[女子男子高生とライオン]


‥有り得ないだろう
だって街中だぞ。



その日はいつもの晴れ空で。夏真っ盛りの日差しはアスファルトをじりじり焼いて、ふらふらとそこらの店へ用もないのに入りそうなくらい茹だってた。所為だと思う。
黒崎一護は足を止めた自分を訝しげに眺めては通り過ぎていく通行人たちに露も気付かいていないように、ぱちりと何度目かの瞬きの後、それでも往生際わるく目を擦ったりなんてした。
だって有り得ないだろ。

この国は所謂法治国家で民主主義で、民主主義の宿命というか衆愚政治の危機に瀕していてそろそろ転換期なんてものが来るんじゃないかと云うかとっくにきているのかもしれない。要はつまりは何をいいたいかというと
今目にしている物体の訳が社会の歪だとかそういったものなんじゃないかと
黒崎一護は思いたいわけなのである。

(奇怪しい‥)
知らず知らずのうちに険しさを増す表情(かお)の一護は思う。ははは、と空笑いで首を振ってみたりもしたりして。
(あぁそうだ、きっとこれは夏の暑さがみせた幻想だ。現に他の奴らはなんら不思議なんてなさそうに何食わぬ顔で日常を謳歌してるじゃないか。そうさ、そうだ、これは幻だ錯覚だこんな街中に‥)

ライオンなんてサバンナの猛獣がいるはずないじゃあないか

しかもその猛獣がお行儀よく信号待ちしている姿なんて‥
「ありえねぇだろ!」
自らを説得しえなかった一護は声を上げた。人々がぎょっとしたように一護を振り返り、またそそくさと目線を逸らしては通り過ぎている。それらの人々に一護は全く頓着しなかった。眼中に入ってもいなかった。と、ライオンが一護の叫びを耳に留めたか彼を振り返った。お座りした状態の猫科の大型動物が首を回らし後方の一護を見つめる様は思わずきゅんとなるような愛らしさを醸してもいたが如何せんその見事な鬣。夏の太陽はお前のためにある。などと一護が放心しかけたところ(それがどのような理由だったかはさておいて)、ぐる、と雷にも似た音が地を転がってそれは一護の足下に落ちたと彼は思った。視神経の信号を送る速度が急激に落ちたようだ。一護はその音を理解して後、それが白い牙を除かせていることに気付いた。
(お、わ、ぁあ)
慄いて、彼は逃げようと思った。逃げなければと、しかし賢明な判断に反して足は靴底のゴムがアスファルトに融けて貼り付いてしまったかのように動かなかった。頭の天辺の皮膚はとうとう痛みさえ覚え始めて、拭えずにいる汗が眼球を侵す。瞬きで搾り出すも塩水を広げるだけのようだった。

のそり、と顔は此方に向けたまままるで億劫そうにそれは腰を上げたかと思うと、信号が変わったのかとの一護の希望を裏切って身体の向きまで一護へ向けた。
(う、わ、ぁ)
戦々恐々とはこのことか、と肉が融けだすくらいに汗を流しているのに身体の芯は冷え切って一護は背に悪寒さえ走った。
(来るっ、来るっ、来る!?)

悠然と、王者面して迫り来る恐怖に一護は目を見開き、息を呑んだ。肺の極上部で酸素を交換して、交錯したまま外されない猛獣の双眸は確かに獲物を逃さない力を有していると確信した。距離が詰まる。半透明に肉色の滲む爪も、褪色したように黄色みがかった太い牙も届く間合いへ獣が侵入する。躊躇も自身への疑いもない足取りがまた恐ろしく、いっそ目を瞑ってしまいたいのにそれも出来ない。アスファルトで作られた町は太陽の光を反射するばかりか増幅させて一護の視界を危うくさせる。眩しすぎて、地面が歪むのがそのためなのかそれとも自身が(空気にでも)酔っているのか判然としない。足下まで来てそれが一護を見上げたときにはもう立っているのも意志ではなくて出所不明の強制で。一護はただ、五月蝿すぎる心臓の音が誰のものなのかを考えていた。口の中がカラカラに渇いていて、しきりに唾液を飲下するのに一向に満足な結果にはならない。米神からまた一筋汗が伝って眦に留まった。瞬きをすればきっと落ちるか目の淵を辿って眼球を焼くだろう。獣は一護を観察している。その眼が興味を滲ませているようなのを見留めて一護は、何故かと首を捻るより好機だと考えた。逃げられる―――。だけれどまるで見計らっていたかのようにそれもまたアクションを起こし、一護は再び凍りついた。笑ったのだ。にぃ、と。悪辣にも優しげにも見えたそれは、だが笑みのはずがなかった。なぜなら獣は笑わないからだ。笑うのは人間だけだ。笑みに見えたとしてそれは錯覚の筈である。そして、また仮にそれが確かに笑みであったとしてもそれは

