体育倉庫、保健室、そしてあの日の続き 2








小さな頭。銀髪が鬣のように広がり、勇ましいなと、威風堂々とした背中に思った。部下達だろう、彼を囲む厳めしい男達の、凛とした女達の、彼に潅がれる瞳には尊敬と信頼が顕れて、それだけで男の人柄を見るようだった。
初めにかけた言葉はそう、
『慕われてんだな』
だったか



「呆けてんなよ」
笑う声にはっとすれば、半身を起こしかけた己の上に乗りあがった影。体重を感じないのは男が腰を浮かせているからだろう。触れるか触れないかの距離が返って圧迫感を与えて腹の筋が震える。
呆けていた。何を。
冬獅郎、と呼ぼうとしたが喉が上下しただけだった。そうして不意に可笑しくなって、それは素直に吐息を弾ませた。
「何が可笑しいんだ?」
小首を傾げた男の貌は視えない。翳が濃くなっている。そろりと忍び込む風にも夜陰が混じり、冷えてきた。自嘲だか喜笑だか判別はつかないまま込み上げる愉快を堪えきれず、徐に声を伴う。馬鹿らしい。よりによってこんな時に思い出すなんて。
泣きそうだ。
「何が可笑しいんだ?」
いぶかしむというより心配するような響きがまた可笑しい。戸惑っているわけがないから、様子見というところか。全く、これだから冷静な奴は好きじゃない。
どうせ見えない男の貌だから、真っ直ぐに見上げて一護は、己の裡に居座り続けている諦念が少しだけ薄らいだような気がした。
「思い出したんだよ」
僅かに吊り上げられた口角が降りて、表情筋はただそこにあるだけになっていく。久しぶりに味わう気分だ。穏やかというか‥。諦観じゃない静かさが心地好い。
「お前と初めて会った時のこと」
見えない男の顔の中で、柳眉が秘かに持ち上げられる気配がした。



欲情したのは俺だった。許せないから否定して、認められないから逃げ出した。何故あの時男は追って来たのだろう。追わなければならないと思わせるほど酷い顔をしていたろうか。心配して追って来たというのなら、嗚呼、何と云うこと。何と云うこと‥
とことん、俺が、悪いのだ。
『黒崎‥っ?』
そうだ、この時のこいつはこんな顔をしていた。誠実そうで、頼れる上司で、潔白そうで。
一護は記憶の波を漂う。腹の上の男を見上げながら、一枚、フィルターを掛けるように、現実と過去の映像を同時に見ている。
「一護?」
そう云えば声も変わったかもしれない。死神達の中で彼がどのように話しているのか、この2年間聞いたことは、聞こうとしたことはないのだけれど。胸の上に置かれた手を繋ぐ、すらりと伸びた男の腕から屈服させようとするような力が抜けた気がした。男の肌から、不穏な表情が発散していくようだ。一護は、ただ、口角を持ち上げて笑うような表情を作ったが、痛みを堪えるような眉間と双眸とが泣いているような顔を見せた。
『黒崎、何を逃げるんだ』
『‥っ』
伸びる廊下を抜け出し、また左右に廊下が伸びる中庭に面した其処で、袖を掴んだその手を制御の利かない力で払えば、男は目を丸くして驚いた。
『何なんだ‥突然』
息を吐く事しか出来ない。走り逃げて上がった息は簡単に整えられる筈だけれど、会話が、会話をするに必要な言葉も浮かばないから整える振りをするしかない。胸を上下させ、視線を男を映さない斜め下へ落とせば朱い欄干の足が薄い影を伸ばしていた。
『黒崎』
鳥の飛び立つ羽音が鼓膜を震わせ、それは逃げろと叫んでいるようだった。ぐいと、口端に滲んだ唾液を拭って下方の中庭に目を落とす。7階ほどか。梢が遠い。整えられた庭に敷き詰められているのは白石だった。
『黒崎?』
男の声に剣が混じる。元来気が長い方ではないらしい。それとも明瞭しない態度の人間が嫌いなだけか。だけどどうすればいい。云うべき言葉が見つからない。分からない。
『黒崎』
声の質が瞭然と変わる。このまま黙って顔を背けていれば呆れて帰ってくれるかもしれない。そうして二度と、二度と己と関わろうなんて‥
『黒崎一護!』
『‥‥っ、触るな!』
思わず物怖じするほどの強さで掴まれた腕を、払ったところに顔があるなんて。
指の背に残った不快な感触に戸惑い、唖然とした表情(かお)が怒りを滲ませていく様に戦慄した。
『てめぇ‥』
『‥‥』
落ち着いていた呼吸がまた乱れ始める。膝から力が抜け、欄干に凭れかかったところを力任せに胸倉を引かれ倒れ込んだ。
『‥っ』
『どういうつもりだ、黒崎一護』
虹彩の窄まった眼に威圧される。受身をとれず、強かに打った右肘にじんとした痛みが広がる。見上げる貌の、右側面から指し射る逆光が照らす肌は光が舐めた様な色で
「欲情してたんだ。あの時、確かに」
紐が緩まれば、夜の帳は急速に空を覆い終えた。花壇に住まう虫の声が高らかに歌を奏で、風はいつのまにかなりを潜めていた。
夜の中、白い天井と白いカーテンと白い男のシャツが蒼白く浮かび上がる。何時の間にか男の表情も明暗に象られ、それはなんの感慨も見せなかった。おそらくは自分も同じ顔をしているだろうと、落ち着いている己を不思議に思いながら一護は頭を受け止める枕の感覚と、腹の上に座る男の体重を漸く認識した。
欲情してたんだ、あの時。
己を見つめる男は何を思っているだろう。興味なさ気のようで、考えあぐねているようで。一護は反応が欲しくて、同じ台詞を繰り返そうと貼り付くような唇を離したとき
「知ってる。だからお前を抱いたんだ」
酷く、酷く穏やかな、疲れたようで安堵したような、
聞いたのは初めてのようでもある声に名を知らぬ感情が込み上げた。
噛み付いた。あの時。驚く男の顔を憶えている。忘れていた、今まで。なんて馬鹿な。
男の胸倉を掴み寄せて、唇を切りそうなほど乱暴に噛み付いた。唇を重ねたいわけでも、擦りあわせたいわけでもなく、まさしく喰らおうとするような。甘やかな情動のわけがなかった。破壊衝動に限り無く似通っていた。破滅願望が突き動かしたのだと思った。
男が驚いた顔を見せたのはそれ限りで。以後は今に続く怠惰と、想起された胸を掻き毟るような罪悪感しか憶えていない。あの、最後の一瞬間、直ぐ側の空き部屋へ引き込まれるまでの、己が壊す前の男の日常の終りの刹那、男の翡翠色の瞳が浮かべたのは何と云う感情だったのだろう。
「ごめん」
「謝るな」
「ごめん‥」
「謝るな。狂うだろ、調子」
「ごめ、ん」
「謝るなっつってんだ」
謝罪を重ねる毎に募った苛立ちのまま、男は一護の唇を塞ぎ、息を飲み込み震えた一護へ
「漸く‥つくっていける」
吐息だけで囁いて。脱力し、肩口へ顔を埋めるようにして被さった。







