夜一の屋敷だった。誰も踏み込まない夜一私用の奥座敷、特に、茶を点てるための小作りな部屋で織姫と夜一は向かい合って座っていた。織姫の左面を障子に濾過され弱くなった陽が寂しげに照らしている。伏せた目蓋から頬へ睫毛の影が落ち、白い肌には少しばかり朱が戻っていた。正座する織姫に、胡坐をかいた夜一は足を崩せと勧めたが織姫はこの方が楽だと首をふった。事実、そうしている姿は織姫の醸しだす静謐をより際立たせ、二人のいる3畳ほどの一間は彼女のためにあるのだと思わせるほど似合っていた。
「本当に、これでよいのか」
「はい‥」
「何も出て行かずともここにおればよい。儂が面倒をみてやる」
「ありがとうございます。夜一さん。でも‥」
 夢は同じものを見ないから夢なんです
 そう微笑んだ織姫の言葉に夜一は分からないといった顔をした。障子に濾過された寂光に溶け込もうとするかのように儚く微笑んだ女の穏やかさは、彼女の言葉に揺らがぬ意志を見せた。
「瀞霊廷の中は思い出が多すぎます。人々の顔を見るたび、店の壁を見るたび、道端の、ただの石ころを見ただけでもそこに彼らを思い出します。一護くんを‥」
 日番谷くんをと、か細く続いた。それからやや思案するように間があって、迷いながらしかし徐々に確りと彼女は告白を紡いだ。
「私、憐れむために抱かれました。嫌な女です。日番谷くんが、一護くんへ想いを遂げられないことを知っていたから、一護くんが触った私の身体を差し出しました。優越感が、あったんだと思います。あの日‥、一護くんがいない夜訪ねてきた日番谷くんの思い詰めたような目は全て語っていて‥私を映しながらその向こうの一護くんを見つめてた。欲情してるんだな、って。充血して潤んだ彼の目は明らかで。私、その理由を知ってました。いつも慈しむように辛そうに一護くんを見てる日番谷くんの目。そういう目してる時だけ、眉間の皺も違った。」
 ほ、と一息ついて、やはり織姫は伏せがちの目に夜一を映さなかった。記憶を手繰るのに視覚の情報は邪魔なのだろう。薄日に照らされる畳の表面がそれに最適なのかは知らなかったが、彼女はその一点を見つめて逸らさない。もしかしたら見ていないのかもしれなかった。虚ろにその眼を開いているだけなのかもしれなかった。
「私だけだったかもしれない。私だけが‥彼のそんな表情、読み取れてたのかもしれない。他の誰も‥あの人の様子に気付いた雰囲気もなかったし、一護くんも親友だって信じてた」
 今思うと馬鹿みたい、と織姫はふっと息を吐き出して笑った。くしゃりと目尻を緩ませた貌は困ったようでいて、自嘲ほど自虐的ではなかった。子供の頃のたわいない過ちと同じように笑ったのだろう。
「日番谷くんのことばかり気になってて、一護くんのこと疑ってもみなかった。真っ直ぐな人だったから、嘘も、吐けないような人だったから、疑えって云う方が無理なんですけど。一護くん、自覚してないだけで日番谷くんのこと大好きだったんだ‥。分かんなかった。一護くん、一番懐いてたの日番谷くんだったのに‥。どうして友達だなんて思ったんだろう。どうして自然だったんだろう。どうして、誰も、気付かなかったの」
 日番谷冬獅郎も黒崎一護も、自我を認めなかった、気付かなかったという点では同罪なのだろう。その皺寄せは井上織姫ひとりに来たのだ。否、彼女を含めての過ちだったのだろうか。もはや、何処から何処までが問題の領域で、何処に齟齬があったのか夜一には分からなかった。一体どれだけの人間が、この件に無関係だと断言できるかとも思った。誰も気付かなかった。否、気付いていたかもしれない。だが云わなかった。織姫のように。
 種は何時蒔かれ、芽吹いたろう。芽吹かなければ今回の狂言は引き起こされなかったのだろうか。では、永劫に芽吹かないことはありえただろうか。
 夜一は、この世のことは起こるべくして起こると考えている。成るべくして成ると。だが、それに抗うことは叶わないのかと足掻きたくもなるのだ。違う結果になることはなかったのかと、選ばれなかった選択肢を想像しては惜しんでみたりもするのだ。達観しているようでいて、その実まだ俗事に浸っている。もがいている。その面白さを知っている。
 あの子供は達観と諦観の違いをまだ、理解してはいなかった。
 確かに戦闘に於ける才気は並々ならぬものであり、行く通りもの戦法、可能性を瞬時に見通し必ず成功を納めて来た。彼はいい加減な精神論を好まなかった。いつでも合理的に、現実的に話を展開していった。哲学的な思想も彼を擦れた人間にはしなかった。自分勝手に絶望するような人間ではなかった。理性的であれ。おそらくそれが、彼が自身に課したものであっただろう。
 色恋にのみ疎かった彼の青さは、そんな彼の、日番谷冬獅郎の可愛らしい部分であったのだろう。
 それを、みすみす歪めてしまった責任を夜一は思わないではない。せめて自分がと、特別接点のあった仲でもない人間に思うのは驕りではないだろうか。それでも誰も気付いてやれなかったことに憤りにも似た感情を持て余す。
 精神と肉体(うつわ)のバランスが、必ずしも見目に添わないということを己はよく知っていたはずなのに。それだけ彼が上手く隠したということなのか。これ以上考えても答えが出ることはない。
(歯痒いな‥)
 所詮万能には成り得ない己の存在の分を、いつか幾度も思い知らされた。
 この時もまた、久しぶりに思ってはやはり、夜一は唇を引き結ぶのだ。
「力、封じてください。夜一さん」
「何‥?」
「あの人たちもそうするんでしょ。私も同罪。対等でいたい‥」
「織姫、お主‥」
「夜一さん。私ね、ここに居たくないのはそれも理由にあるんです。あの人たちが出て行くのに私は残って‥。まるで、待ってるみたいで嫌」
 嫌なんです。
 そう云って貌を上げた織姫は、やっぱり笑っていたのだけれど。殺しきれない感情と、騙しきれない眼に堪えきれない泪が大粒に膨らんでいた。
 願いは、聞いてやるしかない。
 結局己はこの者たちの為に、なんら利のあることはしてやれなかったと夜一は、胸を開く織姫を見つめる目が寂しげにならないようにと努めながら、己の無力に歯噛みした。








