時々、握る刀(半身)が酷く重く変わることがある。
 何故なのか?――――――――それは後悔によく似て




 死神と渾名される集団がある。
 法と、秩序と、平穏を護るための
 唯一、帯刀を許された身分である。

 軍隊、兵隊、ある世界ではそう呼ばれるだろう。
 だがこの世界では法の守人を、律の調整者を
 死神と、呼ばしめる。




 月も隠遁した夜。雲間は晴れて星明りだけが白々と地上を照り明かしている。草々の間(ま)、虫たちが伴侶を探し、求めて呼び声を上げている。深緑の影は濃く、川面は白く瞬いた。虫たちの声が已む。辺りには川の石に砕ける、縁の葦を洗う音だけが沁みていく。息づく彼らの口を閉ざさせたのは闇より濃い影を纏った男だった。宵闇の中枯れの頭髪の鮮やかがややばかり褪色して浮かび上がる。砂を噛む草履に彼は土手から川縁へと下りてきたのだった。夜の中に彼一人。天(そら)がみるのも彼一人。
 彼は剥き身の刀を手にぶら下げていた。身の丈ほどもある、つばも柄もない、なかごを伸ばしたような握りに布を巻いただけの大刀。その刀身は本来の澄んだ肌の色を変え、乾ききらない紅でもって染め上げていた。狭間に覗く僅かの白刃が陰を割いて星へ応える。
 ざし、と砂利を噛み土を穿って刀が地へ突き立った。彼の息は荒らいでいたが、そうしたのは身体の疲労からではないようだった。頭(かしら)に両手を重ね置き、そこへ首(こうべ)を垂れて凭れかかる様に傾いだ背は大きく上下しながら彼の、治まりきらぬ昂奮を伝えていた。
 仕事を終えた帰り途である。
 この世界に出没する虚という、名の表す通り虚ろなる者の排除を彼一人、終えてきたところだった。慣れたことである。そう――‥思っている。彼は俯いたまま眼を転がし、己が足の地を踏み締めていることを確かめる。言いようのない疲労感は虚脱感にも似て、ともすれば浮遊感に変わりそうだった。己の息が極間近で聞こえながら、遠い誰かのもののようでもあった。黒崎一護は深く息を吸い込み、また深く吐き出して、自分の呼吸(いき)の落ち着くのを待った。呼吸さえ正常に戻れば重く鈍い痛みが巣食う頭も、そのために鈍る思考も晴れるはずだった。
「誰だ――――っ」
 夜の澄んだ空気を感じ取れるほどになれば己一人だと思われていた其処に誰か他の者の気配を感じ取って一護は背筋を緊張させた。蒼みがかった墨色の世界を見渡してみても誰ぞかの所在は明らかならなかった。
 気のせいだったか‥?一護は思い、断じることにした。初めから誰かいたとは思えなかったし、新たに現れたとしても死神の姿を見れば同業者でない限りこの時間帯だ、気安く近づいたりなどはしないだろう。近付くとするなら己がそれを見逃すはずはない。
 後方へ首を捻っていた一護は知らず安堵の息を吐き、さらさらと流れる川の方へと首を戻そうとした。
「お疲れのようですね」
(この声―――っ)
 警鐘が大きくなった。余韻の中で反射的に身を強張らせた一護はそれでも刀を抜き取り正眼に構えた。
 忍び笑いが何処からか大気を震わせる。
「出て来い。性質(たち)が悪いぞ」
 唸るように一護は警告した。果たして警告として成ったかは分からなかったけれど。
 注意深く左右前方へ眼を奔らせ、後方へは微かな音も逃すまいと耳を欹てる。さくりと草を踏む音が聞こえ、右へ眼を向けた一護はその者の姿を見留めた。
「お前‥」
 苦々しげに顔を歪めた一護に男は哂ったままだった。薄墨に浸る、鮮烈を和らげたような白銀(しろがね)――――腕組みをした長身の男が面白そうに目を細め、一護を見つめて立っていた。
「何時から其処に?」
 刀を下ろして一護が嘆息する。そのまま切っ先を男の喉下へつきつけてやってもよかったけれど、今夜は刀が重かった。肉に疲労が堆積して、少しでもそれを吐き出そうとするように重い溜息が落ちた。それを見留めて男は片眉を上げる。気に掛けたような様を見せながら、楽しげな笑みは解かれない。
「つい先ほど。あんたがこの川原に来たところぐらいかな」
 男の応えを受けて、一護はさらに眉間の陰を深くした。それなら初めからいたんじゃないか。情けなさに一護は歯噛みする。得体の知れない男―――幾度か数える程度には身体の交わりを持った‥持たされた男。色を売り、男、女と彼らの熱を慰める生業の男。冬獅郎、と名だけを知っている。本名かどうかは知らないが。一護は毛嫌いしているつもりだが、傍まで寄られると何故だか抵抗を已めてしまう男。
「仕事中じゃねぇのか?いいのかよ、こんな処で油売って」
 言い捨てて踵を返そうとした一護は刀を握った方の手を取られる。掴んだ手が誰のものか、分かっているから一護は憎憎しい思いでそちらを見やる。睨み上げる双眸にも平素の顔をする男。余裕を欠いている今だからこそ、その泰然とした態度が気に入らなかった。