『慕われてるんだな』
と、己に向けられたと思しき声に振り返った先には鮮やかな残像しか残っていなかった。
「…あ゛?」
だから追いかけたんだ。驚いたような顔と焦ったような瞳(め)と嫌悪するような眉間の残した残像が網膜に焼き付いて
まるで、追えと背を押されたようだった。追ってくれと腕を引かれたようだった。
持っていた書類も床に撒き散らして、部下の声は遠かった。



長く使われていなかった部屋の畳は少し湿った匂いがして、篭もっていくのは己らの体臭だろうかと広げていく少年の衣に思う。
未完成な筋肉、日に焼けない、隠された肌は思うよりも白く、すべらかで、今しっとりと湿りつつある。
触れることに戸惑いはなく、乱暴な感情もあっただろう。それ以上に手篭めにすることを望む衝動があった。噛み切られた唇から流れる血を舐めとれば、それを見留めた少年の眼は奇妙に歪んだ。泣きたいような、強請るような。どうでもよくて、分け与えてやれば拒絶に首を振った。
縫い止めた手の抵抗は弱く、時折震える指の先に、己の指を絡めてやれば安心するだろうかと少年の胸で脹れる突起を舌先で転がしながら思う。ひくりひくりと引き攣る喉が扇情的で、縊りたくなったのは何という感情の裏返しだろうか。それとも情動そのままだったろうか。喰らい、喰らえば少年の本心も悟れようかと柔らかくなっていく肌に惑った。
衣擦れのいちいちに反応し、恐れるように此方を窺っては目が合う毎に視軸を逸らす。些か粗暴に腰帯を抜き取ってこれみよがしに遠くへ放れば、逃げられないのに逃げ道を探すかのよに視線を泳がせる。
仕掛けたくせに‥
自分は被害者になろうだなんて卑怯すぎるというものではないか。
舐めとらなかった血が少年の腹に落ちた。
袴を下ろし、勃ちかかったそれを空気に触れる。「感じてたのか」嗤えば傷付いたのか驚いたのか、朱を増し余計に首を捻って顔を隠そうとした。日の傾き、汚れた障子に削り取られた光彩は褪せて、少年の身体も陰が被さる。例え表情が見えなくなったとて隠し方を知らない気配は露に少年の心を教えてくれる。啼かせてやれば、もっとあからさまに伝えるだろう。
兇暴な想念に舌なめずりして、はたと捉えた感情があった。胸の奥を僅かに搾る小さな痛み、ほんの微かな違和感は、しかし息を詰まらせる、根元にあるようだった。
少年の顔を見る。人差し指を噛んで、光源に背けた顔は半ば以上陰を被って瞳の光さえ見えなかったが、おそらく見たかったのはそれではなく、ただ確かめたかっただけなのだろう。
少年が、己を見ないことが
面白くないと
切なくさえあると
「黒崎」
返事のあるわけがない。さらに瞼へ力を入れて、自身どころか世界も拒絶しようとするように
「黒崎」
俺を見ろよと言いたかった。
「黒崎」
語気を強めても頑な少年は
「黒崎」
臆病なのだと、気付いて
(お前、俺が、好きなんだろう?)
あの一瞬を、俺は忘れはしないし、あの一瞬が教えた直感を俺は疑いはしない。
拒むというなら突きつけてやる。忘れようというなら思い出させてやる。逃げるというなら追いかける。
「離さねぇぞ」
凄む声が彼にどのように響いたかなんて、こちらもまた余裕などないのだから考えられるわけがなかった。







白く、白い部屋の無機質な白いベッドの上抱き合って、一護に被さる冬獅郎は一護の耳朶の側で囁いた。
「つくっていく。いいな?これだけ時間掛けて、これだけお前を待ってやったんだ。協力しろよ、これからは」
作っていくんだ今度こそ、俺達の‥
込み上げる感情に眼を眇めて、一護は陰に覆われた天井を見詰めながら身に染みゆく熱に頷いた。











最後には救ってやりたい2007
2007/01/08  耶斗