冬獅郎ではない獣×一護描写有りにつき無理な方はお戻りください。









































 油断はしていなかった筈だ―――

 道無き道、森の獣たちさえ通らない薮を全速力で駆け抜けながら一護は自らに手抜かりは無かったことを確認しては現状に陥った失敗を考え、そして舌打ちする。
 準備も万端だった。気配も完全に絶っていたし、薬草の煙で人間の匂いも消している。

 なら何故見つかった―――

 認めたくはない…。認めたくはないが、最高のハンターの一人であると称される一護が、一欠片の傲りも慢心も無く挑んだ狩りで仕留める前に獲物に感づかれたのであれば、

(実力の差―――)

 元々のポテンシャルの差だ。

(くそ…ッ)

 自らへの怒りで冷静であらねばならない逃走の足が酷く鈍く感じる。下り坂を軟らかな腐葉土は踵の抉った傷と蹴散らした土とで真新しい獣道を追跡者に知らせるだろう。
 今、一護を急き立てる焦燥は銃を構えた時には無かったものだ。やはり己は冷静だったと、狩りへの態勢を思い起こしては右手の、弾倉の空になった二層式連弾銃を握り締める。弾を装填すればまた撃てる。だがその暇はあるか。
 相手は素早い。狙いを定め、引き金に掛けた指を引くその一瞬に振り返った白銀の狼。全長は成人男性の丈ほどはあろう巨躯は普通の狼では有り得ない。一護や、一護と同じハンターたちが狩る対象、悪鬼悪霊の類の一つ、人狼は咄嗟に発射された弾道から逃れて姿を消した。木々の間を移動する草擦れの音さえなく静まり帰った場から一護は迷うこと無く踵を返した。人狼がかわしたと思しき方向へ追って二発を打ち込んだが掠りもしなかったことは明白だ。森中が大いなる獣の怒りに怯え、緊張していた。残った選択肢は持てる力の全てで逃げ延びるか、相討ち覚悟で刃を突き立てるかだった。


 空気に水の匂いが混じったと覚えて、一護に漸く現在地を把握するだけの冷静さが戻ってきた。耳を澄ませば岩を洗って滔々と流れ行く川のさざめきが聞こえる。深い場所でも脹ら脛が浸かる程度の浅瀬だった筈だ。このまま森の入口に停めた車まで駆けるか、岩影へ一度身を潜めて態勢を立て直すか瞬時に思考を展開し、腰に帯びた三日月型の短刀といざというときのために足首に仕込んだ掌程度の小刀の有効性を再検討する。一番威力があるのは銃に違いないが、敵の俊敏な筋肉はそれを簡単には証明させてくれないだろう。

 だが、結局のところ一護が確認したのは勝機の確実性ではなく、自らに戦う意志が残っているかだった。
 臆病風に吹かれてはいないか、恐怖に身がすくんではいないか、惑乱のあまりに自らを失ってはいないか、

 魔に対する恨み怒り憎しみは死んでいないか。

 滅したいと願うか、殺したいと望むか。
 魔に肉親を、友人を、恋人を奪われた人々の嘆きを忘れてはいないか。魔に生命の安全を脅かされる人々を救う決断は崩れていないか。

 フラッシュバックしたのは化物に躯を引き裂かれて死んだ母親の残骸だった。

 一護の身体が斜面の切れ目から3m下の川原へと飛び降りる。崖の上からでは死角になっていた窪みへ素早く転がり込み、ジャケットに縫い付けた銃弾用のポケットから弾を取り出し、空になった弾倉へ装填する。腰の短刀も鞘から抜いて足元の石の上へ。もしまた2発とも外れたならば、一護の正面からしか襲えないこの洞の中で迎え撃つ。

 追い詰められてもいないのに相討ちを覚悟するのは最悪の手段だ。逃げ延びる可能性があるなら断然そちらを優先すべきである。単独行動のハンターが行方不明になったところで骨を探す者もない。
 そうであるから尚更生きて、逃げて逃げて命を繋いで、確実に仕留める次のチャンスを用意すべきなのに。

