_猫と少年



 お、久しぶりだな、と言って足を止めた一護に、並んで歩いていた冬獅郎もまた歩みを止め一護の視線の先を追った。自然見上げる形になる冬獅郎の目線に一匹の茶トラが捉えられる。塀の上から弛んだ腹で立つ彼女は丸い目で一護を凝視し、匂いから敵かそうでないかを見極めようとしているようだった。

「おいで」

 一護が手を差し出す。彼が特別に猫を好いているとは知らなかった冬獅郎は新しい発見をした心地で彼らのやり取りを見守ることにした。
 猫が鼻先をひくつかせて一護の指先の匂いを嗅ぐ。いつでも逃げられるようにと低い態勢を取りながらもそうする訳は猫にしても一護に見覚えがあるのだろう。一護の気安い態度だけが理由とは思われない。

「腹ん中に子供がいたんだよ。大分でかくなってたからそろそろかなと思ってたんだけど、ここ数日見なかったからやっぱりなー」

 生まれたみたいだなと弛む眦は母となった猫に何を思うのだろう。顔つきも幼く毛並ね良い猫だが歳は分からない。幾度か仔を生んだ経験はあるかもしれない。
 それでもこうして産後間もない母猫を見る感慨は違うのだろう。

「おっと…」

 一護の面食らったらしい声に、塀の上から消えた影を探せば一護の足に身を擦り寄せていた。マーキングのつもりだろうか。査定は良と出たらしい。

「馴れた猫だな」

 漸く開いた口から出た声に感心するといった響きはなく、ともすればぶっきらぼうにも聞こえたが、気にした風はない一護はむしろ、急かすではなく眺めている男に満足しているようだった。

「首輪を着けてるとこは見たことねぇから分かんねーけど、人に飼われてたことはあるだろうな」

 いい匂いしたしと笑っているのは嗅いだことがあるからか。今度こそは感心した冬獅郎は片眉を上げて、此方は見ない一護を見やる。
 足の間をすり抜ける猫の背を追いかけたが届かなかった一護が、そうまでして触りたいのかと冬獅郎に思わせるほどあっさりと腰を落とす。しゃがんだ彼に潜る場所のない猫は膝に顔を擦り付けながらにゃあと鳴いた。澄んだ高い声だった。

 やはりまだ若いのだろうかと推察しながら冬獅郎は通りの前後を見渡した。冬獅郎の存在に慣れてしまっている一護は失念しているのかもしれないが、冬獅郎は霊体だ。必然、人の目に映るのは一人道端で猫と戯れる男子高校生の姿になる。一護の、冬獅郎がいるからという感覚は通用しない。
 かといって楽しんでいる一護を邪魔したくもない。

 つまるところ冬獅郎の懸念するところは人々が一護をその目に映すというそのものであって、彼らが抱く感想には興味がないのだ。
 無愛想な面も微笑ましい姿も、出来うる限り他人の目に触れさせたくないという冬獅郎の独占欲による。

 結局彼は猫を飼うかどうかを検討しながら、一護が満足して立ち上がるのを待つことに決めた。










 _猫を飼う隊長



 するりするりと掠めて逃げる柔らかな毛並と、しなやかにくねり腹を見せ甘える姿に思うことなど。



 白い猫にした。 祖母の住む潤林安に立ち寄ったところ、棟の隙間をかすめた白い影が立ち止まって、猫しか通れない狭い道の向こう側から此方を見ていた白猫は、昼間の屋根影の下涼やかで、幽霊らしく透き通って見えるほど凛としていたから来いとこまねけば寄ってきた。
 それから冬獅郎の家にいる。

 休日でも仕事をしているような男だが、たまにゆっくりと休みたい時には瀞霊廷を離れた土地に買った小さな家で一人の時間を過ごす。訪れるのは火急の場合でない限り偶さか此方の世界へ遊びにくる一護だけだ。
 恋人のために買ったんですかと揶揄られるのも仕様がないが、それだと待っているだけの男のようで詰まらないと思う。会いたい時には逢いに行くから、この家はやはり休息のために買ったのだ。冬獅郎がこの家にいるのと一護が瀞霊廷を訪れるのとが重なれば使うという程度のもので。二人になれる場所なんていくらでもあるから、わざわざ集落から離れた僻地まで足を運ぶ労もない。

