意識の深層を己の意志で支配することはできない。だが、意識の深層は己へ働きかけることができるのだ。それと感づかせることもなく。
 これは無意識の防衛だったのだろうか。本能と呼ばれる原初的なものだったのだろうか。それなら己は、従うべきだったのだろうか。
 だけども気付いた。知ってしまった。認めてしまった。
 無意識が繋ぎきれなかった思い込みの綻びを、見つけてしまえば自覚は急速だった。





 その牢は一護のいたそこよりも遥かに牢と呼ぶに相応しかった。
 地下に作られた石造りのそこは堅固で、囚人の収められた部屋は幾重にも重なる格子の向こうにある。
 一番めの鉄格子の前で夜一は一護へ持っていた行燈を渡した。
「この先におる」
「うん」
 彼らがあるいてきた階段は壁の松明で赤々と照らされていた。夜一が行燈を持ってきたのは火の届かぬ先にいる男のもとまで一護を案内させるためだった。
 地下水が岩肌を湿らせ、隙間風に地下の空気は冷やされ苔の匂いがした。翳に向かい、一護は火影に足下を確かめながら渡された鍵束を握りこんだ。
「ありがとう‥夜一さん」
「いいさ。凡て儂に任せておけ」
 師であり、友人であり、母のようでさえあった。何度も迷惑をかけその度ごとに助けてくれて。
 ごめん、と心の中で呟いて。一護は夜一の眼差しを背に感じながら闇の中へ進んでいった。
 彼は両手を前で拘束され玉枷を嵌められていた。向けられた背中はまんじりともせず、まるでこの場に凝る闇が耳を塞いでしまったかのように彼は足音にさえ振り向かなかった。
「冬獅郎」
「お前か‥」
「あぁ」
「四楓院夜一の慈悲か?お前を寄こすなんて。なんにせよ判断が早いのはいいことだ」
 冬獅郎は一護が彼を処刑しに来たのだと判じたらしかった。暗殺も手がける集団の長である夜一の牢だ。人知れず葬られることを覚悟していたのだろう。むしろ公開で処刑されないことに安心しただろうか。何れにせよ彼はそれが一護の手によって施行されることを喜んでいるらしい。
「今まで‥すまなかったな。お前の好きにしてくれていい‥」
「冬獅郎、お前、背、伸びたよな」
 脈絡のない言葉に冬獅郎の背中が窺うような色を見せた。
 何時の間に、彼の身体は自分には届かないながら押さえ込むにも抱きすくめるにも困らないほど大きくなったのかと行燈の弱い火影に照らされる背中を見つめて一護は思う。体の良い言訳を並べるばかりで男をまともに見留めることもできずにいた35の日々と違い、今は素直に受け入れることが出来た。
「変わったんだよな‥ずっと、変化してた。なんで意識しなかったんだろう。お前はこんなに変わっていったのに」
 責めているのかと思うだろうか。違うのだけどと、一護は己の言葉の下手さを恥じる。上手く伝える言葉を知らない。
「変わってってたんだ、ずっと。‥俺も。変わらないわけないんだ。全部、動いてってるのに、何、馬鹿なこと考えてたんだろう。冬獅郎‥
 分からないんだ。俺一人じゃ、確かめようがない。なんで俺、お前を許してるんだろう」
 助けてくれないか‥?