(仕留める。必ず。ここで)

 銃を構え、息を殺す。
 あの化物は一護を追っている。視認はしていないが縄張りへの侵入者を許す筈もない。臭いを消したとはいえ、獣の五感は人間のそれを遥かに凌ぐ。視力は勿論、聴力も。疾走した所為で拍動の増した心臓を早々に治めなければならない。川の傍だからと安心は出来ない。
 視界に動く影が現れたならすかさず引き金を引く。祈るのは無害な動物が迷い込まないか、禁猟区へ踏み入る無法者が間抜けにも己に見つからないことだ。

 ガサリと草が掻き分けられるぞっとする音に上方を意識した刹那、洞の淵を陰が掠め、一護は躊躇わず引き金を引いた。骨に響く発砲音と衝撃とを両肩に受け止めて、確かに弾を撃ち込んだ的を見詰めれば洞の入り口近くに倒れていたのは、一護が弾を撃ち込むよりも既に何者かの牙で傷つけられ、血を溢れさせていた鹿だった。
(囮を―――――ッ)
 使う知恵があるのかと、覚えず外に踏み出しかけていた身を引き、銃を構えなおそうとした時だった。鼻先を掠める程の至近で風が興り、網膜から送られた信号を解析する前に一護の身体は洞の外へと投げ出されていた。
 宙に浮いた感覚は一瞬で途絶え、川原の石に背を削られ川の中で静止すると、左肩には肩から先が千切れるのではないかと思うほどの激痛が走った。無意識に引いた右手の人差し指に引き金の感触はなかった。首を捻れば上流からの水に現れる武器があった。迂闊にも手放してしまった武器を取り戻そうと裂傷の激痛を抑えて身体を返すが、立ち上がるよりも早く白銀の獣が一護を押さえ込んだ。
 条件反射の悪態を吐いて傷ついた左肩と、武器を探す右腕とを押さえた狼に「ほんとに頭の良い奴だなっ」と皮肉って、顔へ吐きかけられる湿った息に満月のような瞳を睨み上げて腹を蹴り上げる。しかし獣の腹を覆う硬い筋肉と毛皮とは人間が生身で加える攻撃など虫に刺されたほどでもないと嘲笑うかのように、ひとつ喉を鳴らしただけで一護の胸元へと牙を剥いた。
(心臓を食われる――)
 絶体絶命かと項を逸らし、額を濡らした水面に一護は目を閉じたが、予想した肉を裂かれる痛みも喉をせり上がる血もなかった。ただ、服に覆われていた肌に空気が触れるのを感じ、続いて服が引き千切られる様を見た。
「皮は剥いて食べるって?お行儀もいいんだな」
 こりゃ笑える。自棄も少々笑った一護を、それでも獣は一瞥すらせず荒い息を吐き出す鼻先を、裸になった一護の腹に押し付け、さらにその下、ジーンズの隙間にも牙を押し込もうとしていた。
「おい、何の真似だ?お前が用のあるのは心臓だろ。心臓はそこにはないぞ」
 といい終えるや否や、上体を押さえ込む前脚の力が増し呻くと同時にベルトごと咥えた獣によって腰を揺さぶられる。腰の骨が外れかねないほどの勢いで首を振る獣の力に下半身が引き摺られ、抵抗した踵が川原の石を跳ね上げた。
「ぐ…っ、この―――」
 何のつもりだか解らない。身包み剥がして食べやすくするほど、本当にお上品なケダモノではないだろう。
 揺す振られるほどに腰を締めるパンツの感覚が緩み、空気が這入りこむ。この感覚はちょっと頂けない。
「お…、い…ッ、このクソ犬…ッ!」
 上着は引き千切られるし、上半身は頭からずぶ濡れだし、押さえつけられる背中は角は取れて丸くはなっても硬い石が食い込むし、左肩から血は水に溶けて流されていく。良い様に振られる腰も取り戻せなければ、踵は石を掻くくらいが関の山だ。
 なのに一護を捕らえた一撃以降、一護を傷つける牙も爪もない。狼の前脚を確かめれば岩肌も抉る堅強な爪は川底に突き立っても一護の肉を裂いてはいない。
「おいって…ッ、聞けよ!」