 ぐるぐると喉を鳴らしながら、気持ち良さげに猫が冬獅郎の手にじゃれつく。畳に擦りつけられる背中の下からは紅い紐が伸びて、それは猫の首へ余裕をもって結わえつけられた蝶々結びの解けたものだ。それじゃあ飼い猫か野良か分からないと一護が結んだ。
 放任主義の冬獅郎は瀞霊廷の中まで猫を連れて来はしたが、飼い主の義務の内、餌を与えるという仕事だけを守って寝床も遊戯も猫の好きに任せていた。猫の性質を思えばそれで不自由などないのだろうが、名前を付け忘れていたことは失態だった。一護に尋ねられて初めて気付いた彼は、ただ一護が喜ぶだろうということしか考えていなかった。名前なら隊員たちが各々好きなように呼んでいたからそれでいいかと放っておいてしまったのだ。思えば隊員たちは冬獅郎を猫の飼い主ではなく、野良猫を黙認している隊長とだけ認識していたのかもしれない。
 それによって一護のお叱りを受けた隊長殿は、猫の名前をタマとして(安直だとまた怒られたが結局定着している)、野良と間違われて摘まみ出されないようにと首に結んだ紅の飾り紐が解けたら結わえ直す任を与えられた。隊に猫を置いている死神など(今のところ)冬獅郎だけであるし、隊どころか瀞霊廷中探しても猫の姿などそうそう見ないので心配することはないと冬獅郎は説明したのだけれど、だから心配なんだろう!と跳ね返されて返す言葉は無かった。

 会う人皆に美人だと褒めそやされるタマはいつからか日番谷隊長の宝だから玉の意味のタマなのだということになっていた。別段不都合はないので訂正もしないが、呆れながらも悪戯が成功したように笑った一護を見れたことには冬獅郎も一護の口を真似て「結果オーライだ」と返した。
 そのタマの美しさとは一重に人に怖じることなく見詰め返す姿勢だろう。勿論、きりとつり上がった大きな鳶色の目も、小さな鼻をつけた小さな顔も、艶やかな短毛に被われるしなやかな肢体も、人を誘うように揺れる長い尻尾も、彼女が人々を魅了してやまない理由ではあるだろう。
 だが、冬獅郎が彼女を選んだのはやはり彼女の、冬獅郎を見返した二つの眼だった。

 生意気にも思えたのだろうな、とじゃれつくタマの歯牙から胸の柔らかな毛皮へと指先を移動させながら、野生らしい彼女の澄んだ眼光を美しいと思ったあの昼のことを思い出す。しかしそれはやがて現世で猫を愛でていた一護の記憶へと遡る。猫を飼わないのかと尋ねた冬獅郎に、一護はわざわざ飼うほど好きって訳でもないんだよと答えた。それでも道で遇えば指でこまねいてみる程度には好きなんだろうと、以来猫を見かける折には構いたそうな目をする彼を見留めていた。犬も好きだという一護だが、彼自身なつっこい性格でないことから互いを認識しても目線を交わす程度の猫の方が気安くできるのかもしれない。

 腹へと下る冬獅郎の指がくすぐったいのか、四足で冬獅郎の手を掴むと後ろ足を掻いて蹴りを繰り返す。その度反動で畳を滑り、首から解けた紐が流線を描く。身を捩らせて己の手にじゃれる猫と解けた紅い紐のしどけなさとに想起されるのは恋人の色めかしい靡態で、ただの猫にと思うけれども、擦り寄る猫のいじらしさは艶かしさでもある。柔軟な体も、腕に絡む尻尾も、日向では細くとも暗所では膨らむ瞳孔も。かじれば甘かろと思わせる姿態の曲線美は、悩ましく躯をしならせる情事の折の恋人と通じる。

 逢っていない期間が空いているから、そろそろ会いに行く時期なのだろう。「冬獅郎」と己の名を呼ぶ恋人の幻聴まで聴こえてきそうで、冬獅郎はひっそりと吐息をこぼしたが、冬獅郎の思念を知ることのないタマは動きを止めた冬獅郎の指を、今度は詰まらないと詰るように甘く噛んだ。それによってより恋人への情を募らせる男の切ない胸の内などやはりなんらも頓着しないで。










