ドントコールミー 名前は呼ぶなと彼は云った。 自分の声で追い詰められるという現象を引き起こす行為が他にあるだろうか。否。 視界さえ廃棄してしまいたいほどの羞恥と、けして手放せない全神経。快楽は、酔うためにある。 男は行為の後にだけ煙草を吸うらしい。身体に似合わないそれを小さな手と細い指が支え持っている様が、それでも男のなにものをも損なわないのはひとえに男が男であるためだろう。一護は布団を下肢にだけかけ、うつ伏せたまま縁に座る男を見ていた。月の影は惜しげもなく男に注ぎ、まるで祝福しているようだと思う。それだから先ほどまで興じていた戯れが酷く不道徳的で、そうしてそれも己ばかりが悪いようで、美しいその光景から目を逸らす。開け放した障子の向こう、淡い月影の環は濡れたようして、風はなく、空気は温かった。浮かんだ汗はまだ乾いていない。 身じろぐ気配に男は気付き、中空を見やっていた横顔を一護へ向けた。 「起きたのか?」 応えない。 一護の気配は起きている人間のものだった。隠し方が下手なままの未熟さを、しかし男が直してやろうとしたことはなかった。それが優しさだとは考えていなかったためかもしれないが、その役割は己にないと判断していた。それだから男は行為の後の不味い空気を煙の味で誤魔化すのだ。 コン、と軽い音を響かせて男は灰を灰吹きに落とし、そのまま煙管をそこへ載せると低く腰を浮かせた。畳が重みを受け止める軋みを上げ、塊が億劫そうに、横たわる一護へと滑り寄った。畳の擦れる音と膨らむ影の持つ圧迫感を項に覚えて一護は震えたが、それは小さく、男は見なかった。 さらりとした指先が項に触れ、その冷たさに肩が揺れる。布団に押し付けられた声が諫める言葉を紡いだようだが、くぐもっていて聞き取れなかった。 「眠れなかったか?‥足りなかったか?」 男の声は厭くまで事務的だ。単調で、味気ない。そうさせているのは己だと一護は知っている。 「いい‥ちょっと目が覚めただけだ‥すぐにまた‥」 寝る、といいかけたところで首を包むように置かれていた手が移動した。肩甲骨の間を縫って、背骨の凹凸を確かめながら下方へ。不埒な動きに一護は身体を返し、背中を男から離した。 「何してんだよ‥っ」 右半身で身体を支えて、男へ晒した胸が空気に触れて熱を散らした。右手を持ち上げたまま男はそこに片膝を立てた半端な胡坐をかいていて、表情は部屋の翳と月の影に隠され窺えなかったけれど 「物足りなそうだったから、もう一戦付き合ってやろうかと」 揶揄る色帯びた声に想像はついた。 「いらねぇ‥、もう寝る」 先刻までの情感が台無しだ。ふてたように唇を尖らせ、一護が布団を引き上げようとしたとき 布団の端に触れたその手の上へ男のそれが重ねられた。 「‥なに‥」 知らず喉が緊張する。男の触れようが嫌に優しいものだったから。包むように、ただ触れた。 身を傾げた所為で男の顔に光が差し、一護から男の表情を読み取ることが容易になった。向こう半面はまだ薄い翳を被っているけれど。 「‥っ」 男の唇が音は捨てて短く動いた。それが呼んだ、そう男は呼んだのだ、名を察することも一護には容易だった。だけれどもどうしてそんな顔をするのかと、一護は男の水色がかった翡翠の瞳を見ていられない。 (何故‥そんな顔をする‥) 男は綺麗だ。 顔の造りも瞳の色も、いつも不機嫌に刻まれている眉間の皺さえ男を男たらしめる因子であり、髪の色も細さも柔らかさも、肌のすべらかさも、首の、腕の、指の、細さも、肩の、薄さも 全て、美しく。そうして強かった。 その強さに惹かれたのだと一護は思う。ただ強いだけではない美しさに、これならば惹かれることも罪ではなかろうと己を許そうとしたのだ。 いつからか劣情を抱いた。男相手に、男の自身が。ただそれは定かな形を持たず、獲得欲も沸かず、眼に映せば惑う程度の幼稚なものだった。無意識が歯止めをかけていたのかもしれない。 だけどもそんな一護の無意識の牽制も呆気なく壊されることとなる。他あらん、男によって。 その時一護は答えたのだ。ひとつの条件をもって。 月の明るきに畳の影も鮮明である。強いほどの光に、障子に濾過することを望んだが、それを云えば逃れることが出来なくなる。 (そんな顔で‥) そんなことをしないで欲しい。 ただ一つの条件は、ただ一つにして最高の枷となり互いを押し留めてくれている。否、俺だけやもしれぬ。 男は綺麗だ。顔の造りも瞳の色も。その全て、持ちうる空気の全てさえ清浄で、地に足を持っていることをも不思議に思う。 月の色に似た髪の色が、白い肌をまた白く見せて、とてもとても儚げに見せるのだ。 いつか消えてしまうと思わせるからこそ、許されると思ったのか。 重ねられた手の下で拳を握り、左の肩へ顔を埋める。自分の体臭に混ざった男の匂いに、否応なく昂奮が頭を擡げた。 (名前を呼ばないで) 唯一つの、条件だ。 己の嬌声に追いたてられる、男の睦言に追い詰められる、 名前を呼ばれれば、突き落とされる。 否、囚われる。 知っていたから予防線を張った。 怖ろしかったから障壁を築いた。 許せなかったからあらゆる抵抗を。 だのに男は卑怯な方法で今己を懐柔しようとしている。 触れる手の熱は低い。けれど手の甲は汗を掻くのではないかと思われるほどに熱を感じている。 逃れる術は?切り抜ける術は? 塞いでしまえ 上体を持ち上げ、一護は男の口に齧りついた。 ちらりと覗き見た肩越しの灰吹きは、未だ僅かに紫煙を燻らせていた。 2/8の日記に掲載 2006/02/15 耶斗 |