威嚇の表情なのだ。

一護は信じられないものをみた衝撃と、襲われるという確信とでとうとう自ら心臓を差し伸べるくらいの心境で意識を手放してしまおうと、仰向けに倒れる態勢を整えるべく空へ視線を投げたときだった。その清廉なまでの青空が最後にみるこの世の景色だと、よほど印象的に網膜へ焼きついた刹那
「よ、何ぼんやりしてんだ?」
と、撥ねるような手に肩を叩かれた。
それでふっと視界が切り替わり、殺人的に凶悪な太陽の輝きは遠のいて少しだけ褪せた夏空が塗り残しの雲を浮かべて広がった。一護は肩を叩いた誰かへ首を回らせると、そこにはクラスメートの女好きが立っていて。彼の手元を見ればCD屋のオレンジ色の袋がぶら下っていた。
「あ‥?」
一護が呆けている以外何物でもない声を漏らせば彼は盛大に笑声を吐き出し、どうしたんだよ!と大袈裟に一護の背中を叩きまくった。
「いって、啓吾テメェ‥っ」
「はははっ、なんだよ珍しいなぁ!昼間っから往来で夢でも見てたんですか?」
心底楽しそうな表情は彼の云うように珍しいものを見れたからに他なかろう。それに悔しさを覚え始めて一護は自分が日常に戻ってきたことを知った。
「?、どしたんだよ一護?」
辺りを見回す一護に啓吾が不思議そうな目を見せれば、今度はじっとその目を見つめられて本当にどうかしてしまったのかと、常に無い様子の一護は思考に没頭したようでもあった。
「ん‥、いや。なんでもねぇ‥」
どこか失望を含んだような応答は、それでも心ここにあらずの態で啓吾は首を傾げる。何を期待されていたのだろうか?
だけれど啓吾は追及しないまま一護を誘って歩き出そうとした。横断歩道を渡るべく信号へ向かって直ぐに足を止める。
「一護?」
数歩の距離を空けて放心したように突っ立っている友人は此方側の、さらに向こうの何処かを見つめていて。啓吾はその視線の先を追ったけれど、友人が心を捉えられるような何物をも見つけられずに戸惑うように彼へ向き直った。
「なにやってんだよ。信号変わっちまうぜ?」
ほら、と点滅を始めた青信号に啓吾は慌てて一護の腕を掴むと、そういえば一護の行き先聞いてねぇよなぁなんて思いながら構わずに梯子模様の白線を飛び越えるように走った。丁度よく遊び相手が見つかった、なんて喜んでいる啓吾に腕を引かれながら一護は背後を振り返って、あの獣がいないかと恐怖ではなく期待でもって探していた。
獣の眼を思い出していた。透き通る眼球は当たり前だが人間のそれよりも大きくて、搾られた虹彩は強く、水晶体は僅か翠に色づいていた。
「笑ったんだ‥」
「あん?」
横断歩道を渡り終えて手を離した啓吾が一護の呟きに振り返ったが、それ以上は口を噤んだ一護に、あまり気にはしていない様子で前へ向き直った。
「なー一護ー、これから何処行くー?」
ゲーセンでも行くかー?プールとか?ナンパなんてしちゃいます!?
何を想像しているのか手を組み合わせて身をくねらせる啓吾に一護は見向きもしないまま、あれば陽炎の幻かと、重そうな身体をもって現れた猫型の獣を思い出していた。







2006/07/24  耶斗