 _猫と隊長と情人



 何度か行き来を繰り返せば隊長はいないのよと言われて次の言葉を待つまでもなく分かったと一言手を上げ、瀞霊廷を出ることも出来るようになった。

 目的の男がいる小さな一軒家は平原の一部にこんもりと生い茂る木々の合間、抱かれるように建っている。冬には寒風を、夏には焼け付く日差しを守られて、古めかしいが確かな造りでひっそりと佇んでいる。
 破璃の上に格子を重ねた玄関の板目が見えようかという距離に立てば、まず出迎えた白猫に一護はようと挨拶する。藍や緑も散る複雑な虹彩を持つ鳶色の目で、行儀良く玄関の前の敷石に座っている彼女はそれを合図とするように立ち上がり、長い尾を揺らして閉まる玄関へと鼻先を向けた。開けろと云う。地の辺で振れる尻尾は催促しているのか、気品高い彼女らしく緩やかだ。
 本当に頭の良い猫なんだなと、今度も確認しながら、恭しく引き戸を開けるのが恒例の一だ。

「冬獅郎?上がるぞ」
 家主が出迎えに出ることは稀だ。大抵奥の座敷で怠惰な時間を過ごしている。緑ばかりも寂しいからと、それでも長い留守に耐えられる野生の椿やツツジ、水仙、ユリ、今は青い紅葉も秋には庭を赤く染め上げるだろう。桜がないのは華やか過ぎて嫌なのだという。昼が眩しくなりすぎるだろと言った家主は、櫻が散るのを見るのもあまり好きではないようだ。特別に歓心を引かれるのではないという意味で。同じく隊長の位にいる朽木白哉の斬魄刀の解放された姿を知っていることも理由にあるかもしれない。仕事を離れて休息しているのに、同僚の死神を思い出しては詰まらないと。
 別の花にすりゃ良かったのによとぼやいた男の無理な注文に一護も苦笑したものだ。けれど、と一護は思う。白哉は桜の花弁だが、冬獅郎は雪花ではないか。氷雪系能力を持つ斬魄刀の内で最強と謳われる氷輪丸の使い手である冬獅郎ならば、他の氷雪系能力者たちよりも念頭に上る回数は多いのではないか。それが畏怖か畏敬か、誘起する感情は知らないが、雪花の舞う毎に人々の脳裏に思い起こされるかもしれない男が己の恋人なのは誇らしがればいいのか妬めばいいのか判らなくなる。

 タマと名付けられた白猫に先導されて框へ上がった一護は、そのまま縁側へと続く廊下を奥へ進む。木造の家屋は初夏の季節にもひんやりと冷えて、それは屋根を越えて伸びる垣根がわりの木々も助けているだろう。郷愁を呼ぶ木と井草の、人に慣れた匂いも嫌いではない。
 ついとタマが進路を変えて左へ曲がると、廊下の板目を浮き彫らせる光の洩れるそこは一護の探す男がいるだろう座敷に繋がる縁側だ。薄暗い廊下を進んできた一護には、つい先ほどまでその中にいたにも関わらず、酷く眩しく思えた。否、影のない平原を渡ってきた一護にとって木立に透かされ零れ散る緑の影を織り混ぜた光の粒は鮮烈だった。水の中へ飛び込んだような清々しい心地にもなる。冬獅郎の庭には水気が満ちていると思えるのは彼の能力も関係しないとは言い切れないだろう。

「来たのか」
 変声期を過ごしていない、しかし少年というには低く響く澄んだ声が主なく一護を迎え、一護は庭の様々に重なる瑞々しい緑に奪われていた眼を廊下の先へと戻した。もう数歩も行けば辿りつく居間兼書斎兼寝所がある。家主はその部屋にいる。
 この家で最も良く光を集めるのがその一室であるのは、ぐるりを廊下に囲まれ、三方は障子に仕切られるだけの解放された造りであることからも明らかで、雨戸を開いている今はそれこそ庭に立っているのと変わらなく明るい。