 腰には臭い消しの灰が入った袋を結びつけてある。あくまで臭い消しだ。人の臭いを消すだけのもので獣の嗅覚を狂わす効能はない。鼻がイカれて脳まで、などということもないだろう。
 命の危険は切迫したものでは無くなった――――思い違いだろうと生き延びるためのまともな思考が戻ったことは有難い。何にせよコイツの下から抜け出すには肩を押さえる脚が邪魔だ。
「OK!OK、分かったよ!落ち着けって!」
 お前の勝ちだ言う通りにするから揺するな、と人の言葉が通じるかの確信はないまま声を上げた一護だったが、獣の遠く背後に小さく映りこんだ影にぎょっとして喉を詰まらせた。が、直ぐに我に返り、現れた人間に向かって叫んだ。
「逃げろ!」
 幸い一護の服を剥ぐのに夢中で、新しく現れた餌には気付いていない狼の下から伸ばせる限り首を伸ばし、痺れる左腕を無理やりに持ち上げて狼の前脚を握り締めた一護は、こちらが必死だというのに一向にそれを悟らない鈍い一般人に焦れて声を重ねる。
「何やってんだ!早く逃げろ!!」
 だが、その人物は一護の剣幕に怯む様子もなく川原を登ってくる。ハンターではない。ひとつとして武器は携帯していないし、かといってレジャーという出で立ちでもない。
 軽装だ。
 ふらりと散歩に出たとでもいうようなラフな格好で、男はのらりくらりと上ってくる。
(何者だ…?)
 ここで漸く、その人物の不可思議さに気付く。
 様子を見ることも迷うこともなく、悠々とした足取りで上ってくるのは若い男だった。手足の長い長身をして、細身ではあるが決してひ弱ではない。むしろ俊敏な筋力が窺える体躯。白髪にも見える髪は微かに灰色がかったのを逆立て後ろへ流しているらしい。首筋から覗くのは襟足に残した髪か。
 近づくにつれて男の面立ちもはっきりとしてきた。相変わらず獲物だった、今は捕食者の狼は被捕食者である一護の服を咥えたまま不機嫌に唸っているが、首を振る焦れた行為は弱まっているために一護の視界もさしてぶれない。男は、笑っていた。うっすらと笑みを浮かべて、いかにも一護を見下していた。化物の仲間なのかと表情を強張らせる一護に、とうとう狼の傍へ立った男は、男の気配に振り返りもしない馴れた様子の狼の隣へ腰を屈め一護を覗き込んだ。そうして、冷たい碧の目で
「雌の臭いがする」
 と哂った。
「まるで発情期の雌だ。お前、間違えたな」
 面白げに撓む目は無遠慮に一護を眺めて、服を引き千切られて胸から腹まで晒されているのも、下衣まで剥がされそうとしている理由も判じかねていた一護へ答えを教える。
 瞠目して固まった一護に、男は首を捻って何か探す仕草を見せたかと思えば、探し物を見つけた得意気な表情で狼の頭を越えて一護の腰へ結わえた袋へと左腕を伸ばし引き千切った。無遠慮に頭に腕を乗せられて一声狼が不満を漏らしたがそれきりで、男は幾分水を含んだ袋の口を開いて男は鼻へ近づた。僅かに臭いを吸い込むと顔を顰めて逸らす。酷い臭いだと言いたいのはその表情で分かる。人間である一護の鼻では、少々きつい臭いがするだろうかという程度のものだったが、そこまで顰め面をしなければならないのならば、男は彼自身が匂わすように、人外のものであるようだ。狼の前肢を握り締める一護の手に、それまでとは違う意味の力が篭る。
 背中へ腕をやった男が尻ポケットから細く、小さい瓶を取り出す。形でいえば底の平らな試験管には、コックで密封された液体が並々と封じられている。一体何物かと一護が疑う目を向ければ男はにっと歯を剥いて
「好んで雌の匂いつけて現れるハンターとは思えねぇが、これも勉強だな。俺としては気は乗らねぇが仕方ない。可愛い弟のためだ」
 己の顔の前へと翳し、瓶を、中の液体を一護へと見せ付けて男は、その冷たい瞳と人よりも発達した犬歯を覗かせて哂った。






