二人だった















二人はうらぶれた廃墟の一棟、かろうじて風雨を凌げる上下四方罅割れ欠けて崩れた白灰色の部屋にいた。
破璃のない、窓とも呼べないような外に向かって空けられた歪な長方形の穴は横に長く。大人が腰掛けるには丁度いい高さではあった。そこから覗く空は白く、澱み、くすんでいた。

子供はその部屋しか知らなかった。
子供は男しか知らなかった。

ずっと二人だった。
気付けば二人だった。
理解したのは二人ということだった。

二人しかいなかった。
二人しか知らなかった。
二人以外の何者かが、自分達と同じように肉を持ち、認識できる世界の住人として存在しているなんて考えたこともなかった。

二人だった。
ずっと二人だった。
二人しかなかった。
二人でしかなかった。

鮮やかな橙色の短い髪をもつ子供は白い空、ガラクタが積み重なり崩れた街の出来損ないの世界で、その町の空とよく似た白銀の髪をたっぷりとたゆたせる男と二人だった。





多分、産まれたときから二人だった。
産まれた、という現象を彼は知らなかったが自身の識別と同じくして男を認めた。
二人で産まれた。
二人だった。
二人しかなく、二人で十分だった。
男だけだった。
彼の世界は男で出来ていて
男の世界もおそらく彼で出来ていると
彼はぼんやりと思っていた。





ある日、子供は窓の外に女を見つけた。
薄茶の髪を腰まで蓄えた少女の面立ちした女だった。
子供はじっと彼女を観察し、あわよくば彼女が貌を上げて自分を見つけてはくれないだろうかと思っていた。そうすれば声のかけ方が知れる気がした。
果たして彼女は振り仰いだ。その表情は驚いたようでいて、誰かが自分を見つめていることを知っていたようだった。だから彼女は子供の貌を見つけたとき、直ぐににっこり笑ったのだった。
なんだか無性に嬉しくなって、子供は気恥ずかしさを交えながら、微笑む彼女の真似をして笑ってみたら彼女は
「−−−−くん」
愕然として子供は窓辺から逃げた。
何が怖かったのだろう。彼女が言ってはいけないことを言ったことは分かった。そうして子供が聞いてはいけないことを聞いてしまったことが分かった。それは絶対の罪だった。誰かに罰せられなければならない咎だった。
だが誰に?
子供はそれを知らず、ただ怖ろしく、身震いしながら窓から最も離れた壁の隅で蹲っていた。




陽が落ちるにつれ落ち着きを取り戻していった子供は残照に染まる藍色の部屋の中、呆然と七色の棚引く四角い空を眺めていた。風が時折彼の足下まで辿り着き、その冷たさを教えた。
やがて男が戻ってきて、子供は顔をそちらへ向けた。部屋の出入り口は彼の左にあり、彼が身体を縮める壁の反対側にあった。塞ぐ扉はなく、扉を取り付ける桟も蝶番もなく、ただ刳りぬいたようにその向こうへ続く埃が積もり罅割れた同じように白い廊下を晒していた。

抱きしめられて彼は、男が酷く苦悩していることを知った。
ふらりと浮つくような足取りで現れた男はその手に見慣れぬ色を滴らせていた。
どうしたのかと問うて子供は抱きしめられた。彼があんまり立っているのも辛そうにしているから、その身体を支えてやろうと身を起すところだった。
彼の頭に『後悔』という言葉が浮かぶ。男は自身が過ちを侵したのだと自身を責め、彼へ許しを求めるように、縋るように、その身体をかき抱いていた。
どうしたのかともう一度問うて、男は子供の首筋へ頬を擦り付けるようにして首を振った。なんでもないのだと、己(おれ)が悪いのだと、子供が理解するにはもっと十分な時間が要る言葉を口走っていた。 彼は男の心をよく察した。
産まれたときから一緒だったから。一緒に産まれてきたから。
互いの世界は互いで出来ていたから。
解って、当然なのだった。
彼には男のことがよくわかる。

彼は時々考える
男の一部が彼であるのか、彼の一部が男であるのか
それとも男の全ては彼であり、彼はそもそも男であるのか
分かれていることが不思議だった
共に産まれてきたのに何故身体は二つに分かれてしまったのだろう

男が子供の身体を抱き竦める力は強かったが、それは男が子供の身体を傷つけないよう余計に力を篭めているためだった。鉤になった10の指は今にも子供の肌を掻き毟ろうとしていたが、男はそれを許さなかった。
ごめんな‥
絶望を、子供は知らなかった。
だから子供は男がそう溢した心情を測れなかった。ただ何か、とてつもなく寂しい気がした。男の身体を?んでおれないような恐れを覚えた。そこの窓から棄てられるのだと思えて、惑乱し、男の身体へ縋りついた。