 肩を撫ぜた手に驚いて、朱を混じらせた翡翠が振り返る。
「一護‥?」
 その名前だ、と一護は安堵する。男の唇から紡がれる、おそらくは咄嗟の、その声が
「やっぱそう呼んでくんねぇとお前じゃねぇよ」
 俺を支えてくれるのだ。
「抱いてくれ」
 両手を首に回し抱きしめて、その顎を持ち上げ様被さるように口付けた。行燈は落とした拍子に火を喰われ、視界は闇に閉ざされて。交わる呼気があったから、畏れなどなかった。
 強く押し付けた力を弱めた唇は触れる位置で密やかに言葉を紡いだ。
「夜一さんが‥準備をしてくれる」
 その言葉で、語気で、察してくれるだろう。この男なら。信じていたから一護は続けた。
「行こう‥一緒に」
「いいのか」
「あぁ」
 案の定悟ってくれたらしい男の返答は戸惑っているような問いだったけれど。一護は泣くような表情で笑ったのだ。それを闇に襲われたばかりの眼は見せなかっただろうけれど。
 お前となら何処へでだっていけるんだ。
 鉄の鎖のために僅かにしか離れていない両手首を持ち上げる気配に一護は大人しく待ち、その手は己の首へ回り頭を引寄せるのに従った。今度は男からの口付けは深く、熱く
「ん‥、ふ‥っ」
 膝も立てていられずにその身体へ縋りつくまで、情熱のままに絡められた。唾液は冬獅郎の顎から咽喉へと軌跡を描きその流れ落ちる感覚にさえ冬獅郎は満足を覚えた。
 いいのだろうか?赦されるのだろうか?否、誰に赦されることを望んでなどいない。彼が、一護が、赦してくれるというのなら――
 相手の身体に触れていることだけが、自分の身体の存在証明の闇の中で。その手に、身体に触れられて自分の身体を確認する。視細胞の切り替えが済んだ眼は徐々に灰色の視界を脳へ送った。
「何度も‥夢の中でお前を抱いた‥。何をしていてもお前の身体を思い出してたよ」
 知ってたか?
「知らね‥っぇ‥」
 呂律の回らない舌が少しばかり責めるように答えた。くつりと哂って冬獅郎は、馴れ始めた視界に現れる一護の顔を喜びの眼差しで見た。
「何度も犯した。その度に心底懺悔したかった。そんな夢を見ながら起きた朝さえ俺は何食わぬ顔でお前と会っていた。分かるか?先刻(さっき)まで自分の妄想の中で喘いでいた人間が、何も知らないで自分の前にいる。恥かしくて‥だけど、離れられなかった」
「とぉ‥しろ‥んっ」
 訥々と言葉を、振り返り一護と向き合った冬獅郎は一護の肌へ埋め込むようにその間近で落としていった。両手の指で袂を割り、腹へおろしながらその後を唇が追っていく。話しながらも一護の肌を確かめる手は止まないのだ。自由の制限される手ながら、男により性感帯を開拓された身体は容易く感じ入った。だけれどちょっと待てと一護は男の肩を押した。その前にすることがあったからだ。
「なんだ?」
「手錠‥外すから‥」
 夜一が持たせてくれたものだ。玉枷は一護が外せる。
 それでもっと確かめさせてくれと一護は強請った。
 手錠を外して冬獅郎が一護へ被さろうと腰を上げたのを一護は制し、なんだと首を傾げる彼に一護は云いにくそうに視線を泳がせたがやがて
「俺が‥‥」
 冬獅郎の腰帯に手を掛けて、驚いたように目を開く冬獅郎を無視してそれへ舌を這わせた。
 拙い舌技が冬獅郎を悦ばせようとしている。初めてだろう行為に口腔は怯えるのに、堪えて含む様は愛おしくて。
 その橙色の髪へ指を潜らせながら冬獅郎は胸を締め付ける感情が謝りたい位の悦びだと知った。





「井上織姫を連れてきたのは恐らく、それで俺からお前を遠ざけようとしたんだと思う。妻を持っていれば少なくともお前と間違いは起こさないだろうと」
 女性に対して不能なわけではなかった。処理としての行為を冬獅郎も求めることはあった。哀しかったのは、肉体の満足しか得られないことで、そしてそれに比例する空虚だった。寂しいと締め付ける胸に眉を搾って、気のせいだと言い聞かせた。感情に支配されるなんて青さを彼は好としなかったから。