「お前が使った獣の毛は恐らく雌のものだろう。惜しかったな、雄を使えばよかったのに。こいつもそれと同じようなものだ。ただ、雌の体液から精製した。詳しく聞きたいか?」
 聞ける耳を一護は持っていない。
 狼に押さえつけられている一護の下衣を男は狼の牙に代わって引き下ろし、抵抗して身を捩る一護の脚を無理やり開かせると、硬く口を閉ざす後孔へとコックを外した瓶の口を押し当てた。一護の内壁へと零れていく液体が全て注がれるのを確認し、人肌よりもいくらも低い温度のそれに腰を浮かせていた一護の中へと瓶を押し込んだ。小指ほどの口径しかない細口のガラス瓶は、先に注がれた液体の滑りも借りて簡単に中へと滑り込み、また腰を震わせた一護に男は小さく笑みを溢し、恐々と目を見開いている一護を水の中から引き上げ、川を跨いだ向こう岸の藪へと狼を引き連れ、分け入った。石の上より土の上の方が楽だと判断したのか、開けた場所で無防備な姿を晒すのは野生としての本能が拒否したのかは知らないが、一護は声を発することも、自らの足で身体を支えることも出来なかった。腸壁から染み入る毒は既に回り始めていた。
「人の臭いを消すだけにしておけば良かったのにな。よしんば俺たちの耳が鼻同等に優れているにしても、危ない賭けをするもんだ。その心意気は好きだぜ?人間ってのは馬鹿な真似を好む」
 耳の裏から熱い吐息とともに男の声が響く。耳朶を擽るのは唇か。その判断すら一護の霞がかった思考では叶わない。
 熱かった。ただ、ただ、焼け付くような熱さに侵食され、逃れたくて腰を捩っていた。
「なぁ、お前の本当の名前は何というんだ?お前の車にあった免許証や身分証には顔写真だけが同じで名前が一致するものはひとつとしてない。人間社会の裏で俺たちを狩って、お前のいるべき世界では犯罪者か?報われねぇな」
 男の嘲りにすら怒りも湧かない。後孔を犯す指、三本の指がもっと深く、もっと激しく抉ってくれることをだけ一護は求める。屹立して熱欲を溢す肉茎は既に幾度か精を吐いている。それでも尚治まらない。まだ足らない。森の中で全裸にされ、鼻先を押し付けてくる狼の舌に弄られながら、一護は欲望に腰を突き上げては、男の指へ肉襞を押し付ける。雄としての性は女を突き上げるように腰を跳ねさせるが、直腸から前立腺を捏ねられる絶頂感にも近い快感にはどうしていいのか分からない。押し入っては抜け出ようと下がる指のもどかしさに首を振って追い縋るしか分からない。
「なぁ、名前を教えろよ。お前の名は何と言う?――――呼んでやるから」
 不可解なことに男の声は甘かった。舌の上へ砂糖水を垂らされたように一護の喉が鳴る。呼吸に喘いで開かれた口は確かに頭上から垂らされる何かを待っているようでもあったけれど。
 一護の陰茎を舐めていた狼が一護の肩越しに男を見上げる。大きく広げられた一護の股に鼻先を埋めて見やる弟の意図を兄は正しく解し、そうだなと、一護から彼の名前を聞き出す余興は中止して一護の背を起こす。
「弟がお待ちかねだ。体位は、と訊いてやりたいところだが、やっぱり獣らしく四つん這いだろ。ほら」
 腐りかけた落ち葉の混ざる土の上へ一護の膝が落ちる。勢いづいて倒れこむ身体を支えようと反射に従い腕が伸ばされたが、肘は折れて膝も留まらず地面への衝撃を些かも緩和させることもなく倒れ伏した。男の呆れる溜息が聞こえたが、土の湿り気と冷たさに心地よさを覚える一護はこのまま眠りたくあった。勿論、這って逃げようと訴える思考も残っていた。けれど腰から足先までの感覚は愚か、上半身さえ一護の意志を通さない。男に腰を掴まれ、引き上げられてから、膝を開かされて態勢を支えられても、自らの力で姿勢を変えることも出来なかった。
「ぅ…、ん、ん……」
「あぁ、意識はあるか?死ぬなよ?まだこれからなんだ。ちゃんと感じておけ。忘れるな」
 生きていれば、だけどな。
 ――――悪魔
 悪魔、だ。
 狼を弟と呼ぶ男。人外には違いない。怪物の類だ。しかし、
(底知れない――――)
 実存を疑わせる濃密にして希薄な存在感。深淵を覗き込むに似た不安感。
 この底知れなさは、化物では片付かない。
(悪魔だ…)
 神の力を持ってでしか滅することの出来ない悪霊、悪鬼、黒い霧。それを男は宿している。だが、本物の悪魔ではないからここで祈りの言葉を唱えても祓うことは出来ない。
 掲げられた一護の腰へ狼が被さる。背を覆う重量感に一護の顎が土の上で震えるが、指先ひとつ動かせずに一護は薄く開いた目蓋から己を見下ろす男を眺める。ともすればぼやけ始める焦点を、定め続けることが意志かどうかさえ漠然としていた。