二人だった
二人しかなかった
二人でしかなかった

二人で十分だった
二人でこそ完全だった
二人だったからよかった

二人で、よかった



次の日、だったか。5日は経ったか。
ただその日は全くなんの変哲も無いものになるはずだった。いつかの記憶など子供には残っていない、そもそも情報の蓄積を試したことも無い子供は日々を数える習慣を持たなかったため、彼等は唐突にやって来た。
やって来て、怯える子供を取り押さえた。
同じ部屋にいて微動だにせず、それを目で追うだけだった目の前の男へ床の上へ捻じ伏せられた子供は助けを求めるような眼差しをくれたが男は何故だか寂しげな目をするだけで、子供は言葉もなく、どうすればいいのか分からなかった。
子供はずっと男に頼って生きてきた。自分で自分の行動を考えたことなどなかった。どのような場面においても自分の行動の規範は男だった。その男は今や子供に自発的な行動を求めている。
未知の行動はただ畏ろしく、混乱が脳を貪った。

二人だった
二人でよかった
二人こそ必要だった

「−−−−−−−−−−−−‐!!!」

叫んで、そしてそれは恐らく男の本来の名前で。
子供は、真白な頭で真っ赤な視界で、自分の手が柔らく温いものを貫く感触、堅く脆いものを砕く感触、滑る何かが滑り落ち、そうしてそれを踏みにじる足の裏の感触。不思議と懐かしさを想い起こされて、恍惚さえ覚えた。
陶然として揺れる天井を見上げていた子供はゆるりと右手にいる男へ首を傾げ、男がまるで彼らを悼むような、無念そうな表情(かお)で目を閉じるのを見た。

子供は、熱い何かが目を焼き、そしてそれが流れ落ちるのを感じた。
思 い 出 し た 
それを男に教えようと大きく口を開いて言ったのだが、咽喉は擦れて、音になったかどうか子供は解らなかった。けれど男が目を開かない代わりに唇を引き結び、顔を俯けたことで男の耳には届いただろうと推察した。
ごめんな
巻き込んで、ごめんなさい
子供は咽喉が擦れているせいではなく、自分の耳が聞こえなくなっているのだと分かった。一時的なものだろう。疲れ果てていて、潮が寄せるように思考が戻ってきても、何を考えることも出来なかった。

二人だった
二人がよかった
二人でいたかった







「お前は前ばかり見つめているんだな」
前ばかり見続けなければならないお前のために、俺はお前の後ろにつき従おう。いつかお前が振り返る時、そこに誰もいないことがないように。

天国でも地獄でも極楽でもない全く確かに死後の世界を
見るべきでは知るべきでは覗くべきではなかったのだ。
死んだ後にも苦悶はあると
知ってどうして今生生き抜くことができるだろう。

良くも悪くもこの世界じゃあ力が凡てなんだよ。
だから、こんな世界にお前を巻き込みたくなかった。

「この世界は歪だ」

だから入ってくるなと言った男は、おそらく己を庇ってくれようとしていたのだろう。



戦争があった。
長く、永く、人の命が無下に散っていく時代が続いた。
神になろうとした男と、それを妨げるべく刀をとった死者の群れの戦いだった。
地は紅く肥え、空は塵芥が覆い、人には虚無が蔓延った。
終わらない戦いに疲れ切って、だけれど負ければさらに終りのない苦役があると知っているから、萎えた腕で、まともに切れるとも思えない鈍らの刀を振り上げねばならなかった。
男は何を救う神になり、己らは何を護る軍団なのか
もはや何も分からなくて、麻痺した恐怖にそれでも理由と衝動を探し出し、理由も求めず烏の集団は地を駆った。空を、翔けた。

戦争が終わって、瀞霊廷と嘗てよばれた都は壊滅し、地に潜った人々には何も残らなかった。廃墟となった都は打ち棄てられ、新たな中心都市を造ろうと烏と人の大移動が始まった。太陽は沈むことを忘れたように空に留まり地を焦し、思い出したように月へ場所を譲った。草木は枯れ、岩と砂ばかりの焦土を這いずり、やばてぽつぽつと集団が離脱してあちらこちらに村が現れた。適当と判断した場所まで行き着いた烏たちは新たな都を造り始めた。また、何百年も何千年も、何万年もかけて、都は第二の瀞霊廷となるだろう。そして烏たちは棄てた自分達の名を取り戻すだろう。
死神、と。