 障子の陰から一護が姿を覗かせれば、愛猫の頭を撫でる冬獅郎が寛いだ様子で迎えた。胡座を掻く彼の髪が何となく寝乱れているようなのは転た寝でもしていたのだろうか、穏やかと云うよりは気だるげな目をして冬獅郎は一護へ笑いかけている。
 尻尾を立てて冬獅郎の膝に摺り寄っていたタマが、やっと着いたかという風に一護を返り見、長く鳴いた。静寂に良く通る高い声音は甘く、一護も頬を綻ばす。
「今日も出迎えてくれたんだ。タマはいつも外にいるのか?」
 飼い主は出てこないのにという揶揄いのつもりで一護は言ったのだけど、冬獅郎は含むような微笑を浮かべ
「殆ど家の中にいるよ。お前の来るのが分かるんだろう、俺が気づくよりも早く庭に降りていった」
 賢いどころでは無かったようだ。
「流石タマ、ってところか?それとも猫ってのは皆そうなのかな」
 と敷居を跨いで部屋の中へ入りながら、一護は冬獅郎が手招きするのに大人しく彼へと寄る。タマが尻尾を冬獅郎の大腿に掠めながら主の背へと回る。主の恋人へ場所を譲るようだった。
「久しぶり、冬獅郎」
「あぁ」
 応えながら顎を上げ目をすがめる冬獅郎に一護も屈み込む。膝は軽く曲げたままで唇を触れ合わせる挨拶は正直なところまだ慣れない。冬獅郎に他意のなさそうな、無防備な顔をしている時だけ一護も安心して恋仲らしい戯れを叶えることがある。
 この時もそうだと、全く油断していたのがいけなかった。伸ばされたことに気づかなかった冬獅郎の左手に後ろ首を取られ、襟を引かれるまま畳の上へ倒された。
「な…っ」
 派手な音と共に転がり、慌てた一護が目を剥いて抗議したが、肩を縫い止め被さる男は愉快気に笑うだけで。
「冗談が過ぎるぞ」
「冗談?そんなつもりはないさ」
 何時だって真面目だろうなどと嘯きながら屈み込む。再び交わされるだろう口吻けが戯れだけで終わる筈がないと一護は思うから、両手で冬獅郎の進路を阻みながら首を逸らせて言った。
「俺っ、外から上がったばっかで汚れてるから…っ」
 一護の言に冬獅郎も一考する間を置いて、
「それじゃあ体を拭いてやろう」
 と、遠路遥々会いに来てくれた礼だと話すには不自然だと思える顔で、そう見えるのは気のせいであって欲しいと、惜し気なく立ち上がり廊下へ出ていく男の背中とそれに従う白猫の揺れる尻尾とを見送りながら一護は願った。


 間もなくして一人で戻ってきた男は一護の言葉を予想して二枚の手拭いを用意していた。『自分でやるから!』と冬獅郎が姿を見せるなり主張した一護は『ほら』とあっさり投げられた手拭いに瞠目し、受け止めた後でもう一枚あることを見留め、小狡い…と苦い顔をした。それでも握る手拭いは気持ち良く冷えており、欲求に抗えず一護は男から視線を外して顔を拭った。拭う間に男も部屋へと入り、一護の前へ膝を付くのを衣の畳を擦る音に聞いた。顔へ手拭いを押しつける両手の隙間を割って伸ばされた細い腕がもう一枚の手拭いを首筋に押し当て、唐突に触れた冷たさに跳ねた一護の肩と手が手拭いを溢しそうになる。薄い首の皮膚から脊髄へ冷たい痺れが奔ったが、そんなことなど構わぬように冬獅郎の腕は首の裏へ、前へ、右、左と肌を清め襟の合わせへと下りた。
「ちょっ、待った…ッ」
 帯に手を掛け、解こうとする冬獅郎の左手に流石に一護も制止の声を上げ取り押さえたが
「背中は拭けねぇだろう?」
 という親切ごかした意地の悪い申し出の返答を逡巡する隙に解かれた。
「あっ!」
「ほら。大人しく脱げ」
 歯を見せて笑った男はやはりこの状況を楽しんでいる。濡れたような目も、大気に充ちる水分のせいではないのだろう。野性的というなら飼い猫だけじゃない。
 殆ど一護の意思に反して上衣が取り払われる。袴はそのままといっても締める帯がなくてはなんとも心許ない。解けた帯の端は脚の間に、脚の付け根を辿って背後の畳へ落ちる。腿の半ばまで肌の覗くお座なりな服装に、果たして上衣を完全に取り去る必要があるのかと一護は抗議したが、「全身拭くんだ。変わらないだろ」と返され、聞いていないと言葉を失う。
「な…っ、で、」
「拭いてやるよ。全身。隈なく」
 言いながら背中をと言っていたのに腹へ手拭いを滑らせた男の深い笑みはどうしたって動物染みてしか見えなかった。