 初めは吸い付くような感覚だけだった。何度か押し入ろうとしては滑りに逸れて、苛立つ気配の息遣いが首の裏へかかった。
 変わると予感したのは、己の肉襞が広げられる感覚からだ。確かに何かまろく、質量を持ったものが中心を押し当て、軸を逸れることなく進み行ってくる圧迫感だった。
「ぁ…ぐ……ぅウ――」
 縊られる恐怖に肺を押し潰されるように、身を裂かれる恐怖に腹が強張る。幾度かの吐精で弛緩し、かつ散々に広げられた一護の後口は膨張した牡を含むに苦は無かった。初めこそは未知の畏れに緊張していた肉輪も、先端とはいえその外縁を窺わせる質量が滑り込んでしまえば自然と押し出そうとする抵抗は攫われた。
「はっ―――ぐ、ぁあ゛…――」
 獣の性交は直情的だ。純粋に生殖のための行為とだけの認識があるからか、あるいは雄同士交わるという不自然を知らないからか、一護のそこがそのための器官では無いにもかかわらず容赦なく突き入れる。指よりも長く太い質量が腹の奥までを侵し、内臓ごと引き摺るように引き下がっては深く貫く。予め腹へ注がれていた液体の為に潤沢な内部を牡が犯す。何度も、何度も。繰り返し、繰り返し。
 性感を感じる余地など無かった。痛みも無ければただ、腹を犯されている。それだけだった。穴に使われるという屈辱を塗り重ねられていく。
 背後には獣の生臭い息が荒れている。肩の皮膚を掠めるのは牙だろう。血が溢れていた左肩は男によって応急処置が施されていたが、一護の服を破いて作った即席の包帯は既に血に染まっていた。血の臭いが獣の本能をさらに昂ぶらせているのだろうかと一護はぼんやりと考えた。繰り返し抜き差しされ、腰へ押し付けられる強さに耐え切れず身体は地面に擦られながら、何も感じていなかった筈の腹から悪い予感に似た兆しが滲み始めた。
「…………ッ」
 唇を引き絞り、息を呑んだ一瞬の、一護の青褪めた顔を果たして男は見ただろうか。一護を弟へ与えてから、それまで男の腰元に置かれていたベルトポーチ(見間違いでなければ一護の車にあったものだ)から取り出したカード類を一枚一枚捲ってはそこに印字されている名前を読み上げていた。独り言というよりも一護に聞かせている名は、一護が状況によって使い分けている偽名の数々であるから、男は一護が車のダッシュボードに放り込んでいる身分証の類を、警官等のバッジも含め一護のバックに入れて持ってきたという訳だ。何の目的でかは不明だが。
「日系の名前が多い。見た感じから思っていたが、お前、東洋人か」
 ジャパニーズ?と訊く男の声が僅か弾んでいるようなのは気のせいか。苦悶の呻き以外が喉を通って溢れそうな一護は唇を噛むしか出来ない。
「俺の婆様は日本から渡った人でな、お前がそうなら俺たちには同郷の血が流れていることになる。仲良くなれそうじゃないか?」
 ふざけた事をと一護は辛うじて考える。もはや意識は飛びかけている。我慢など止めて自我など投げ捨ててしまいたい。獣に犯されて悦んでいる躰など捨ててしまいたい。
 一護へと視線を向けた男が、一護の表情の変化を見て取って口角を上げた。瞳には愉快げな色をのせて、一護にそれは軽蔑と映った。優越と侮蔑、満足と好奇が入り混じり、伸ばされる手を一護は触れるまで知覚しなかった。
「悦さそうな顔じゃないか。お前、好きものだなぁ」
 事実でない嘲りに噛み締める奥歯が軋む。睨みつけても、涙腺から送り込まれる涙に濡れた眼では効果はないか、朱を刷いた頬が怒りからだとして正しくは伝わらない。
「喜べよ、狼の性交は長い。よくそんな体力が、と笑える程な。長く楽しめるぜ?」
 言って、男の手が一護の下肢へ伸ばされる。予感して強張った一護の予想通りに、男は一護の陰茎を握り、擦った。
「―――――ッ!!」
 脱力していた一護の背が大きく撓む。喉を仰け反らせ、逃れようと上体を伸ばす。一護を屈服させようとする力を撥ね退ける意志の込められていた眉尻から、吊り上げる力は抜け、戸惑いと請願とに垂れる。
 ほら、と男は言ったようだった。
 足りなかったんだろ、悪かったな。言葉ばかりは気遣って、男は欲を溢す鈴口に爪を捩じ込む。堪えていた一護の嬌声が上がり、腰を進める牡の勢いが強まる。
 大腿に触れているのは毛足の長い硬い体毛で、脇腹に時折触れるのも同じ感触。どこか温かくすら感じるそれは下肢からの刺激がなければ安らぎにもなりえたかもしれない。
 犯されている。獣に。四足の動物に。
 背にかかる息も、掠める毛先も、熱も、屈辱も。
 男の威厳も人間の尊厳も、踏み躙られ引き裂かれて

