体育倉庫、保健室、そしてあの日の続き







空(くう)に漂い空気を濁らす土埃を照らし出す、白い窓の向こうからの喧騒は已まない。リレーだろうか、騎馬戦だろうか、高校で催されている体育祭には自身も参加している筈なのだけれど、3年ということでただでさえ少ない参加競技、タルいからということで午前中の3種目目にエントリーした200m走の後は教室で寝ていようかと思っていた、のに。
体育倉庫、内側から鍵をかけて、曇りガラスが濾過した午後の陽に暖められたマットの上で
(2年…だぞ)
全ての戦いが終わって2年、正常な「学生」生活を許されてから2年。
なのにこの男は未だに度々、突然、訪れては
配慮も同情も憐憫も無く
「ぅう…ぅ、」
天井の骨格が薄らぼんやりとした陰に身を沈めている。男の貌はそれを背景に彼を見下ろしていた。繋がる下肢を悪戯に揺らめかせながらその双眸は、冴え冴えとして、深い。
声を出せばいいのにとでも思っているだろうか。普段より笑うことなど皆無だろう男の薄い唇がこの時にはうっすらと笑んでいるようでもあった。一護は己が口を塞ぐ手の指を噛んで声も甘美の波も耐える。耐えていい目にあったためしなんてないけれど、この状況に置かれた時点で、否、男が目の前に現れた時点で既に「悪い目」なのだ。
「ふぅ…っ」
迫り上がる悲鳴に咽喉が閊える。涙だけは耐え切れなくて勝手に目の端からこぼれては耳朶に侵入し背を冷やす。
嫌だと言った。無理だと云った。説明したし訴えもした。
だけれど校舎裏で捕まってそのまま、近くにあった体育倉庫へ押し込まれた。
外の喧騒が気に懸かる。大会終了までは体育倉庫に用のある者などいないだろうが、それでも全く誰も来ないとは限らない。もしかしたらサボりの場所にここを選ぶやつだっているかもしれない。鍵がかかっていれば不審に思うかもしれない。
男に顔を見せたくないから首をひねる一護は白々とした窓と、男の向こうにある重い鉄の開き戸へ定まらない視軸を彷徨わせていた。
「外が気になるのか?」
当たり前だろう。行為を強要した不埒者は睨み付ける一護へ飄々と嗤ってみせる。
「他人の目が気になるのか?」
違う、違わないけど違う。この場面を見られることも何より嫌だけれど、今は、お前に見られていることからして嫌なんだ。
「モラル?」
筋肉の撓る音を聞いた気がした。関節が擦れる音を聞いた気がした。男が身を傾げて一護の顔を覗き込み、拒んで背けた彼の耳元へ吐息を吹き込んだ。
「今更。”小学生”に抱かれてるくせに」
「うる、さい…っ!」
細い腕細い首細い肩細い背
そのどれもに欲情したのは己だけども、どの子供にでも性欲を覚えるわけじゃない。何度も否定しようとして、うまく回らない口に泣きそうなほど狼狽することを繰り返してきた。
「違うっ」
「何が」
「んぁ…っ」
目に膜張った涙が世界を朧にする。深く息を吸い込めば咳き込む砂埃の中で呼吸もままならず、脳へ酸素が届かない。届かないのは、届かないのは想いも同じで。血が上る、くらくらする、気絶しそう、それよりも
「ぃ…きた…」
「何?」
「ぃき…たい…っ」
「聞こえない」
「ふ…く、っの…」
達きたい、なんて泣いて縋れるほどまだ矜持は捨ててない。男は一護の開放をその指で阻みながら淫猥に腰を揺らしている。粘膜が擦れあう粘着質の水音にさえ身のうちを犯されながら、与えられない最奥への踵を願っている。いっそそのまま脳天まで貫いて、俺を殺してくれたらいいと、暗く、狭まっていく視界に思う。眦が熱い、目頭が痛い、胸を晒けるたくし上げられた体操服を脱いでしまいたい。足先に引っかかる白い、砂に汚れた短パンは落とせない。
達かせて欲しい。
「冬獅朗…」
か細い声が男を呼ぶ。それだけの声しか出せないから。すすり泣くような声だとして、それを恥と思うだけの理性もないから。
「…から」
頼むから
「…せ、て」
首にすがり付いて耳朶を食むように懇願した一護の項から、香った砂と汗の混じった匂いに冬獅朗は鬱蒼と微笑んだ。







(帰ろ‥)
喧騒が遠のき、心なしか陽の加減も和らいだように思うのは積み上げられたマットを背に膝の間へ項垂れているからか。項の筋が辛そうに痛む。
用を済ませたと見えた男は立ち去り際になにか言い残していっただろうか、鼓膜に届いたようで記憶していない空気の振動が果たして男の声によるものだったかどうかも定かでない。
(どちらにしろ‥俺に用なんてねぇだろ‥)
もう‥
立ち上がろうと床へおろした左手へ体重を移動させるだけで下肢の鈍痛が重い。笑いそうな膝に立ち上がりざまマットの上へ逆戻りしそうだった。
(くそ‥)
悪態をつく元気さへ残っていない。喉が渇いて、舌が貼りつく。深く息を吐いてしまえば其処から動けなくなりそうで、吐き出したい溜息を飲み込んだ。