 どうしてこの男は己のような同じ性別の男に執着するのだろうと、左腕を拭う男の小さな顔を見下ろして一護は思う。男の手つきは丹念で丁寧だ。一護をどれだけ大切に想っているかを示すように。背中へと移動する男に一護は顔を俯ける。項を晒すというよりも恥ずかしさから。右手に握り締める手拭いから畳へと水が染みているの横目に覗いてどうしようかと迷う。腹も左腕も、右手で届く範囲は既に男の手で清められている。右手で右腕を拭く訳にもいかない。かといって身動ぎも出来ないから左手へ手拭いを渡すことも出来ない。

 どうして自分はこの男の傍にいるのだろうと、男からの告白を承諾して交接を許した今も時々一護は思う。好いているといえば好いているが、一護が冬獅郎への感情を理解する前に想いを告げられたから、もしかすると引き摺られているだけなのかもしれないと、時々、考える。 冬獅郎の想いは心地好い。隣に居て楽だと感じるし、心も安らぐ。冬獅郎の話を聴くのも好きだし、話さない時間も気詰まりにはならない。
 冬獅郎のことを知りたいと思う。
 もっと、冬獅郎のことを知りたいと。
 今の生活も昔の生活も。子供の頃の思い出や統学院時代の出来事、隊長となるまでの経験、その思想。
 他の誰かと会話をしている時にもふと思考に過る男は、彼もまた己と同じように折々相手を思い出しているのだろうかと、確かめてみたくも思う。
 そうしないのは一護の奥手とプライドのためだろう。弱さを見せることに慣れていない一護は、恋人となった男にさえもまだ全てを晒け出し、委ねることは出来ずにいる。見せる限界を測れない。踏んだ場数は0なのだ。
 相当の覚悟をもって男の告白に応えたつもりの一護だが、生まれつきの性格だけはどうにも難しい。

 手拭いに湿る膚が冷やされる感覚に目を閉じる。程好い倦怠は現世からも連れてきたものだろう。微睡みそうになる意識を繋いで薄目を開く。背骨を辿って肩甲骨の間を、肋骨に付く肉を、引き締まった腰への若い背筋を揉み解すように一護の体温に温められた微温い手拭いが滑っていく。一護が懸念したことまで拭い取っていくように。
 脇腹へ触れられる時には僅かに緊張した腹にも冬獅郎は何も言わなかった。ただ黙々と一護の体を労っていく。上半身を拭き上げられる頃には気だるい疲労を覚える一護が、眠たげな目をして冬獅郎に礼を言ったが、冬獅郎は微笑した顔を緩く振り、一護の正面へと畳を滑った。
「冬獅郎?」
「まだ残ってるだろう?」
 肝心な部分が、と手拭いの面を折り返しながら一護の胡座の先に腰を落ち着けた冬獅郎は一護の膝を掬って、重心のぶれた一護がバランスを崩して背中から倒れ込みそうになったのを後ろ手で支えれば、もう一方の膝も立てることになる。
 口の広い裾から差し入った男の手は、足袋を履く足首から膝裏へと脹ら脛を上り、腕に袴を捲りながら大腿を下りる。右脚を水気を吸えば、対比で左脚が熱っぽく感じる。右手の手拭いは相変わらず、だけど冷え過ぎるようにも覚えて、漸くのろのろと動いた上体が右手を左手へと渡した。受け渡された手拭いを握った左手には畳の跡が型押され、手拭いの冷たさが染みた。
 体を折り曲げた手前何かしなければいけないだろうかと、一護は迷った末、左脚を拭くことにして裾を引き上げた。冬獅郎がそれを見遣ったことには気づかずに、冬獅郎がそうしたように足首から脹ら脛、脛、膝、と手拭いを動かしていく。太股を捲る時にもなんら頓着しなかったのだが、己の動作を見ている冬獅郎に、右膝に置かれたままの熱を不思議に思って顔を上げた一護は見留めた。
「何だよ?」
「いや?」
 含んだもののあるような尻上がりの返答に、一護は眉を寄せることはしたが穿って考えることはしなかった。変な奴だなぁと思いながら、脚の付け根まで手拭いを動かしただけで。恋仲にあっては際どい部位を自ら見せつけるように晒す一護に、いくら彼の鈍さを知っている冬獅郎でも息を潜めざるを得ない。含む意味など十分に、初めの時点で教えているというのに簡単に忘れてしまえる彼の純朴さは愛しくもあるけれど。
 砂埃の残る足袋の留め具を外し抜き取っても制止がないのは、彼の中で何らかの決着がついているということだろうか。ざっくばらんに拭くというのであれば確かにそうだったかもしれないけれども、冬獅郎の手つきは一護とは対称的に、またそれまでより更に丁重に、緩慢だった。
 一護の踵を掬い上げ、己の手に被せた布で甲を、浮く細い骨を彼の親指が擦る。足の裏へ添えられる四本の指も肉を柔く押して微かにこそばゆい気もする。指の付け根をまとめて拭けば、指の間へ布を押し込み、ひとつひとつ丁寧に拭っていく。その所作が余りにも静かで邪魔出来ないものだから、一護も彼に倣えず見とれるように眺めていた。
 右足を拭き終えて左足も同様に足袋を脱がせ、踝から指の又までを入念な様子で清めていく。違ったのは吹き終えた手拭を下ろさず、一護の足も捧げ持ったままで身を屈めたことだった。驚いた一護が肩を跳ね上げても声は伴わず、伸ばす手が届かぬ内に清められたばかりの親指が冬獅郎の唇へと含まれていた。
「冬獅…っ」
 膝を引こうとする素振りを察して冬獅郎の手が強く一護の踝を縛める。逃げようとする一護の足指を、冬獅郎は舌に包み、舌先を指の又へと捩じ込ませ、ぬるりとした唾液を塗りこめていくそれが明確な愛撫であることを一護も理解するから、指を移ろうと唇を離した冬獅郎に、空気に冷やされる足指に
「昼間なのに…」
 と悔しげに詰るのだけど
「昼間だからだよ」
 と薄く嗤う男の意地悪気なのに真摯な表情(かお)に反駁の言葉は飲み込まれた。
「明るい中でお前を見たいんだ」
 それが裸であるなんて、男も大概俗物だと、袴を脱がされながら一護は思うのだ。