 後に残るのは
















 全身を銀色の剛毛に覆われた巨獣である弟の、種を青年の腸内へ注ぎ込み終えるのを待って男は立ち上がった。青年の車から拝借した品々はその場へ放り出したまま、弟の名を呼び河原へと藪を掻いたが
「アレク?」
 アレックス、と弟の愛称と混ぜて振り向けば、怪訝に眇めた男の眼には、うつ伏した青年の顔を上げさそうとするように鼻先を押し付ける狼が映った。
 何をしているのかと、思い当たって男は僅かに顎を浮かせた。ああ、なんてこったと。
 忘れていた。狼は情に厚い。
「アレックス」
 人間を忌む憎しみと嫌悪を男は持っているけれど、純然な獣としての、高貴な本能をだけ有する弟にそれはない。男がひたすら人から遠ざけて来たからだ。
 厄介だ。
 失敗した。
 薬も今だ未完成の上に、唯一種を残せる弟が、しかも男なぞに入れ込まれては面倒この上ない。
「アレックス……」
 男の溜息を聞き取らない狼の尾が力なく垂れ下がる。鼻は相変わらず青年の頬をつついて、『種』をつけた雌を、その身体を心配しているのだろう。それは雌でもないし同類でもないし『人間』なのだと、どうやって理解させようか方法を思いつく前に男は自身が弟に限りなく甘いことを痛感していた。
 死んでいなければ己を追って何処までも殺しに来ただろう青年の憎しみを思って愉悦を噛み解していたのに。
 目が覚めて仇が目の前にいることを知った青年の顔も見ものだろうと発想を転換することにして、男は弟と地面にうつ伏して動かない青年の許まで引き返した。










2009/12/20  耶斗