「放せよ」
 喉の奥で、寧猛を隠した己の声を聞く。目に力を篭めるが男はそれをかわすように小首を傾げて言った。
「今夜の客はもうないんだ。だから‥」
 『だから』?
「あんたの相手をしてやるぜ?」
 次いで動いた男の身体を、一護は避けることが出来なかった。
「‥っな、離し‥っ」
 下ろせ‥ッ
 肩に担ぎ上げられて一護は狼狽した。罵倒してやろうと口を開いて、だが男の言葉に噤んだ。
「血生臭ぇ。洗うぞ」
 その一言だけ、揶揄る色を掃って。一護は川縁へ下りていく男の振動に抗わなかった。触れられると奇妙なことに服従の感情が支配する。頭で反駁しながら身体は男の熱を求めているように。こんな時、まるで野良猫のようだと意味もなく一護は自身を思う。伸ばされる手に警戒の牙を剥きながら、触れようとする指へ爪で威嚇しながら、いよいよ頭の上へ大きな掌を乗せられてしまえば咽を鳴らす‥。げんきんな、野良猫だ。
 ざぶりと水を掻き分ける音が静寂(しじま)を割いて、一護は男が川の中へ進んだことに気付いた。思考が飛んでいた。意識を視界へ戻し、川面を確かめれば艶かしく星明りを反射する水は昏く、その上へ落ちる彼らの影はさらに濃く沈んでいた。
「はな‥せ、自分で洗える‥」
 声から気概が抜けている。一護は知っていたが、立て直そうとは思わなかった。もういい‥。観念したのかもしれない。
 川の嵩は大人の膝までしかない。宵闇にも底の小石が透けて見え、弛まぬ流れに温度も低かった。肩に担いだ一護の言葉に応えたかどうか、男は一護の膝裏を押さえていた左腕に力を篭めると身体を前へ傾ぎながら一護を肩から剥がした。落とさぬよう右手でその背を支え、そのまま水の中へ下ろす。酷く、優しい所作だった。一護が戸惑う程には。ぱしゃりと頬に水をかけられて一護は呆然としていた目を瞬かす。
「冬獅郎‥?」
 未だ舌に馴れない男の名前をたどたどしくなぞれば男は笑んだようだった。川底に尻をついた一護は胸まで水に浸かり、男は片膝をついて一護の方へ身を傾いでいたから陰を落とされるばかりだったから、その細かな表情までは読み取れなかった。
 ぱしゃり、ぱしゃりと水がかけられる。抓みながら撫ぜながら、冬獅郎は一護の肌に、短い髪にこびり付いた赤黒いそれを落としていく。触れる指がむず痒く、居た堪れない心地になって一護は立ち上がった。僅か驚いたろうか、一歩離れた一護を男の手は止めなかった。見つめる視線を背に一護は上着を脱ぎ捨てる。水の上へ落とされたそれは直ぐに水を含んで傾ぎ、流されかかったところで男の手に掬われた。
「自分で洗える」
 そう言って一護はまた数歩川下へ水を掻き、男の手が届かない距離にくると身を沈めた。そう血を被ったつもりはなかったのだけれど、よく気をつけて見れば確かに鼻腔を擽るくらいには返り血を浴びていたようだ。服の上から侵入した血液が薄く膜を張った肌を清めていく。嗅覚の麻痺してしまっている己にそれが叶えられているのか確かめることは出来ないけれど。
 男は一護の後ろでその衣を濯いでいるようだった。ざぶりざぶりと掬われては搾り落とされる水音が一護の鼓膜を震わせて、そうして一護の意識を繋いでいた。
「水が綺麗だ」
 一護の呟きに背中の水音がやむ。
 男がこちらへ顔を向けていると視線を感じる。ぱしゃりとひとつ、掬った水を肩にかけて一護はまた呟いた。何の為にか掠れた声を邪魔する虫の音はまだ戻っていなかった。さらさらと身体を撫ぜて水が通り過ぎて行く。
「この世界の水は、綺麗すぎる‥。澄みすぎて、魚も住めない‥」
 その水も、今は己が連れてきた血水に濁ったろうが、すぐにまた清廉な流れに戻るのだ。それがどんな感慨から転がり出ているのか一護は理解しなかった。口をついて出た言葉をただ聞いていた。水面に落ちて揺れる歪な貌を見つめて、手だけは意志をもって肌を擦った。
「一護さん」
 と背後に間近の、熱に似た圧迫感を感じて一護は振り返ろうとした。出来なかったのは伸ばされた腕に抱きこまれたからだ。その腕に絡んだ袖は濡れそぼって、そういえば男も己に付き合って川に入ったのだった。
「冬獅郎‥っ」
 咎める声は先を知る焦りを多分に見せた。
「お前」
 なんで、と肩をぐるりと囲いこむ逞しい両腕に口元を埋めて訊くともなく呟けば「ん―――‥」などと恍けた声が項の下でくぐもった。一護の濡れた首筋に男は目元を擦り付けて、一護は堅すぎない男の豊かな髪が冷えた肌に熱を送るように思えた。
「俺はこういう慰め方しか知らないからなぁ‥」
 耳朶を唇で食みながら暈けたように男は咽喉の奥を震わせて言う。故意に明るくみせるような、無理矢理に目を眩まそうとするような
 本心を隠すに長けた男の手管の声が誘う。
 一護の意識を絡め取ってやろうと招いている。
 呼ばれるままに首を捻り、一護は男の唇を、食んだ。