「ふぅ…っぅ、んぁ…ア、」
 畳に肘と膝を付き、掲げた腰に男が被さってその手は下穿きも解いた一護の中心を手拭いに覆って扱く。足先から徐々に上って膝頭を甘噛みした男に、脹脛を抱えられた一護はとうに畳へ寝そべっていた。起き上がろうとする抵抗は、浮いた肩や、捩ろうとする腹に見えるけれども、脚を広げて男を挟む羞恥に為す術もないようだった。
 歯牙を掠めて内腿の柔らかい肉を下った冬獅郎は、下穿きの下で膨らむ熱に息を吹きかけながら
『まだ、ここは拭いていなかったな』
と聞こえよがしに呟いて、布の上から柔く揉んだかと思うと布を解き、畳の上へ残してきた手拭を取り上げて一護の一物の上へ被せた。
『ひ…っ、冷、た…』
 冷えた熱に縮む自身へ思わず腰を跳ねさせた一護は、ついで握りこまれる弱い圧迫に息を留め、竿を擦られ、陰嚢の裏まで指を差し込まれる悦感に身を捩って、両腕に表情を隠した。それが四つん這いに脚を開く格好にさせたのだろう。冬獅郎は一護の躰を押し上げるように大腿を返すと、熱の集まるそこを掌に包み押し上げて、潰されるまいと身体の生理で逃げた膝に、一護は獣の姿勢を取ったことを知った。
「ん、んん……ぅ、とう……し、ろぉ」
 拭かれた側から汚れていっても冬獅郎は手拭を落とさない。鈴口から滲む先走りに手拭いの湿り気が増しているのを知覚しない訳もないだろうに、時折会陰まで二本の指で手拭を押しやりながら、その先の窄みには触れず、柔らかな陰嚢へ脅迫的な快美を与える。
「と、し…冬獅郎……っ」
 震える脚は限界に張り詰める其処を教える。達してしまいたいと一護の声は泣いて、冬獅郎は戒めも許しも口にはせずに、ただ一際強く一護の竿を扱いた。
 息を詰めて緊張を背に奔らせた一護に、その腰が蠕動するのに冬獅郎は彼が吐き出した欲を手拭いに受け止めて漸く一護を苛んでいた手を放した。そうして腕に額を押し付けて蹲る一護の双丘を割り開いて、固く噤む窄みを舌先に擽った。途端、離れようと一護が身を引くのを許さず、脚の付け根に掛けた手で引き戻し、尻臀に歯を立てながら一護の吐き出した精を、纏った手ぬぐいで塗り込める。後孔へと移したそれを助けに襞を伸ばし、口へ指先を潜らせる。押し戻そうとする括約筋を割って、男の幼くも硬い指が突き入れられる。探るように潜って、内の柔らかな肉壁を暴く。圧迫を強くする直腸は、けれど一護の滑りにやすやすと男の指を往復させ、二本目の侵入にも一護は呻きながら耐えた。
「一護?緊張しなくていい」
 久しぶりであっても焦ってはいないと教えるように、男の愛戯は優しい。ゆっくりと時間を掛けて一護の緊張を解き、焦りを落ち着かせて受け入れる準備が整って漸く身体を繋ぐ。オーラルセックスで満足することもある。この日は初めから愛するつもりであったのだろう、そうした素振りは見せずに只管一護の欲を高めていく。明るい中でお前を見たいのだと言ったように、一護の乱れる姿を組み敷いた己の腕の下に見たいのだろう。
 一護が四肢の強張りを解こうと一定の調子で呼吸を繰り返そうと腐心する。そうすれば埋め込まれた男の指を意識せずにはいられず、寄せた眉根をさらに搾って、切ないような心地になって腰が秘所を解す冬獅郎を助けるように揺れる。そうであっても少ない滑りに冬獅郎は指を抜き、一護の耳へ待っていろと囁いて部屋の隅にある文机へと立ち上がった。引き出しからひとつの容器を取り出して戻ってくると、上体を起こして胸も返した一護の視線の先で、中に収められた紙を口に含み唾液で溶かす。潤滑剤となる溶けたねり木を掌に取って、再び一護の秘所へと指を伸ばした。
