八千年の片思いをしている。 緑の風、と云えば五月だが、春の来ない俺たちの間に相応しい名称はそんなところだろう。草原に寝転がって流れる雲を見詰めるだとか、草花をそよがせる風に瞼を閉じるだとか、著してみれば気恥ずかしいことこの上ないが、アイツを呼び寄せるのに最も有効なのは、アイツと俺の二人だけが共有するこの場所なのだから、それ以外にすることがないのだ。緩い坂での鍛錬が出来ないこともないけれど、針に糸を通すような張り詰めた精神で居たいと思う場所でもない。どことなく肩から力が抜けていく、疲れた四肢が途端に憩いを求め始める、そんな時間の流れる空間だ。 遠景は緑と青。地平線は空色に滲み、夕暮れとなれば朱を落としたように夕陽が溶けていく。それをアイツと見たことも、また、見ようと誘ったこともないけれど、だからこそアイツと俺との間に吹く風は緑色をしているのだ。淡く、透き通った碧の風が俺とアイツとを隔てている。 冬獅郎、と呼ぶ声がすれば頭の先にアイツの爪先がある。被さる影はアイツのものだ。俺の閉じた目を覗き込む気配を睫の先に感じている。薫る匂いは風のものでしかないけれど、確かにアイツの気配を含んでいる。早く俺を好きになっちまえ。 冬獅郎とアイツが繰り返す。3度呼ばれるまで俺は返事をしない。それをアイツも分かっている。だから呼ぶ声はくすぐったがるような微笑を含んで、俺はアイツの撓む目尻を想像する。亜麻色の、縁が黒く滲んだ透明な目を想い描く。 冬獅郎、と3度繰り返されて、3度目で俺が目を開くと知っているアイツは語気を少し強める。分かっているんだぞと揶揄るように、不満に思ってなぞいないくせにそんな風な不安な調子をも推し量らせる余地を挟み込んで。3度呼んでも目を開(あ)かなかったらどう反応するのだろうと悪戯を考えて、考えるだけで実行出来ないのはアイツとの距離が微妙なバランスで保たれていると考えてしまうくらいに、アイツを離し難く思っているからだ。 なんだよ、起こしてくれねぇのか?顎を上げながら俺は言って、閉じていた眼はアイツの顔を見たいがために勝手に開く。太陽を被るアイツを眩しい。瞼の上から刺す光に眇める眼は哂っているようにも見えるだろう。事実、口が笑っていてはそうとしか見えない。そうして俺の表情はアイツを揶揄かっているということになるらしい。 陰の懸かるアイツの顔も、同じ陰の中に入ってしまえば微細も見える。起こしただろと返すから、そうじゃなくてさと俺は顎を元合った位置より若干下げて再び目を閉じる。まだ寝る気かよ!と呆れるから、だから、起こしてくれよと、仕方なさ気に俺は右腕だけを頭の下から抜いてアイツへと振る。ぶらりと、億劫気に空を掻いて、哀れな手が掴まれることはない。 怠けもんとアイツは口をへの字に曲げて、お前にだけだよと俺は心の中で口説いてる。お前にだけだ。酒を呑んでたって言えない台詞だ。冗談めかしても、冗談にさせてくれない胸騒ぎが起こるから、平常を忘れそうで俺は口に出来ない。お前にだけだよ、お前にだけだ。そんなこと行動で現してる。あからさまな区別がアイツと他の奴らとの間にあるってことを、コイツ以外はきっと全員知っているのに、コイツも少しは肌で感じ取るくらいはしているかもしれないけれど、俺と他の奴らとの区別はアイツの中で、きっと、無い。 拾われない手を俺はアイツへ倒して、アイツの足を捕まえる。?まえられる距離にアイツは居て、引き倒されてアイツは文句を言う。直ぐにも立ち上がろうとする腰に、それより早く身を引き上げた俺の腕が巻きついて、アイツはまた心底呆れたというように溜息しながら諦めた風に息を吐く。甘えん坊。柔らかく低い声が頭の先でする。アイツの脚の間に収まって俺はクツクツと喉を鳴らし、アイツの腹に額を擦り付ける。くすぐったげに震える腹がまた可笑しい。 キスをしようか。 伸び上がって、逃げる隙もなく奪う自信はある。陽気に中てられた振りをして、何の意味はない、唯の戯れだというキスをしようか。薄紅い唇を掠め取って、そのまま肩を抱きこんでしまうか立ち上がって歩き出してしまうか。どちらがいいだろう。 お前‥、図体デカくなったら頭は退行すんのかよ。アイツの声は呆れている。呆れているけれど厭きてはいない。いつまでもいつまでも俺に付き合って、だから俺は助長させられる。助長せざるを得ない。俺の行動を許すから、俺のこんな行動までは許すから、そいつに甘えない手はないだろう。こんなことする俺がいるからコイツは恋人を作らないでも満足しているのだ。充実した人間関係は渇欲を生まない。コイツに迫る勇気のある女も男もいやしない。友人から恋人になろうなんてキチガイ、俺ぐらいのもんだ。 それでもコイツが欲しいって奴がいるなら名乗り上げりゃいい。俺を切り伏してコイツに迫ればいい。目一杯手加減してやるよ。殺さない自信なんかないからな。 あーあ、とアイツは俺の好きにさせることにして草の上へ身体を投げ出した。伸びる腹の筋肉に俺は頬をくっつけることにして横を向く。鼻腔に涼やかな風が吸い込まれて、呼吸が爽快になる。詰まるところこの場所で気詰まりな会話をするつもりはないし、羽を伸ばすために来たのだコイツも。一人だけの場所よりも二人だけの場所がいい。今のところこの場所での時間を共有するのは俺だけらしいので、少しは区別もあるのだろうけれど、けれど俺は酒を呑むのも道を歩くのも背中を預けるのもお前だけがいい。 なぁ、俺たち出会って何年位だっけ。俺が訊けば 気持ち悪い言い方すんな!と腹筋を縮めるからアイツの腹の上で俺の頭が跳ねる。 なぁーともう一度アイツの腹に顔を埋めてだらしなく繰り返せば、腹があっちぃんだよと硬くしたまま2、3びゃくねんくらいじゃねぇのとどうでもよさ気に続けた。にさんびゃく?まだそんなもんなのか。俺はとっくにはっせんねんくらい行っちまってるもんだと思っていた。 死ぬときは二人老衰がいいよなぁと笑ったら、 訳分っかんねぇ!とアイツは少し怒った。 俺は八千年の片思いを続けている。 08/05/10 耶斗 |