ボコ題



06:ひっぱる

―――大岡裁きって知ってるか?
―――あん?越前守のあれか?
―――そうそう。それの有名な奴
―――‥どれだ?
―――お前の頭の中にはどんだけのエピソードが詰まってんだ‥。一番ポピュラーな奴だよ。大岡裁きの時代背景さえ知らない奴でも知ってるようなの。
―――‥‥‥。
―――俺が悪かった。天才様には凡人のキャパなんざ分かんねぇよな‥
―――嫌味か?
―――違いますー。二人の母親がガキ取り合う話だよ。
―――あれか。
 得心したという風に空に視線を投げ出して一、二度頷いた後、男はそれがどうした?と訊ねた。その眼差しを受けた少年は最近よくそうするようになった顔をして小首傾げ
―――俺の恋人だっていう男がもう一人現れてお前と俺を取り合うことになったらお前、俺の腕を放すか?
―――‥‥‥
―――‥‥‥




 阿呆らしい、と男は笑う気力もないというようにそれは忌々しげに吐息して
「一瞬でもお前を哀れむつもりはねぇよ」
「喜べばいいのか悲しめばいいのか」

 お前の闇まで愛してやる
(それがどちらの痛みを伴うものでも)
 や(嫌)なやつー

 やっぱり少年は最近よくそうするようになった顔で笑った。






10:鼻血

 ぬるりとした感触が鼻から垂れたのを感じて指をやれば、触れたのは赤い絵の具のような血だった。そういえば鼻っ柱が痛むような気もする。頬骨やら顎やらも鈍痛が響いているから麻痺していたが、血を見て粘膜が裂けたことを意識すれば骨に沈んでいた痛覚が神経を伝い始めた。
「くそ」
 別に。男だから。
「いんだけどな‥」
 折れてても変形してても。だが指で(怖々)確かめる限りでは己の美しい鼻梁は保たれたままのようだ。
 凭れた壁は冷たくて、項垂れた項の筋肉は突っ張って、額から垂らした糸を引っ張られているような気分だ。見詰めていたって穴なんか空かないのに、その向こうが覗けるような気がして瞬きも疎かに茶色い木目を凝視めていたら、眼球は痛んだし視界もぼやけた。
 殴られるのだって、返ってスッキリするし。
 盲目になりそうなところを醒まさせてくれるし。
 それだったらどうしてアイツは殴るんだろうと
 思って、馬鹿馬鹿しくて、首を振って笑った。
「あぁ」
 仰げば強張った首の筋肉が軋んで、喉を擦った声は嫌な具合にしゃがれてて
「一発殴りて」
 そうすりゃ暫らく、999発くらいは我慢してやれそうなのだけど。
「手加減って言葉、知らねぇんだもんなぁ」
 毎度鼻血が出るまで、というより鼻血が出るように殴っていく男へ向けた二度目の声も、やっぱり掠れていた。






12:立てない

 立てない。ガクガクだ。全然脚に力が入らない。入れようとしたら変な痺れが奔って笑える。くすぐったい。
「はっ」
 キチガイじみた喜笑が上がる。可笑し過ぎて仕様がない。笑わないでどうする?こんな楽しいことを!
 ここは何処だ?路地裏だ。何処の?何処かの。
 何処だっていい。この世界に俺の居場所は無くこの世界の何処でもが俺の場所だ。
 昂奮してきた。どうしよう。まだ殴り足りないし殴られ足りない。どれだけ眠っていたか知らないが表通りから聞こえてくる雑踏の賑わさに夜もまだ盛りの頃だとは分かるから一時間経っているかいないかだろう。当りをつけて左手首を捻り、ずしりと重い腕時計の文字盤に目を凝らせばバイト上がりの10時に店の裏口を出て1分も経たないうちにカラまれてから40分しか経っていなかった。殴りあった時間も分からないが眠ってた時間よりは長いだろう。
「痛(い)っち‥。はは」
 乾いてる。声も、空気も、体の中も。せめて腹の中だけは滾る一瞬があるから目が合えば拳を突き出す。何もかも殴り倒して誰も、物も、立っていなくなったらその時こそ俺は全てに絶望して笑いながら死んでいけるだろう。今この狭い路地に窮屈そうに身体を折り曲げて倒れてる奴らじゃ足りない。こんな光景、全然終末的じゃない。仰け反れば貝殻骨を預けたコンクリートの沁み込むような冷たさの間に隙間が出来て、あと少しで届く向かいの壁にはやっぱり爪先も届かなかった。
 世界の終りが見たいんだ。
「立てねぇなぁ‥」
 はは、とまた笑おうとした。のに
「何が可笑しいんだ?」
 この世の全てに飽きてしまったというような声が降ってきた刹那、ごっそり、根こそぎ世界が変わったのだと彼は後に笑う。歪な形に開いていた唇の端が筋肉の緊張を失って落ちたら、僅かに路地へ入り込んだネオンの明りに身を沈める影が彼を見下ろしていた。
「あんただれ」
 何故、突然自分が舌足らずになったのか彼には分からなかった。
 焦っているのか緊張しているのか呆けているからか。兎角人の感情というものは見極め難いと彼は思う。それが自分のものであっても。
 見下ろす影は眼球が歪んでなけりゃ小さいはずだった。着てるスーツも小さいだろう。だけれどこの圧倒感はどうだろう!湿り気を帯びた路地裏の饐えた空気も影のプレッシャーに力を借りたのか、重く。それが只の人間であるはずがないと彼に確信させた。
「誰でもない。お前は?」
 何を言ってるんだろうこいつ。面白いなぁ。
 もしかしたら同類かもしれない。
「俺だって誰でもねぇよ。なぁ‥、立てないんだ」
「そうか」
 やっぱり面白い!こんな状態の奴前にしてその返事!喜色が満面に表れたが彼も、彼を見下ろすその影も気付いたようではなかった。
「こいつら俺がやったんだよ」
「そうか」
 それらには目を向けないまま、影も視線を逸らさないまま、言えば分かるだろうと確信でもって彼は無邪気な子供が自慢するように影へそう伝え、無味乾燥に相槌をよこした影にまた無性に嬉しくなって口角が上がった。吊りあがった口角に上唇から犬歯が覗いて、彼は白痴みたいな笑い方だなぁとぼんやりと考えた。それでもこんな面白い人間(?)から目を逸らすなんて勿体ないと細まった視界にもそれを留め
「立てないんだ」
「そうか」
「連れてって」
「何処へ?」
「アンタが行く所」
 影の、片眉を持ち上げる程度の間が空いて
「立てない奴には行けねぇぞ」
「平気だよ。アンタがいるだろ」
「足になれってか?」
 影の声にも愉悦が混じっていくのが彼には感じられた。興味を持ち始めている‥。当然だ。彼は思う。俺だってお前に興味を持っているのに。
「いいだろう。だがその程度の怪我で立てなくなるようじゃ俺が困るな」
 その条件を聞いて今度こそ彼は堪えきれずに噴出した。さぁどうアンタを驚かせてやろうか
「違う違う」
 腕が持ち上がらないから首を振って。(まるで痙攣しているように)
「今はアンタに骨抜きにされて立てないだけ」
 さぁどうだ!お前の間抜けな面を見せてみろ!
「そいつぁ俺が責任を取って歩かせてやらねぇとな?」
 笑ってるような声と一緒に影の手が彼の二の腕を掬い上げるまでには、両眉が持ち上がるくらいの間があった。









lastup date; 11/18 '06


07:殴られた
08:泣きわめく
09:抵抗する
11:マウントポジション
13:徹底的に


随時増殖
  耶斗