「寝ていろ」
 身体を起こしていては変に緊張するだろうと、一護の胸を押して畳へ倒すと、膝を折らせ、腰の下へと自らの膝を入れる。身体を折り曲げられることよりも、あられもなく秘所を暴かれる光景に赤面して一護が視線を逸らす。畳の目よりも男の姿を視界に納められる今の体勢の方が余程安心ではあったけれど、浅ましい姿を晒すことには慣れない。
 ねり木を足しながら指を埋め込み、浅い呼吸で強張りも解けた一護の所在無く彷徨う視線を呼んで冬獅郎は着物の裾を割り、下穿きから自身を取り出すと一護の秘所へと宛がう。被さる男の首へふらふらと腕を伸ばし、安心させるように笑う男の愛しさに、後孔の緊張を解くための細い息を吐くと共に深く、熱い塊が指よりも太い質量で押し入ってくる。
 反射的に吸った息を止めないよう口を開いて、探りながら侵入する男の熱に、それでも咽が鳴くのは止められない。
「んぁ、ぁ…あぁ…、ぁう、ぅ…ん、ふ…」
 苦しさはある。それよりも肉に染みていく甘美の方が迫るから、冬獅郎の肩を握る一護は更に男を抱き寄せる。小さくとも薄くはない男の肩に縋り、襞を広げ、内壁へ沈んでいく肉棒を招く。
「冬獅郎……ひっ、ぅ」
 意図無く目端に滲んだ涙にしゃくり上げるように一護は、男の楔が己の肉に納まったことを目に訊ね、冬獅郎は答えるように腰を引いた。
「っく、ん…」
 緩慢なリズムで腹の質量が行き来する。固さの残る肉壁を柔らかく解かすまで何度も、何度も。男の竿にも塗り込められた潤滑剤のために痛みは無い。解けただろうかと一護が息を吐いてその瞬間に、男も最奥を穿ち、一護の快楽の源を探ろうと腰を押し付ける。
 鳴く己の声を聞いて昂ぶりを増す。心拍数も体温も一護の聴覚を塞ぐように高まり、一護は己の声を防ぎたいのだと思い出す。高く、切れ切れに、細く、あえかに。掠れて濡れて、男を呼ぶ。掠めるしこりを無視するような心憎さに腰を捩り、脚を巻きつける。自ら欲して脚を開く恋人に男は笑みを浮かべただろうか。狭い肉筒の圧迫に寄せられていた眉間は微かに解かれたようだった。
「とうしろう……とうし、ん、ぁあ…っ」
 違えず押し込まれた前立腺への刺激に大きく仰け反り、男との間に挟まれる肉棒から白濁が撒かれる。勢い散らしただけの肉茎は膨張を保って、身体を引いた冬獅郎に足を高く掲げられる。肩へと膝を担ぎ、背を起こした男に一護の手は届かない。己の帯を解いた冬獅郎が着物を脱ぎ捨て、一護の腕を引いて肩を浮かせるとその下に押し込んだ。自分で出来るかと訊ねた冬獅郎に、一護も苦しい体勢からどうにか背の下に着物を広げた。酷く皺になるだろうが男は気にしないらしい。肌に張り付くような畳が一護の皮膚を赤くすることの方が大事なので。
 再度押し入る雄に、両膝を抱え上げられた一護は掴まるものの無いまま身をくねらせた。背中に押し潰された布が畳を擦る音がした。男の視線に晒され、繋ぐのではなく観察する男に身の置き所を失くす。乱れる姿を隠すことも出来ず、情欲を抑えることは更に敵わず、男に揺すられるまま悶え、啼いた。閉じ合わされる歯牙に増す圧迫が男と共に一護にも快楽を返し、後ろばかりで触れて貰えない竿への刺激を求めて腰を捩る。「冬獅郎」と泪を零しながら呼んでも、呼ぶだけ笑みを深める冬獅郎の溶けた眼に、自ら慰めることも憚られて一護は冬獅郎の望みのままにただ啼いた。二度、三度と絶頂に達しながら互いの渇きが癒えるまで抱き合った。


