土砂降りの、視界もけぶる雨の中。コンビニ帰りの袋を提げて、もはや十分な意味は為していないビニール傘の中思わず立ち止まった一護はそこに見るものに苦々しげに呟いた。
「ひでぇ‥」
 入れられたダンボールだってすでに崩れて溶けるほどだというのに。
 肋骨も浮き上がる痩せ細った子犬が、ぺったりと毛を貼り付けて電燈の白い明りの下蹲っていた。
 荒くなる足取りで水を跳ね上げ歩み寄り、屈みこんで覗いた子犬の瞳は昏く、呼気もか細く。
 もたないかもしれない。
 それでも箱の中、溜まる雨水に浸って死ぬは残酷に過ぎると
「うち‥こいよ」
 両の手に納まるほどの小さな身体。それを片手で持ち上げれば弛緩した筋肉はまるで死んだそれのようで。皮膚は打ち付ける雨滴の冷たさに凍えながらも、穿たれれば穴も空きそうな軟さ。
 一護は滴る雨滴に濡れるも構わず、彼を懐中へ抱きこんだ。


 梅雨明け間近の夜のこと。




  ハローエヴィバディ



 薄汚れて判別の付かなかった彼の地毛は、その実なんとも見事な銀色で。
「こりゃあ犬ってよか狼だな」
 と、父の感嘆を頂いた。


「名前何にすっかなー」
 そう、リビングの床に胡坐をかいて唸るのは、風呂上りの頭にタオルを被り、同じく風呂上り、タオルに包まれた子犬を見下ろしている。
 拾われっ仔の彼は円らな眼で物怖じすることなく一護を見つめ返していた。それに思わず顔がにやけそうになるのを、一護は背後に視線を感じてぎゅっと唇を引き結んだ。
 そうして引き続き、顎に手を当て首を捻る。
「犬ならポチだろ。もしくは太郎」
 リビングの入り口に現れたのは、つまり視線の主は一心だった。先頃彼を『狼』と例えた彼は通常業務が終了したようだ。学生は休日の土曜日も医者である彼には関係ない。そうしてその腕は人間だけでなく獣にも通用した。子犬の看病をしてくれたのも、殆ど彼だった。
 あれから一週間。すっかり梅雨も明け、真夏日の続く日々を空調の整えられた部屋で過ごした子犬はすっかり子犬らしい子犬となった。
 腹はミルクでぱんぱんに膨れて、つつけば薄い皮膚はすべらかで。被う産毛はいっそさらさらとした手触りだ。
 黒崎家の愛玩動物となることは実に自然な流れだった。
「んな名前そこらへんにゴロゴロ転がってっだろ。もっとコイツらしい名前をつけたいんだよ」
 言い捨てるような口調は常に無愛想を象る一護のものだ。安易な父親の提案に憤慨したのも事実であろうが。
 もはや駄目かと思われた子犬は一護が連れてきたもので。それが息を吹き返したというのだから格別の思い入れもある。
「ほーぅ。で?どんな名前考えてんだ?」
 感心するような顔をしてその実面白がっているのはその瞳から分かる。よくよく観察したならば、顎を掴む彼の手が、その実ひくひくと震える口端を押さえるためのものだと見て取ることもできただろう。
「だ、だから‥、それは‥っ」
 思いついていないわけではない。わけではないが。
 どうしてそれを他人に教えようというとき考えに考えた分だけ気恥ずかしさも募るのだろう。
 名前には少なからず考えたものの性格ないしは性質が含まれる。加えて知識だとか思想だとか。
 父親の頭の中で自分という人間が別の形をもって動き出すのも不愉快であるし、所詮それがお前のネーミングセンスだと、鼻で哂うこの男の顔が想像できるだけに一護の口は開くのを渋った。
「言ってみろよ。言わねぇとわかんねぇだろ?」
 だんだんと語調が揶揄いの色を帯びてきている。語尾の上げ方が気に入らない‥。
 一護は眉間の皺を一本増やして、恨みがましく父親を睨み上げた。
 そうすればさらに父親は愉しいらしく
「言ってみろって一護〜。可愛い息子の考えた名前だぜ?父親が反対すると思うのか?即採用、即決定!その瞬間からそいつはお前がつけた名前で呼ばれるんだ!なんとも魅力的な話じゃねぇか!」
 ぁあっはっは。
 と腰に手をあて、完全に相手をやり込めたと満足でもって仰け反り哂う男は質の悪い大人この上なく。
 正拳、膝蹴り、踵落としを喰らわせたい衝動を一護は必死に耐えた。
 なぜなら無垢な瞳が己を見つめているのを感じるから。

