愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。

  ―――――――『春日狂想』中原中也









日々はただただひっそりと、何事もなく過ぎていく。

「あれ、日番谷隊長いないんすか?」
ひょこりと十番隊執務室に顔を現したのは9番隊副隊長檜佐木修兵であった。目的の人物が彼の席にいないのに目を丸くする。短くはない黒髪はざんばらにたてられて、彼を印象付ける刺青は変わらず頬に刻まれていた。
己の机で仕事をしていた乱菊は、入り口にたつ彼に背を向けたまま書類をぱらりとめくり様に応じる。
「散歩」
ひどくそっけなく、愛想もなく、何時ものことだと説明するも億劫だといいたげに。しかしその美顔はいささかも引き攣ることなく秀麗なままだった。檜佐木はその横顔をかすか覗けるだけの位置から動く気も起きぬと、溜息ついて天井を仰いだ。

世界はただただ穏やかに、何事もなく移ろうてゆく。
明日は祭の賑わしさが昼下がりのこの時刻にさえ心を浮き立つものとして、けれど行き場なく漂流している。
どこか浮かれた態の男たちが茶屋で酒を呑んでいる。道沿いにならぶ店舗はどれも己が仕事を全うしようといじましいまでに活気溢れ。並ぶ装飾品の数々に娘たちは一々感嘆しては冷やかして過ぎる。
道行く人々に肩をぶつけぬよう、冬獅郎はその茶屋へ入ると茶を一杯注文した。
直に熱い茶が運ばれてくる。
懐手して冬獅郎はよしずを差し掛けた腰掛けに座り、行過ぎる人々を眺めた。
空は、蒼く。甍は、黒く。人々は色鮮やかな着物きて、忙しげに、楽しげに、つまらなそうに。
背骨を少し伸ばしてみると、屋根に遮られていた陽光が冬獅郎の眼を刺し、刹那白に浚われた視界に目を細めた。
「お待ちどうさまです」
看板娘の若々しい声が、そうして冬獅郎を呼び戻し、冬獅郎は笑んだ眼で運ばれた茶を受け取った。
すれば娘ははにかみながら、ついっと皿をさしだして
「あの、これは店主から‥」
陣羽織は脱いでいた。死覇装も、刀も勿論。
浅葱色の普段着を流して着ているだけでも、知れた顔は隠しようもなかったということ。
娘の目がみるのは死神の隊長だ。
冬獅郎はやはり仄かに笑んだまま、自慢の作とみえる冷菓子を娘の手から受け取った。
微かに触れた指の先、視界の端に娘が慌てたように手を引いて頬を染める。それを何思うでもない風に通りをみやる冬獅郎は茶を啜った。
熱きが喉を沁み落ちる。
今は身を傾げ日は避けて、道々行く人来る人まるで冬獅郎には気付かぬ風に何事もなく、過ぎてゆく、事ども―――
冬獅郎の立ち去った後には、底に滓の残った湯のみと、一口だけ掬い取られた冷菓子が、外界の熱に融けるように項垂れていた。




