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「記憶がないの」
 唐突に顔を見せた女は少女が思わず椅子を倒して立ち上がるほどやつれていて、前置きもなしに助けを請うような、ただ独り言を零すような、そんな虚ろな瞳に少女を映して云った。ガラスを透った昼下がりの白々しい明りが彼女の目映いばかりだった金糸を死んだように見せていた。
「どうしたんですか?」
 彼女の身に異変が起こったのかと心配した少女は女に掛けよりその肩を支えるには足りない身の丈で、いっそ女に縋るような格好で見上げて問うた。
「あの子の記憶が消えていくの‥」
「あの子‥?」
 いちご、と女の唇が象った。声を出せなかったのか、その音を舌に乗せることが苦しかったのか空気の破裂するような振動しか伝わらなかった。
「一護君‥?いつからですか?」
 唇が戦慄いた。いつか見た彼にそんな様子など見受けられなかった。急激に掻き立てられた不安に引き絞られる心臓が苦しいというように、胸の前で一方の拳を握りこんだ手から血の気が失せる。
「ずっと‥。ずっとないの。あの子は何も、何ものも、記憶に留めようとしないみたい」
 自嘲に似た溜息が零れる。疲れきった眼差しが宙を彷徨い、少女を見留めると微かに笑んだ。無理に笑おうとして失敗した笑みだった。
「日番谷君は‥?」
 当然の流れだと、少女はそう思っていた。”あの子”に関わる事象全てにはいつか幼馴染だった男が関わっているはずだから。きっと、最も心を痛めているだろう、彼の
「誰?それ」
 そこで少女は、この世界に広がりつつあった異変がすぐ其処まで迫ったことを確信したのだ。





初めは育ての祖母だった。
久しぶりの帰郷に喜びながら交わした言葉の端々に、小さな違和感を覚えて尋ねたのだった。
『おばぁちゃん、最近日番谷君、来てる‥?」
少し考えた後老婆は答えた。
『どちら様だい?』

次は白道門門番の男だった。彼は自分たちがまだ流魂街にいたころ親しくしていた男だったから、顔を合わせる頻度が少なくなったとはいえ彼の知名度からいっても知らないはずがなかった。
『ねぇ、兜丹坊さん。最近日番谷君見た?」
兜丹坊は暫し首を傾げた後すまなそうに云った。眉尻を下げたその顔で、彼女には既に答えが分かっていたけれど、やはり落胆するのを止められなかった。
『すまねぇなぁ雛森ちゃん。おら、そんな名前のお人知らねぇべ』

三人目、四人目、核心に触れるのを畏れていたか、彼を知ってはいても言葉を交わしたことはない者たちを選んでは同じ質問を繰り返し、彼女の足は其処へ近付くにつれ鈍っていった。幾人もの下級死神。誰も彼を知らなかった。憶えていなかった。彼の治める隊の正門の前に立った時、まるでそこは突然現れたかのような威圧感があった。何度も足を運んだはずの、何度もくぐったはずの門は、綺麗さっぱり彼女に慣れた痕跡を払拭していた。
それで暫らく佇むまま進むことも後退することもできずにいたけれど、確かめなければならなかった彼女は転げるように飛び出した。縺れそうになる足を前へ前へと押し出して駆け込んだ男の部屋で、席官たちの机が二列に並び、その正面に一つ、隊長たる彼のために据えられた其処へ
座っていたのは幼馴染だった。
片眉を上げて彼女へ振り向いた男は驚いたというよりは呆れた顔で
『何やってんだ?雛森』
あぁ、何も変わってなどいないではないか。焦ったぶんだけ馬鹿馬鹿しくて、彼女はその場で声を上げて笑ったのだ。





あの日と同じように、走っている。


どういうことだ。どういうことだ。どういうことだ。
感謝をしている。恨んだこともあった。けれど最終的には感謝した。己を解放してくれた。
黒崎一護。
知っていた。知っていたが止めなかった。正しい方向へ運ばれていくと思っていた。信じていた。
彼の、あの子への想い。
けして私のようになるなんて、思えなかったのに。

