っている24時間営業洋裁店チェーン『ヒマワリソーイング』の本店へ久しぶりに休日の午前中から出掛けていた帰路のことだ。 初め、それを視界にいれたときそれが50mも離れた場所であるにもかかわらず彼はそれ”ら”が何であるかを正確に把握した。把握しておきながら次には否定した。 滂沱の汗を流して跪くするところをかろうじて持ち堪え、雨竜は自身の眼鏡の位置を直した。そのまま眼鏡を持ち上げた人差し指を眉間に押し付け自問する。 (あれはなんだ?) 答なんて分かっている。分かりきっているほどに分かっている。それでも学年一位の秀才が考え続ける理由は、それとは違う答えがあると希望を捨てていないからだ。というか、捨てたくないのだ。 しかしながら彼が望む答えはその秀逸な頭脳でもって片端から砕かれ、無惨にも抵抗する余力も残されない。 雨竜は今日これほどまでに泣きたい気になったことはないだろう。 正直にいえば、あれ”ら”が何処で何をして誰にみられ誰の背中を寒くさせようが雨生は知ったこっちゃない。むしろ投げ出した気分で、好きにしろ!と云ってやれる。しかし、雨竜は自身がその犠牲者になろうことを想定していなかった。自分だけはそれを回避できると思っていた。 (思い上がりでした師匠‥。それともこれは貴方がお与えになった僕への試練ですか‥?) わなぶるわなぶると震える腕を叱咤して、自身を立て直した雨竜はきっと前方の二人、自分以外の目には一人と映る彼ら、を睨み据えて力強く足を踏み出した。 駅構内を行き交う人々の喧騒の中、異様に静まり返った構内の中央で。請うように両膝をつき、何か抱きしめるように浮かせた腕で顔の下半分を隠した少年が陶然と薄く開いた目に涙を滲ませて人々の注目を集めていた。時折首の角度を変える様はあたかもキスを交わしているようで、それを人々は頬を赤らめつつも役者修行かパフォーマンスだろうと、なかなかに上手いじゃないか、と口を噤み動悸を早めて通り過ぎるのだ。 高校生くらいであるとみえる少年は萱草色した髪を短く刈っていた。 重苦しい沈黙の中、破るには言葉が重すぎて彼ら二人のどちらも口を開けずにいた。とはいっても一人は相手の言葉を拒否するように背を向けベッドに転がっているのだから、正確にはもう一人、雨生こそが沈鬱を破るに相応しい言葉を探していた。 襟首を掴んで引き立たせた一護は初め何が何やら分からないといった顔で目を白黒させていた。ややしてようやく自分の襟首を掴んでいるのがクラスメートであり、戦友である雨竜であると認識するや、今度はざぁっと血の気を引かせどうやら状況を把握したらしかった。 それから逃げるように帰ってきた雨竜の部屋である。合わす顔がねぇと自宅へ帰ることを拒んだ一護のためであった。 「なぁ‥黒崎。どうやら幸いなことに周囲はあれをパフォーマンスか何かだと思っていたようだし‥君もそういうことにして堂々と道を歩いていいんじゃないかな‥」 「‥‥‥‥‥」 たどたどしい慰めの後、再びの沈黙が訪れるのかと思われた矢先 「遠くで警備員のおっちゃんも動けずに硬直してたな‥」 「‥‥‥‥‥」 さらに重く雨竜の口を閉ざす一護の声が、彼の顔に押し付けられた枕の間から洩れた。 「いや‥あれは、多分、君の見事な演技に見とれていたんだろう‥」 「演技!演技っつーのかお前はッ!!?」 唐突に起き上がった一護に雨竜がたじろいだのはいうまでもない。 「人前で!しかも駅の構内っつー余計なまでに人間の集まるあの中心で!!15の男があんな真似しといて例えそれが演技で片付けられたとして俺が堂々と外歩けると思うかぁ!!?」 それで何故僕が怒りをぶつけられるんだ‥ 人の怒りに対して冷静な秀才の疑問はもっともだ。そして彼の疑問の答えも明らかだ。 ひとつは自分が一護を刺激するような発言をしてしまったということだが、この失態は自分のものなため受け入れよう。しかしもうひとつ、 『怒りの捌け口になるべき諸悪の根源が、事が終わるや否や爽やかに己の世界へ帰ってしまった』 ことについて雨竜に納得しろというのは無理な話であろう。 「あーーーッチクショウ!!もー外歩けねぇ!もー表に出れねぇ!家族に合わす顔がねぇッ!!」 そうして頭を抱え、近所の怒声も聞こえぬ一護が一晩中叫び続けるのに雨竜がしきりに眼鏡の位置を直しながら付き合い続けたのもひとつの優しさであろう。 「あれ、なんかご機嫌ですか隊長?」 「まぁな」 尸魂界に帰ってきた十番隊隊長と道で擦れ違った彼の副官との短い会話の後で、冬獅郎がいつものしかめっ面に舌を覘かせたのを一護(ひがいしゃ)が知る由もなかった。 恋は戯れ、美醜な虚言。締めがコレって‥。 |