掃き清められた道の上にも残る砂塵を踏んで、顔を上げた冬獅郎は眼前の景色に苦笑する。
あぁ、しまった。と
背を振り向けば己はとうに門を潜っていた。瓦屋根の重厚には過ぎない飴色の扉は常に開かれている。
来ようと思わずして足が向かうこの場所は、もはや人の住まなくなった下級貴族の屋敷。埃が積もるだけを掃う人間が雇われている旧い屋敷。
これを賜ったのは何時だったか。
そうして捨てたのは何時だったか。
思い出せはしないが、外観も内装も記憶はあるそこへ冬獅郎は歩を進めた。
玄関の引き戸を開けば篭った冷気が肌を舐めた。壁が、柱が古びた木の匂いを放散するそこへ踏み入ると後ろ手に扉を閉めて、外界は遠のいた。広い土間と玄関をぐるりと見渡す。薄翳は空気に梳けて程よい寂寥が心を慰める。
――――彼は、ただひと夏だけをここで、この世界で過ごした。
ゆるりと上り框へのぼり、過ぎた時間だけ色あせた板の間へ踏み上ればきしりと柔らかに彼を受け止めた。
ここを、共に、歩いたのだ。
横向けた貌はいつかの居間をみる。そこに彼は咲って。彼の前に己がいて。
瞼閉じれば思い出す。
懐かしの、幻想だ―――
畳の部屋を囲うように左右に分かれた廊下を進めば庭を一角切り取るように囲んだ回廊に出る。木々は青々と、夏の花は物憂げに翳の中。涼やかな風が葉を擦れ合わせ足下をすり抜けていく。
拭き清められた廊下は黒ずんだ艶をもって先へ伸びている。行き着くそこは個人のために構えられたものだ。二人の人間のために在ったものだ。
ぐるりと廊下の囲むそこを、廊下に沿って歩く。一間、二間と通り過ぎ、庭も少しずつ貌を変えながら追いてくる。そうしてまた、小さな中庭を造るように内側に入り込んだ廊下を廻ると、そこが最奥の部屋だった。敷地を囲む塀も見えない。広大なこともあるだろうけれど、庭園の造りがそう見せている。
池に、築山。鯉は今も泳いでいる筈だけれど、莢かな風の声にそれは定かでなかった。
襖を開いて中に入る。床の間も烏棚も、初めのままにそこに在った。 畳の感触を確かめるように冬獅郎は半ばまで歩むと、庭を振り返りその場へ腰を下ろした。
夜になれば、帰る。
仕事が残っていたけれど、残業で許してもらおう。
皺寄せをくう副官の苦労に胸の内で謝りながら、冬獅郎は重くなった腰にごろりと横臥した。




( 奉仕の気持に、なることなんです
 奉仕の気持に、なることなんです )




『隊長‥‥‥一護が‥』
ふらりと現れた副官の、もとより白く美しい貌が蝋を流したように蒼褪めた白になっているのをみて、冬獅郎は自身もまた傷付き臥せていた身体を跳ね起こした。
『ぐ‥っ』
『隊長‥‥』
縋り、たいのか、慰め、たいのか。
判らぬ顔は、しかし確かに眼に泪を湛えて。
腹部の痛みに蹲った冬獅郎は、布団の中から這い出すこともできず、苦悶する声を搾り出し応えた。
『大‥丈夫、だ‥‥戻れ‥』
『隊長ぉ‥』
『大丈夫だ‥』
吹き出した汗が米神から流れ落ち、シーツへ染みをつくる。荒らぐ呼吸(いき)を抑えながら、冬獅郎は副官が立ち去るまで、か細いほどの声でそう繰り返し続けた。
――――大丈夫
身体、か?それとも‥‥否、考えずにいてよいことだ。

大丈夫。こんなに、俺は、穏やかだから。
心は、こんなに、静かだから。


馬鹿野郎‥一護‥。
お前、死ぬなら俺の見てる前で死ねよ‥


そうして思ったことは、それだけだった。




星も、月も、緩やかに満ち欠けながらも変わらず天(そら) に浮かぶ頃。冬獅郎は眠気眼で起き上がり、鴨居の下に浮かぶそれを見やって、嗅ぐ風にたっぷりと湿った夜気が混ざっているのを覚えてようやく覚醒した。
夜になれば、帰る。
そうだ、だから帰らなければ。

 『帰る』 何処へ

  帰る場所

 何処

  ドコ


(ここ?)

――――隊舎、だ。

それは半ば無理矢理に。冬獅郎は観念を振り払い腰を上げた。鉛を呑んだように、重かった。
月影に染まる部屋を出る。障子を閉める気になれなかったのは、風を通しておきたい言い訳と閉めることで塞がれる何かのため。
まるで空気に泳ぐ魚のようにゆるりと空気を押しやりながら、元来た途を戻っていった。

――――次は、来まい。
来るまい、来るまいと思いながら、勝手に足は赴くのだろう。
――――心は、こんなに、穏やかなのに。
可笑しなことだと懐手して、寝静まった家々の間隙を歩きながら、空に浮かぶ月の美しきを仰ぎ見、嘆息した。






 終

2005/08/06  耶斗