確信だった。あの子に関わることには全て、彼が繋がっている筈だから。


「日番谷君!!」
 あの日足を止めた門前の土を蹴って、奇妙なほどにしんとした隊舎を駆け抜けて、叩き割らんばかりに開け放し喉から迸った声は無情に響いた。日の傾きかけた屋内で、その部屋だけは特別昏いようだった。闇を恐れる心理を久しく忘れていた彼女の胸中に何時の間にかそれは去来していた。だから彼女は恐るるに足らないはずの馬鹿馬鹿しい気紛れに声を張り上げる。そうすることしか出来ないから、下がりたがる足を叱咤して室内へ踏み入れる。
「一護くんの記憶がないの!乱菊さんの記憶もないの!皆変なの!誰も貴方のことを憶えてないの!きっと私も忘れちゃうわ!そんなの嫌なの!!」
 応えるものは静寂ばかりで、それは彼女の肝を深々と冷やしていく。身体が震えるのを抑えられない。屈み込んで、襲い被さるような薄闇から目を背けてしまいたかった。
「誰も彼も貴方のことを憶えてないわ!!きっと一護君のことも忘れちゃうんだわ!何故だか知らないけど‥、何故だかわからないけどそんな気がするの!ねぇ其処にいるんでしょ!?どこかに隠れているんでしょ!?やめてよ、ねぇ!驚かさないで出てきてよ!−−−−」

「一護君まで連れていかないで!!」

 聞こえた静寂でない言葉に、望んでいたはずの彼女が覚えた底知れぬ恐怖だった。一気に背筋が凍りついた感覚。それが男の能力ゆえなのではないことは百も承知だが疑わずにはいられなかった。氷漬けにされるのかと。
「随分、勘がよくなったな、雛森」
 嬉しそうに、微笑ましいものでもみるように微笑した男が現れたのは、彼女の飛び込んできた戸の影だった。腕を組み合わせ、戸に寄りかかって彼女を見詰める目には慈愛が溢れている。少なくとも、騙されたいと思う者ならそう見えた。
 日番谷君‥。名を呼びたくて、出来なかった。
 一護君をどうするの‥?訊ねたくて、出来なかった。
 一体、何処へ、いこうというの?声が喉の奥へ潜りこもうとするのも、舌を上から押さえて放さないのも、全て今己の眼から零れ落ちる水の所為だと思った。あふれ出る名付けられない感情の所為だと思った。
「一体何をしたの‥?」
 吐息とともに空気へ晒された己の言葉がそれだったなんて、彼女は己に落胆したが、きっとそれこそ訊ねるべきことだったのだと思えた。
 男は笑っただけで。まるで困っているように、謝っているように、嘆いているように、助けを求めている、ように
「すまない‥」
 狂うのを、止められないんだ‥





 死神は皆狂っているのだと誰かが云った。
 酷く静かで、酷く穏やかで、酷く優しい声だったから。
 成程、死神とは狂っている者のことなのだと、妙に納得したのだ。
 そんな戯れ事のように笑っていた男の顔を雛森は憶えている。
 目の前にいる男と同じ顔だった。しかしあれから幾分も変わってしまった顔だった。
「ねぇ‥どうして‥?」
 止めたいのか、既に納得してしまっているのか彼女自身分からなかった。
 止められないことなど分かっていたか。誹謗できる訳など探せなかったか。諦めるのは優しさだったか。
 すまない。男は二度謝って。背を向け去った、信じられないほどさっぱりとした断絶に、もはやどうすることもできないことを辛辣に思い知った。


 初めは貴方の記憶だった。
 私だけに残る貴方の記憶だった。

 次はあの子の記憶だった。
 あの子に残る全て記憶だった。

 そうして最後はあの子に関わる私達全ての記憶だというの!?
 私に残された貴方の記憶も、空っぽになったあの子の記憶も
 みんなみんな最後には奪っていって
 私達からありったけの貴方とあの子の痕跡を奪い去って

 それこそ貴方の、貴方の思う貴方たちの、
 幸福の世界だというの?

 まさしく二人っきりの!




 エゴイスト。ありえないくらい我儘だわ。
 翳んでいく視界に映るのは板敷きの境界線で、薄れゆく意識の影にはいずれ失われるだろう彼らの残り香しか嗅ぎ取れないことを、最後の最後まで嘆いていた。







2006/10/31  耶斗