[浅葱色の夢]




 浅葱に染めた着物を持っていた。
 結局一度も袖を通さず、箪笥の肥やしにしてしまったけれど。
 何故だか、妙に未練の残る着物だ、と冬獅郎は力なく見上げた鉛色した空に思った。
 なんでもなくはない、確かく言葉に表すながら切迫している(それはあくまで自分を取り巻く人間たちの顔をみての感想だが)状況で、そんななんでもない、しかし自分にしてみれば未練が残るくらいなのだからなんでもなくはない、むしろ重大な一事を考えているのは、一種現実逃避というやつなのかもしれない。
『血が‥ッとまりません‥ッ』
――――あぁ‥そんな泣きそうな顔して訴えなくともちゃんと分ってるから‥
 感覚はとうに無かったけれど、それでも寒暖の差くらいは感じ取れるもので。
 冬獅郎は己の腹を濡らすそれが一向に熱を失わないことを知覚していた。
『隊長‥ッ隊長ぉお!』
――――泣くなよ、松本
 なんだか可笑しい気分になって、冬獅郎は笑った。
 笑った、と彼は思ったけれど、それは彼を囲う人間たちには痛みにうめく人間の自嘲であった。
『隊長‥』
『たいちょぉ』
『隊長』
 自分の名前がなんだったか忘れてしまいそうだ。
 また、冬獅郎は笑ったけれど、そのたびごとに苦しげに顔を歪める部下たちに、それもやめたがいいのだろうかと思ってみる。
 それから酷く気だるい目蓋を持ち上げて、筋肉の痙攣して整わない視界に苦笑して、彼方で呆然と己を凝視して立っている、血色を被った萱草色の髪した少年をみた。
――――どうしてお前こっちに来ない?
 冬獅郎は、眩しそうに目を細めた。ぐずる子供をなだめる眼差しで彼をみた。聴覚が遠のいていく。きっともうすぐ目も見えなくなる。
 彼の顔色が変わったようだから、己の眼から意を汲んだろう。
――――そうだ、こっちに来い。
 せめて、最期に俺の名前を呼んでくれ。
 お前の声を抱いて逝く。
 それが最上の弔いと、冬獅郎は切に願うのだけれど。対する彼は今にも逃げ出したそうな顔して、悲壮に冬獅郎を見つめるだけだ。
 手を、伸ばせればいいのだけれど。
 そうすれば彼も、地に張り付いたようなその足を動かしてくれるのだろうに。
 少しだけ寂しくなって、そしてそれが大きな不安になり得るのを知っているから、いっそう強く彼に願った。
 けれどやがて、敵わぬ夢かと冬獅郎は力を抜く。倦怠感に抗えなくなったから。気持ちは強くあるのだけれど、身体が意志を凌駕したから。
 諦めたつもりはなかったけれど、冬獅郎は力を抜いて。そうして彼の目蓋は下りた。誰もが認める終わりだった。



 ひとつ、思い出したことがある。
 俺は浅葱色の着物を持っていた。
 一度も袖を通したことのない着物。
 気に入らなかったわけではないのだけれど、ひとつは強いられることもなく、ひとつは切望することもなく、そして何故だか着物が己を拒んでいるようだったから。
 広げてまで眺めてみた着物。
 そうだ、あれは知っていた。
 己に相応しい人間を。

 残念だ。あれはきっとお前を喜んだろうに

 不可侵の眠りに堕ちた冬獅郎の唇は、微か綻んでいた。






2005/06/19 日記
2006/04/19 掲載
 耶斗