死神と人間






人の成長する速度は早い。ただ30年、40年、50年、精神は成熟し、肉体は衰える。唯唯心ばかりは加速を増して結実へと向かう。知情意は調和し、徳を重ね、賢人聖者とならむ。
私はいつも、置いていかれるやうな心地する――――



人の成長は早いのだ。何度突きつけられてもおいそれと得心はいかぬ。それは男が世界を違える世界へと繁く通うことがないという理由もあろう。以前に訪れたのはいつだったかなと記憶を手繰って、思い起こしたのは同じ夕日に沈む町並みはもう少し閑散としたものだったということだった。都市部ならばいざ知らず、人の住まう住居郡でさえ様相を変えるのかと、長らく一様な造形を保つ己が世界と比して驚くのだ。
あの頃道端には子らが踊り出、二輪車に乗った蕎麦やが仰天しては拳を振り上げんばかりに叱り付けつつ通り過ぎた。人の立つ大地も灰色に塗り固められてはおらず、かんかん照りには埃たち、雨が降ればぬかるんだ。轍に溜まった雨水は、太陽が顔を覗かせれば時に虹を映した。
時の移ろいに哀愁を抱くほど思い入れは無い。しかしかとない物寂しさを覚えるのは二度とは戻らぬ映像を惜しんでのことだろうか。
ひとたび毎に様を変える世界は銀幕に映し出した夢幻のようだ。風を感じ、匂いを嗅ぎ、どれも次来るときにはすっかり衣装を替えているのだ。大気の温度も時節のためだけでなく違えてしまうのだ。
『今』は匂いが薄くなったものだと覚えながら男はぐるりと視線を回らした、と、ふと鼻先を掠めた匂いに瞬きが明確な意思をもって行われた。覚えのあるような匂いだ。
誘われるように男は、己が興を引いて已まぬ糸の先へ向かい、電柱の天辺から跳躍した。

一軒の家(や)だった。男が思い描いた屋敷は当然としてそこにはなく、隣接する家々と似たような味気ない2階建ての家だった。
5本の指を揃えたほど開かれた窓から匂いは漂っていた。それはどうやら夕餉のものと知れ、食い物の匂いに誘われたのだと思うと何処となく決まり悪さを覚えた。しかしそれは懐かしく、呼ばれるのには抗い難かった。
どのような女人が作っているのだろう。男は思い、ふと悪戯心に窓から覗いてみようかと考えた。恐らくは母であろう、そんな匂いがする。夫を、子を想い、彼らの空腹を飯のみでなく満たす温かな匂いだ。優しい女であるのだろう、男は常ならば描くことなどない他人の像を頭に描いてみたりなぞした。何故にもこのように心擽られるのだろう。覗いてみたいと好奇が疼くのだろう。人の生活を覗き見ようとしたことなど今まで一度としてないのだ。まるで、恋るようだと、思念に頬が赤らむ思いがした。
恋しゅう思うているのだろうか。離れて久しい誰かと食卓を囲むという情景に。失ってはいないながら、そうしようと思い立たないまま徒に歳月を重ねたことがここに来て恨めしく思われた。飢えているのかも知れない。寂しがっているのかもしれない。そうしてそれは、同じ在りように生きる同胞をではなく、生身の血肉を持った人どもを。望んでいるのかもしれない。

しかし人は儚くて。ひとたび毎に見た顔は失われていく。血を分けた余韻の残る貌を見たとて慰むらるることもなし。むべなるかな、それでなくとも男を見留める人という生き物など稀有も稀有の稀なりて、花を愛づるよりも虚しいことなのだと男は知っている。人は、決して男を見留めぬ人は、男の眼差しに振り返ることも、伸ばした指先を受け取ることもないのだ。花ならば‥。せめて花ならば。