『紫陽花だ』と冬獅郎が呟いたのは、薄暗くなり始めた空からしとしとと雨が降って来たのを見留めてからだった。事後の余韻に一護の肌を吸っていた冬獅郎が、胸元から顔を上げて外を見遣ったのを追って一護も雨を確かめた。
「降って来たな…」
 行為に疲れた一護の声が気だるげにそう言った後、冬獅郎はぽつりと『紫陽花だ』と独語したのだ。
「なに…?」
 男の言葉の意味が掴めずに聞き返した一護へ顔を戻して、冬獅郎は仄かに笑いかけながら
「紫陽花を植えようと思っていたんだ。名前を思い出せずに居たところへお前が現れてすっかり忘れていたが、今思い出した。
 青い紫陽花を植えようと思っていたんだ、丁度この庭の西側」
 一護が顔を向けた側の庭には時期を過ぎた水仙の葉があった。そこを青い紫陽花で覆おうと男は言う。
「いいけど…、なんだか寂しい色じゃないか?」
 雨を元に連想したからなのだろうが、一護は冬獅郎が一人で紫陽花を眺める姿を想像して寂し気だと思えた。雨に彩られては殆どの景色は寂しげな色になる。そうであっても一人で眺めて欲しくないと思った。それから猫のことを思い出した。白い猫と白銀の髪の男とが雨の庭を眺めている。その背中は寂しそうでも悲しそうでも無かったけれど、一護には其処へ行ってやらなければならない心地にさせた。「寂しくないのか」と訊ねた。一人になるためとはいえ、本当に一人街から離れて、不意に寂寥感が過ぎることはないのかと。
「寂しくはないさ。お前を想うから。寂しければ、そうだな…
 雨を降らそうか」
「雨?」
「雨を降らせて、お前をこの家に閉じ込めておこう」
 今みたいにと唇を寄せる冬獅郎に鼻を擦り合わせて、額へと逃げながら
「んなことされたら学校行けねぇだろ」
 尤もだと笑い声をもらした男に、己の悔し紛れの返答が彼をがっかりさせなかったと知って安堵する。
「お前は紫陽花の中には埋もれないな。とても目立つ。
 映えるだろうよ」
 褪せた色を見るほどに鮮やかなお前の髪を思い出す。お前の髪と似た色の花を見るよりも穏やかに、お前へ想いを巡らすことが出来る。
 一護の髪を梳きながら睦言を繰る冬獅郎に、一護は男の花を選ぶ基準は己なのかと気恥ずかしさに僅か、唇を引いた。

 雨ならばタマもじきに帰って来るだろう。  しどけない格好の主たちを見られないようにと一護は冬獅郎の肩を優しく叩いた。












猫が空気を読みすぎていてサーセン
2009/05/30  耶斗