 広い屋敷に一人だけの寂寥感もあっただろう。それを誤魔化すための妻も置けば幾許かは慰められただろうか。彼にそうしたように、己もまた妻を娶って自身を縛れば黒崎一護へと飛ぶ想念を打ち消せただろうか。
 女を宛がったばかりに苦しむなんて。己の愚かさを嗤い、侮蔑し、憎んだ。
 馬鹿だ馬鹿だと詰りながら、酷くなる一方の孤独感に冬獅郎は膝を折ったのだ。
 隣で笑う親友の顔が軽蔑に染まるのを、冬獅郎は快感にさえ思い。哀しいばかりの己の妄念に如何な結末も意に介さなかった。
 友情なんてそんな糸で満足できなかったから。愛される、その意味の違いを明確に意識し出せばもう、止まることなど出来なかった。せめて、せめて‥
 肉慾を伴う愛を得られないなら心臓をわし掴んで引きずり出す、狂気のような憎しみを
 執拗に俺を追い掛け、止めを刺さんと刃を突き出す、兇暴なばかりの執着を
 見せてくれたらと。彼に滅ぼされることを願った。
 お前の手で果てることの幸せを―――――
 ぐいと顔を引かれて冬獅郎は怒ったような表情の一護を見た。瞠目する冬獅郎に一護は乱暴に唇を合わせて、それでも治まらないというように肩へ噛み付いた。
「一、護‥っ?」
「俺は‥嬉しかったよ」
 お前が織姫を連れて来てくれたとき、嬉しかった。
 胡坐をかいた冬獅郎に跨り、一護は彼を内に収めていた。吐き出したばかりの精液が冬獅郎の腹に、胸に散って、肌を合わせれば粘着質に纏わりつく。少しの身動ぎでも腹の中を擦られて、身体が震えるからしがみ付いた。声帯を震わせることさえ困難なんて
「結婚しないかといわれたときは驚いたけどさ。後で、正解だったんだって思った。俺、今まで女と上手くいったことなかったからさ、織姫とは長く一緒に居られたこと嬉しかった。
 家に帰ったら待っててくれる人がいるってすげぇ嬉しいし、一緒に居て大事にしてやりてぇって思った。一人でいたら腐りそうなときでもあいつがいたから励まされた」
 だけどさ、と一護は冬獅郎の背に回した腕へ力をこめてその肩口へ顔を埋めながら続けた。云い難いことなのだと、簡単に察せられた。
「だけど、なんか、さ。最初から家族だったみてぇな感覚だった。そりゃ夫婦だし、そういうこと許されてる関係だからしたり、したけど、さ。護ってやりたいってそれだけだった。俺が淡白なのかもしれねぇけど、あいつにたいしてしょっちゅうそんな気になったりはしなかったんだ」
 酷いことを、していたのだと今になって分かる。彼女は真実己を男として愛してくれていたのに、己は彼女を女としては見ていなかった。彼女はそれに気づいていただろうか。己でさえ自覚のなかったそれを知りながら、ずっと堪えていたのだろうか。健気に尽くそうとする彼女の笑顔の下にはどれほどの泪が溜まっていたのだろう。広がる泪を鏡代わりに笑う練習をしている彼女を想像した。
「土下座して謝って‥。それで許してもらえる訳ねぇよな‥。どうやって償えばいいのか分かんねぇ。‥今更、何ていっていいかも分かんねぇ‥」
 会っても、傷を深くするだけなんじゃないかとそれが怖かった。何を云っても、たとえ好きに殴らせても罵倒させても、それは自分の自己満足に終始しそうで。一護は織姫と長い夫婦生活を営みながら彼女と喧嘩をしたことが一度もなかったことを思い出した。笑っていた‥いつでも。怒っていたってそれは、冗談交じりのおふざけで。本気の感情を見たことは‥
 お互い、どれだけあったのだろう。
 宥めるように背をさする冬獅郎に一護は甘えるように男の喉下へ頬を摺り寄せ抱きしめる腕に応えた。
「酷い‥人間だ」
 一護は叫びたかった。壁に反響する自分の声で思い切り自分を罵ってやりたかった。
 最低の男だ。最低の夫だ。
「それでも罵られるなら、日番谷冬獅郎という男のためでありたい」
(結局、同じ穴の狢なんだ‥)
 俺は逃げる。男と共に。
 肩口から顔を覗かせた一護は虚空を静かに見つめながら。
(俺は、逃げるよ)
 これを覚悟とは呼ばないだろう。表すなら開き直りだ。でも。一護は
「俺も、お前を失えない‥」
 道連れ。付き合えよ?
 お前がいれば怖くない。呪いの声も賛美歌に変わる。
 哀しげな微笑への確認は深い口付けだった。