(帰りたい‥が、)
家まで歩く力もない。休まなければ‥。ここではない、もっと落ち着ける場所。誰に見られても怪しまれない、安全で、できれば清潔な場所がいい。柔らかな布団があればもっといい。
(保健室、行くか)
今の顔色なら保険医も否とは言わないだろう。鏡を見なければ判らないが、鏡を見なくとも分かる。こんなに疲弊して、それでも溌剌とした顔をしているなんて冗談でも思えない。今にも倒れそうなのに。
ふらふらと出口まで歩いて、ふと臭いが篭っていないか気になった。己の鼻は麻痺してしまっているから、倉庫の中が砂埃の臭いなのか石灰の臭いなのか汗なのか別のものなのか、それとも混ざり混ざって原型を留めていないのか分からない。
(どうすっかな‥)
立ち止まって、倉庫の中を見回して、午後の白い陽がちらちらと埃を照らしているのを眺めどうでもいいやと思い直した。どうでもいい。このまま誰にも見つからず立ち去ってしまえば、どんな痕跡があったとしても己に結びつくことはないだろう。
どうでもいい。早く早く休みたい。
重い扉を開くために、腹に力を入れて取っ手である鉄板の窪みへ体重をかけた。
「きゃあ!」
「‥っ」
吃驚した。
「吃驚したぁ」
まったくです。
栗色の長い髪を流した井上織姫が大きな眼をまん丸に開いて一護を見上げていた。走ってきたのか息は弾んで、頬も上気している。それで唐突に、本当に唐突に一護は今日が体育祭なのだと思い出した。鬱屈とした倉庫の中に居た所為で、実感を失っていた。
「どうしたの?黒崎君、探し物?」
「へ?あ、あぁ‥いや、なにも‥」
歯切れの悪い言葉をいぶかっただろうか、ひやりと一護は肝を冷やした。けれど織姫は何にも気づいた様子なく、軽い相槌と朗らかな笑顔でまたねと一護の脇をすり抜けた。どうやら実行委員としての仕事を果たしにきたらしい。倉庫の中は重いものばかりだから、一護は手伝おうかと声をかけた。織姫は大丈夫と背中で笑って、具合が悪そう、休んでて、と心配そうに云った。その声の変化を一護は拾えなかった。
辛そうだから休んで。消え入りそうな儚さで立って居る、倦怠感を漂わせる彼へ、彼女は唇を噛みながら笑ったのだ。



空座高校の保健室はグラウンドの近くにあった。運動部への配慮か、フェンスを越えて5,6歩も歩けば裏口があったけれど、一護のいた体育倉庫はいくつかあるうちの最も古いもので、一番遠くに放置されていた。
一度玄関から校舎へ入り、靴を履き替えてから保健室へ向かった。外気より1、2度低い室内の空気は思わず肌を震わせた。5分の道のりを倍ほども時間をかけてのろのろと歩いた一護は、通り過ぎる友人たちの誰にも怪しまれない急病人だった。心配そうに声をかける友人たちへできるだけ平気に見えるよう微笑い返して、荷物を運んどいてやると云ってくれた一人には礼を言って別れた。立ち止まれば倒れそうだったから、よくよく顔も見ないで通り過ぎた。
「失礼しまーす」
「お、黒崎かー。どうした」
「れ、先生」
其処には本来いるべき筈の保健医ではなく一護の担任が座っていた。
「どしたんすか、保健の先生は?」
「運動場ー。テントの中で怪我人の手当て」
あぁ、と頷いて、それじゃあ先生はなんでここに?と一護が訊けば
「サボりにくる奴がいるから部屋番ヨロシクってさ。コーヒーとクーラーで手を打った。」
「クーラー‥。そんな暑くねぇだろう」
「何をいう。9月はまだまだ暑いぞぅ。クラスにクーラーがないんだ、せめてもの慰めじゃないか」
「職員室にはあるだろ」
「だからクーラーがないと引き受けないと答えたんだ」
熱いコーヒーを啜りながら飄々と応え、彼女は休むならクラスと名前書け、と一護の立つ入り口の傍に置かれたロッカーを指した。見ればバインダーに挟まれた幾枚かの用紙と紐でつながれたボールペンが転がっている。簡単にペンを滑らせクラスと番号、氏名、病名を記入して一護はベッドへ向かった。3つあるベッドはどれも空いていて、校舎から突き出る格好で造られている保健室の、裏口とは逆の窓際のベッドを選んだ。
「出てく時はクーラー切ってってくれよ?」
「奇特な奴だな、あいよ分かった。お休み〜」
自分の生徒が自主的にベッドへ入ろういうのに掛ける言葉に憐憫はないのか。生徒の自主性を重んじることがモットーらしい彼女には当然予想されることではあったが。
一護がカーテンを閉めてベッドへもぐりこんだ時、丁度保険医が帰ってきたらしい声がして、一護は先は聞かず眠りに就いた。



頬を撫でる微温い風に薄く目蓋を上げれば、風に膨らむカーテンの隙間から朱と青の混じる空が覗けた。
(あれ‥)
どれくらい眠っていただろう。ぼんやりと頭が重くなるくらいには熟睡していたようだ。
(窓‥先生か‥?)