 なんだか親になったような気分だった。

(こんな親にはなんねぇけどな)
 目の前で高笑いをする父親を限り無く削られた忍耐でもって無視することにして、一心に背を向けた一護はもぞりもぞりとタオルから抜け出そうとしている彼を抱え上げた。
(こいつの名前‥)
 和名にするか横文字にするか、といったら和名。
 何故だかは知らないが、そこは日本人の血ということにして。
 雑種だろうけれど、容としては柴犬に近いだろうか。典型的な日本犬。今は円らな瞳も手伝ってころころと豆粒みたいだが、成長すればきっと凛々しい顔立ちになるだろう。
 短毛でもなく長毛でもなく、差し入れた掌を受け止めるのに心地よい程度の毛の長さ。それが被う尻尾はふさふさで。全身見事な銀色。
(確かに‥、犬ってよりは狼だ‥)
 鬣あれば完璧だなぁ、なんて思えば。厳しいまではいかないが勇ましい名前をつけてやりたくて。
 思い浮かぶのは近世日本人の名前ばかり。
(なんで‥?)
 でもまぁ、それらの名前の一々と、目の前へ持ち上げた彼とを照らし合わせればなんとも似つかわしく。
 これでいくかと気持ちは決まった。
 ずらりと並ぶ候補の中から一護がこれぞと選びだした名は
 雪原の毛色。独り立つに相応しい孤高の獣。
「とー‥」
「シロちゃんっ」
 一護ではない。
 唐突に飛び込んできた高い女の子の声に一護と一心が揃って振り返れば
「いいなー、お兄ちゃんがお風呂に入れたげたの?あたしも一緒に入りたかったー」
 それはこれと一緒に入りたかったのか、俺と一緒に入りたかったのか。後者は却下。
 唇を尖らせて、けれど嬉しそうに駆け寄るのは黒崎家双子の妹の片割れ、黒崎遊子で。
「あ、もう殆ど乾いてる。良かったねーシロー。綺麗にしてもらってー」
 一護の側に膝をついて甘えるように彼を覗き込む妹に、自ずから彼を手渡せば、彼女は逃れようと宙を掻く彼に頬ずりしながらそう云った。
 それを微笑ましいなぁと兄の目で思いながら、冷静な部分で唖然と一護が眺めたのは
「『シロ』‥?」
 えぇっと‥?
 米神に人差し指を当てて考える。
 思考は少し混乱しているようだ。
「遊子‥?」
「ん?」
 あぁ、振り返る瞳は彼のそれと良く似ている。
「とー‥『シロ』?」
「うん。『シロ』」
「とーシロ?」
「ううん。シロ」
 んん?
 まだ上手くピースがはまらない。
 背後の父親が合掌している気配がする。
「シロ」
「うん。シロ」
 色がシロっぽい銀色でしょ?と頬を薔薇色に染めて満面で咲う妹に否といえる意志を、一護は持っていなかった。
 歯車が外れたような一護を笑顔でみやる遊子は恐らく事態を理解していない。そんな微妙な空気を取り繕うように一護と遊子の間に身体を割り込ませたのは一心だった。
「シロかー。いい名前貰ったなーシロー」
 彼は遊子の手から子犬を抱き上げると赤子をあやすように高く持ち上げた。それをにこにこ笑いながら遊子は目で追い、彼女につられて一護も目を上げた。そうして視線がかち合った一心の気の毒そうな微笑に、一護もまた頬を引き攣らせることしかできなかった。
(ま‥いいけどな‥)
 そこへ玄関の扉が開く音がして、新たな家族の帰宅を伝えた。
「ただいまー‥なにやってんの?」
 入り口に現れたもう一人の妹は、己を出迎える6つの目に顔を歪めた。
「この子の名前をつけてたの」
「そうそう、『シロ』ってな」
 タバコでも咥えているような顔で一心は彼を掲げてみせた。
「へー決まったんだ。アンタが考えてたやつじゃん。良かったねーぇ」
 父親に抱え上げられて目の位置より高い彼を見上げながら輪の一端へ歩みよった夏梨は、ふと目前に座り込んでいる兄と目があった。
 普段となんら変わるところのない兄の表情にも、生まれたときから同居している人間の洞察眼は読み取るものがあったようだ。
 なにやら納得した彼女は兄へ、ご愁傷様というように呆れ目のまま片方の口端も持ち上げて笑った。どこか疲れたような笑みだった。
 それにやはり、血の繋がる者同士意思疎通は完璧に行われ、一護もまた妹へ複雑な表情で微笑み返した。

『シロ』

 黒崎家愛玩動物は正式にそう命名された。



(いいけどな、別に‥)
 家族が方方へ散った後、その場に残された一護は、今は腕のなかへ戻ってきた彼を見下ろして
(俺が思いついた名前と大してかわんねぇし)
 雪原の毛色。独り立つに相応しい孤高の獣。
「とーしろー」
 『冬獅郎』
 狼ではないけれど。
 鬣もないけれど。
 犬には珍しい翡翠の瞳に視るのは
 雪原に立つ一頭の獅子。
 小さく呼んでみた。
 すると思いもかけず彼はぱたりと尾を振って。
 驚いたように瞠目する一護を翡翠の瞳が面白がるように見上げていた。
「とーしろー?」
 偶然か、ともう一度呼んでみれば今度はぱたりぱたりと二度尾を振って。
 とーシロ、だしな。彼にとっても大して違いのないだけなのかもしれないけれど。
 ほのかに期待を抱いた一護は
「ふたりの時はとーしろーって呼ぶぞ?」
 ちゃんと返事できるか?
 こっそりと、彼の耳元へ囁いたのだった。
 そして、それに応ずるように、『とーしろー』はぱたりぱたりと一護の頬をその柔らかな尻尾で叩いたのだった。


 訂正。

 黒崎家新加入メンバーは『シロ』および、黒崎家長男、黒崎一護と二人きりの場合においてのみ『とーしろー』との名前を賜った。







2005/08/02の日記より

2005/08/19 耶斗