  「それじゃあの」
 昨日、織姫を見送ったそこに今日も立って、夜一は新たに見送る二人と最後の別れを交わす。昨日と変わらず空は青く、彼らの門出に幸あれと祝っているようだ。
 達者で暮らせよ、と夜一は快活に笑う。今生の別れになるかどうかは分からない。織姫を見送るときも、遠くなっていく小さな背中に名残惜しさを覚えながらそう言い聞かせていたが、土台普通の霊魂から特化した魂である。転生もなければ寿命もない。否、寿命は、あるのかもしれないがそれを全うした最期を看取った経験は未だなかった。皆、戦いの中で死んでいく。そんな世界だから。
 冬獅郎と一護の死覇装ではない簡単な旅装に隠された胸には死神の力を失った証が刻まれている。一護は一度そこを貫かれているわけだから、二度目などと云って笑っていた。どこか無理をしていると思わないでもなかったのは自分の心境がそうだからだと思うことにして、夜一は一護が元気は取り戻したことを素直に喜んだ。また。今回のことで各々の抱える翳はさらに瞳に深みを与えたらしい。一段と精悍になったようにも見える二人の貌は愁いに覚悟をひそませていた。だから夜一も織姫のことを隠さなかった。いつか何処かでばったり出くわすかもしれんの、と笑ってやったのだ。
 冬獅郎と一護を並べてみて、夜一は成程似ておるとひっそりと頷いた。それを怪訝そうにみやるのは冬獅郎で、一護よりも大分堅物のこの男をサポートできるのは一護しかおるまいと恍けた顔して笑い返した。
 似ているのは、魂の煌き
 そして共鳴した奇蹟
 彼等は不変だと夜一はありえないと笑い飛ばしていたその単語を連想した。期待、だろう。これほどまでに遠回りして成就した想いを夜一は知らない。儂もそろそろ‥と触発されてしまいそうだった。彼らほど拗れることがなさそうなだけに微温湯のような関係に甘んじていたいとも思うけれど。
「たまには、顔も見せてくれると嬉しいのじゃがの」
 惜しむように、揶揄るように彼女が得意とするシニカルな笑いで誘ってみれば
「そん時はあんたが探してくれ」
 などと、銀髪の方から生意気な応えが返ってくる。
 一護は可愛いがやっぱりこいつは可愛くないわい。と、物悲しい別れなど真っ平な夜一は喜ぶ。
「色々、有難う夜一さん」
「おう。旦那に厭きたらいつでも戻って来い。儂が嫁に貰ってやるわい」
「んな!?なに冗談言ってんだよ‥っ」
「ははは、日番谷、しっかり捕まえておかぬとこやつの様子じゃすぐ変なのに引っかかりそうじゃのぅ」
「いいさ。そんときゃすぐ盗り返す」
 おや。憮然と黙るだけかと思えばそう切り返すか。
 楽しくて、夜一は腕を一杯に広げると、二人に抱きつくのかと思えたその手で二人の背中を押し出した。鮮やかに方向転換させられた二人は、さすが瞬神、現役軍団長は伊達じゃないと妙に納得したのだった。冬獅郎と一護の二人が抜けることによる戦力の欠如に夜一は護廷に戻ることを已む無しとした。いい加減泣きついてくる部下に強情を貫き通せなかったということもあるかもしれない。
「さぁ行け!これ以上居られたら折角の感動も台無しじゃ。直ぐにまた引き戻したくなるからの」
 また冗談を、と背中を押す手に振り返りながら二人は笑ったが、夜一も正直な気持だったのだ。それを目で読み取ったに違いない。そうだな、と照れくさいのか目を逸らしながらぼやいた冬獅郎は一護の手を取り名残惜しそうにしている一護を引いた。
「じゃあな!夜一さん!ホント色々とありがと!」
 おーおー、と肩越しに振り返りながら繋がれていない方の手を振った一護に御座なりな態で手を振り返して
 なんだか胸の空くような気持で夜一はうぅんと背を反らして空を見上げた。
 手を取り合って去っていく、もうあまり変わらなくなった二つの背。それを最後までは見送らなかった。織姫のように案じることがなかったためかも知れなかったし。幸せそうな人でなしどもが悔しかったのかもしれない。
 鳥の甲高い鳴き声が喜びを歌うように風を流れた。








 終

2006/04/04  耶斗