保健の、だろうか、担任のだろうか。ありがたい配慮に、仰向けに寝返りを打ちながら吐息が漏れた。
よく寝た。大分回復できたようだ、これなら家まで帰るにも問題はない。
顔を左へ向けるとスチールの椅子の上に着替えとバッグが置かれていた。運んでくれただろう友人を思い出そうとして、明日になれば分かるかと思索を止めた。それから、明日は代休で、明後日にならなければ会わないだろうことと、早ければ今夜か、今既にでも携帯にメールが届いているかもしれないと思い当たった。
(とりあえず、早く帰って風呂入りてぇ)
そんでまた寝るんだ。
起きなければと思いながら、時間に甘えて枕へ顔を擦り付けた。自分の体温と髪の匂いが移っている。心地よくて、またうとうとと眠りに落ちそうだった。
(眠い‥。寝たりねぇ‥)
保健医が来たら起きよう。そういえば保健医はどこに行ったのだろう、人のいる気配がしない。いや、
(誰だ‥?)
一人、いる。
最後に見たときは担任の教師が座っていた、いつもは保健医が座っているだろう其処に
(生徒か?先生待ってんのかな‥)
それなら保健医が席を外している理由を知っているかもしれない。知らないとしてもおおよその予想はつくだろう。
思考が覚醒を始め、一護はその人物に声をかけようと身を起しかけて
(‥‥‥っ)
思わず、隠れる場所もない背後を確かめた。
夕暮れ色に染まるカーテン、溶けるような薄闇色の影形はあの男のものだった。急に己が無防備な気がして一護は焦った。いや、まず考えるよりも動かなければ。窓から出られるだろうか、男は己が目を覚ましたことに気付いただろうか、カーテンに映る影は近づいてはいないか?心地よい微温さの風も浮かせた肩から侵入すれば冷たかった。
(服‥を)
無防備だ。着替えなければ。
(靴‥)
廊下の向こうだ。
風をカーテンが孕んで大きく膨らんだ拍子に、滲んでいた影が遠くなった。
(今‥)
視界が解放された瞬間、一護は制服へ手を伸ばした。
「起きたか?」
「‥‥‥っ!!」
そしてそのまま、カーテンの下に現れた2本の足に、伸ばした指を畳んだ。
「なんで‥。帰ったんじゃ、なかったのか‥」
風が遠慮するように男の側でカーテンをはためかせる。男の楽しそうな声が返る。
「待ってろっつったろ」
戻ってみればお前はいないから、探したぞ。
(『待って』?あの時のか‥)
倉庫で最後、男は『待っていろ』と言い残していったのか。
「知らねぇ‥。聞いてなかった」
のようだな。喉の奥でくつりと笑う。何が面白いのだろう。
身体を。せめて身体を起こさなければ。これでは無防備にも程がある。
「先生は‥、この部屋に女の人がいただろう、その人、何処行った」
「あの女か。用事があるとかで鍵を預かった」
「鍵?部外者だぞ、そんな無用心な‥」
「弟だといったら納得してたぞ」
「自虐的‥」
男の薄笑いがみえるようだった。呆れて、少しだけ自由が戻った。ベッドの端を握っていた右手をまた服へ伸ばす。もう、着替えなくともこの状況から脱しなければ。2人きりなんて最悪のシチュエィションだ。
こちらからあちらの影が見えるということは、あちらからもこちらの影は見えているだろう。それでなくとも相手の男は気配だけで挙動を察するのだ、慎重にしたところで意味などないのだけれど。ベッドの反対側から降りようと後退りしたとき、派手にレールの擦れる音がして、引き裂かれるような勢いでカーテンが開かれた。
「−−−っ」
「一護、俺は怒ってんだぜ?」
何が、何を、何で
「待ってろっつったのに待ってねぇし」
それは、聞こえてなかったからで
「見付けりゃ手前は寝てやがるし」
マジで吐きそうなくらい気分悪かったんだよ
「あの女、今日はそのまま帰るんだとさ。鍵は明後日お前が返しとけよ」
なん、だ
「どういう‥意味‥」
「ここにはもう、誰も来ねぇって意味」
なんで、身体が動かないんだ。
悪辣に笑う男の貌は、逆光の中でもはっきりと見えた。