知らず握り締めていた右の拳を持ち上げ目を落とせばなんとも索漠とした心地して、馬鹿なことをしようとしていたと吐息した。見て何になる。覗いて何になる。ついぞ味わうことのない、満たされるという甘やかな情緒に浸れるとでもいうのか。
男に親類と呼べるものはいるにはいる。だが、彼らは誰もが他人でしかない。明確な隔絶を覚えてならない。絶望的なまでの異種。折り合いはつけられても相容れることは叶わない。それは多分に男自身の自意識によるものであったが、己が闖入者であるという意識は動かしようもなく厳然として彼の内に、目の前に立ち塞がった。

硝子は黄昏を映しこみ、まるで融けたような色をしている。光を内包し、鏡としての役割は失っしているだろう。溶けているためにそれ自体が発光しているようにすら見えた。
不意にその硝子ががたりと音を立て、ついで円やかに滑り口を大きく開いた。思いがけなかったことに男はたじろぎ、姿を認められることはないというのに隠れようと咄嗟に周囲へ視線を奔らせた。それも直ぐに思いなおしてそのまま庭を挟んだ隣家の屋根から様子を眺めることにした。先程まで忘れていた足裏の感覚が戻ってきて、男は徐々に息苦しささえ覚え始めた。己の体重が急に倍ほどにも膨らんだように思え、長くは居れまいと予感した。
窓を開けたのは黄昏に色を蜂蜜色にした、本来は栗色だろう髪を一つに束ね、房になったそれを左肩に掛け胸に垂らした女だった。温和そうな面差しの、いかにも幸せな家庭の奥方という風貌だった。その女が腰を屈めたと思うと7つばかりの男児を抱いて腰を起こした。なるほど、下を向いて咲っていたのは子供いたからなのかと男は思い、視軸を女の顔から子供へとずらした。母と顔を向き合わせ、微笑んでいる母に対して呆けたような表情をしているのは横顔からしか確かめられなかったが、明るい髪色は母譲りか、夕陽の投げる橙色に染め抜かれている。光の加減か本来の色なのか判別し難かったが、影に沈む部分を見ても確かに橙に墨を被せたような色で、鮮やかな色合いが作られたものでないことを教えた。男の住まう世界でも滅多に目に掛けることはない。この世ともなれば尚更だろう。男はまた、少しく己の体重を忘れた。
幼子だ。奇異なものを見た。橙色の髪を持って生まれるなど変異か祝福か迷うところではあるまいか。そうしてきっと女はどちらも思惟せず我が子の誕生を喜んだだろう。両腕に子を抱き上げた女は湯気を燻らす鍋を前に、あやすように身体を揺らし、微笑み続けている。子は変わらず呆けたような表情をして母を見詰め返し、笑い返す素振りはない。ぐずっているのだろうか?苛められでもしただろうか?そんな心配さえしてしまった男はもう少し近付こうかと足先をにじらせ、はたと静止した。ますます誘い寄せられている。魅了されてでもいるのか、瞬時意識を手放すほどに見入ってしまう。
窓で切り取った絵には理想の母子像があった。子を愛し、母を愛する慕情があった。移ろう時の中でくっきりと存在を象って彼らは居た。恋焦がれるように男は凝眸した。変わらないものがあるのなら、変わらないことが許されるなら彼らをと願った。
やがてそこに父らしき男が顔を見せ、おどけながら子の顔を覗き込むと揶揄るように笑いながら軽々と母の腕から抱え上げ、夫婦がいくつか言葉を交わし、また笑いあって母は夕餉の支度に、父と子はそれを待つために窓辺から消えた。
母は鍋の中をみるため顎を引き目蓋を伏せ、それでも微笑みは絶やさず優しい面差しのまま鍋をかき混ぜた。

時にすれば寸刻にも等しい短い時間だったかもしれない。体重も忘れていた男は時の調からもまた遠ざかっていた。それらの感覚が一挙に去来したとき、男は己の世界へ帰る時分を悟り、ゆっくりと身体を返し、音も気配もなく屋根を蹴るまで視線を繋いでいた。最後に思ったのは、もう一度あの子供が視界に現れないかということだった。人の成長を見守りたいと夢想したのは、やはり初めてのことだった。










('07/09/25  耶斗)