触れ合わせていた唇を離して青年は目の前に女性を前にしては不適切な仕草を見せた。女性の目が問いたげに首を傾げる。否、街灯の下で灰色に染まる茶色の目は雄弁に一護の非礼を詰っていた。
「………ぁ、悪い…。…ごめん」
「ぇ、」
口付けの余韻は甘いものの筈。それを彼はまるで不可思議な感触をいぶかしむかのように、彼女の紅い口紅の移ったそれへ人差し指の背を当て視線を地面へ逸らせてさえいただけでなく、はたと、まるで一瞬前まで唇を合わせていた相手を忘れていたかのように我に返った目をして彼女を見止めたかと思うと、理由も話さず、唇へ当てた右手指はそのまま、左手で別れの挨拶をして背を向けた。
なんという失礼な男だろう。
そのために、彼女の内で黒崎一護は彼氏候補から脱落した。


奇怪しいな
あんな感覚(もの)だったろうか


彼の住むアパートの玄関の鍵を回し開け、扉を開きながらも一護は唇に残る違和感を拭おうと指で擦り続けていた。

剥がれない
離れない
あれはこんな感覚だったろうか

「ただいま…」
玄関を潜ると同時に靴の踵を踏み足を抜き取る。奇妙な倦怠感が両肩に圧し掛かっていたためだろう。壁に肩を凭れて億劫気に彼は段の浅い廊下へ上がる。
一人暮らしには広い3DK。同居人が一人いる。1年近く同居生活を続けて、それよりずっと以前から知り合いだった。
おかえりを言わない男はダイニングキッチンのカウンターの向こうから一護を見ていた。片手にはカップの取っ手を持っている。コーヒーでも淹れに来たのだろうか、それとも用の済んだカップを洗いにきたのだろうか。

…どちらでもいい。

明りをつけないのは夜目が利くことの不精からか。室内はカーテン越しにも外の明りで充分に青白く照らされている。
男は見ている。酷く、呆れたような眼差しで。
一護は予想していた。また今度も男は目ざとく一護の状態を把握し、その訳も…

「一護」

子供を嗜める親のような声だ。ただ、そんな風には優しくない。教えるための声音ではなくて、ただただ溜息をつきたいというほどの呆れしかない。そうして僅かの苛立ちと。
一護は応えない。応えずとも男が、冬獅郎が一護へ歩み寄ることは分っていたからだ。何度繰り返したかしれない。何度繰り返すかしれない。一護が本当に愛する女性を見つけるまで。

「お前はまた…」

カップをカウンターに置いた男が足音も立てず、一護へ歩み寄る。一護は壁に凭れたまま動かなかった。薄暗がりの中で、男の白銀の髪が青白く染まっているのを眺めていた。脳髄では遠く警鐘が鳴っているのを知覚していたというのに。男の声は溜息交じりに、それでもやはり怒気が。隠し切れない憤りが見え隠れする。
だが同時に嘲笑ってもいるのだ。そう一護は思う。
壁に背中を押し付けられ、挟まれる身体に男の体重が圧し掛かる。重いと思う暇もなく息を塞がれる。掴まれた両肩が圧迫に苦しんでいる。己が小柄な少女であったなら、容易く抱え上げられていただろう。
思い出したのは夜道で別れた女性の肩だった。

(いけると思ったのになぁ…)

記憶の反芻を聞き取ったかのように男の唇が離れる。口紅でべたついてはいない唇。さらさらとして、柔らかいのはきっと男も女も変わらないのに。

「なんでかなぁ……全然違うよな」

きっとお前の所為だよな。
心此処にあらずという忘我の目をする一護の呟きを聞いた男は酷薄に嗤って一護の両肩を戒める力を解けば、一護は両腕を男の背中へと回して硬い筋の張る背を、肩を確かめる。男の首筋に目元を擦り付け、肩口に口が埋もれるからくぐもる声で

「俺は女の子が好きな筈なんだ…。なんでお前とキスしてるわけ」

疲れているから語尾も上がらず、問いかけなのに独語のような。
男はやっぱり嗤って一護の口を塞ぐ。肉厚な舌が無遠慮に一護の口腔へと進入し、抵抗のないのを良いことに、絡ませ引き摺り息も奪う。加減を知らない責めに息苦しさを訴え肩を殴っても、回した右手の振りかぶれない距離では高が知れていて。

「―――んぅ、あ……っ」

息継ぎをしようと口を開くのに、さらに深くと後頭部に回された手が一護を仰のかせる。肩を押さえる手は疾うに一護の躯を抱いている。腰を引き寄せる腕が二人の下腹を密着させ、柔い膨らみが主張する。雄同士であると。

「と、し、―――――」

喘ぎ喘ぎ息を継ぎ、力の抜ける膝を男が無理やり立たせている。男の背に回した両腕がまるで縋り付いているようだと、離してしまいたいのに座り込むことをどうしてか憚って剥がせずにいる。

薄い唇、冷えて―――
舌ばかりが熱い

一護の手も男の髪へと差し入れられ、自ら首を傾けて口付けを深める。熱烈に、貪欲に、喰らい合うように求め合って

「んぁ……はぁ…」
「………一護」

ふ、と息を吐いた冬獅郎の呟きに一護は伏せた目を上げない。見たくはなかった。男の両目に嵌め込まれた緑の目も、濡れているだろう唇も。
安堵に身を任せていたかった。

「答えならもう出ているだろう」

何のだよ。何がだよ。
一護は両腕の力を抜いて、身体を離す男に支えられない背を壁へ打ち、床の上へとずり下りる。
自室へ向かうのだろう冬獅郎の後姿を見送らない。離れていく微かな足音に耳を澄ませ、ドアの開いて閉じられる音まで聞き終わったなら、壁に頭を擦り付け仰のいて、「あーーー」と喉仏を震わせた。

「あーーーーなんでかなぁ」

心地よい振動が脳まで届く。このまま眠ってしまえそうだ。眠ったなら朝、冬獅郎は己をどうするだろうか。

冬獅郎の唇ならこんなにも自然なのに。

どうして他の人間の唇は受け入れられないのだろう。
何度試しても入り口で引き返してしまう一護は、引き返す度冬獅郎で慰められて、
慰められる訳を一護は知らない。










kiss cord ; 臍帯

2009/03/13  耶斗