「シロちゃんのことはね、大好きよ」 少し‥、少しだけ、あの男が可哀想に思えた。 少女は少女の身体のまま、心ばかりが女になった。 穏やかに、柔らかに微笑んで、まるで母のような温もりで俺たち男を包み込んでくれるような。 春の陽射しがとてもよく似合う―――― 「雛森さんは、今も信じているんですか」 橙と山吹と、境の色した髪もつ少年(彼もまた少年のまま男になった)が、肩を過ぎる頃の細い黒髪を耳の下で一つに束ねる少女に問うた。 雛森と呼ばれた少女は、初めそれが自分の名前だと分からないようで暫し眼をうろうろと前方の、何もない緑の野原に漂わせて後 「あなたは、信じてないの?」 ころころと転がるような鈴の音で問い返す。 それがなんだか子供を諭す母親の言葉のようで、少年――一護は気まずささえ覚えながら、それでも返す言葉を探した。 「俺は‥分かりません」 違う。分かっていることだ。あまりに明白で、あまりに惨酷で、だからその刃で彼女の柔肌を傷つけたくなくて 彼女を切り捨てた男が彼女を迎えにくることはないのだと、言えずに卑怯な問答を繰り返す。額を撫でてゆく温い風にも、汗を掻きそうだ‥ 「冬獅郎は、来てますか」 一護は月に何度か雛森を訪ねる。そして看護師に許される限り、彼女を車椅子に乗せ、気分転換の理由で彼女一人が住まう施設から程近い丘へやってくる。 落ちた沈黙に耐え切れなくて引きずり出したのはそんな問いで、一護はそれが差しさわりのないものかどうか言った後で迷った。心臓がざわざわと爪の先で擦られているようで落ち着かず、思考することもままならないまま怯えるような心地で雛森の応えを待った。 「‥シロちゃんはね、分かんない」 ふにゃりと笑って自身を見上げた顔は言葉と相まりまったく幼くて、言葉の意味するところを計りかね、ようやくそれがあの男にとって惨い言葉であると解したときにはもう機会を失っていた。風に吹かれ揺れる草草を眺める横顔を見下ろして、一護もまた何とはなく彼女の視線の先を眺める。先の先までくっきりと稜線を窺える丘が瓦礫の街を隠しているなんてここからじゃあ想像も出来ない。彼女を乗せた車椅子の持ち手へ載せた手が、知らず握り締められていた。 「冬獅郎、たまに来てると思いますけど、雛森さんに顔見せてないんですかね、雛森さんもあいつに会いたくないですか?」 素朴な花束が、時折階段や病室の入り口に落ちていると聞く。あれはあの男のものだろう。結局何度来てみても、渡せずに去るあの男の心だろう。 考えるように首を捻っている雛森は、もしかすると『冬獅郎』が誰であったのかを思い出そうとしているのかもしれない。それがまた一護の心臓を徒に引き絞る。ちりとした痛みは自己満足か。 「シロちゃん‥、は分かんない」 冬獅郎――――っ 堅く眼を瞑り、拳を握り締めた一護は叫びたかった。何のためにかその名を叫びたくて、一護はぐっと衝動を堪えなければならなかった。 男を呼ぼうとしたのだろうか、彼女を弾劾しようとしたのだろうか 冬獅郎‥お前、あんまり哀れだよ‥ そしてどうしようもない大馬鹿野郎だ。 彼女のことが好きなのか、と問うたことがある。恋情を含む意味でのもので。 酒をなめながらの月夜であった。 男は答えた。『否』 『家族の情に近いのかもしれないし。贖罪の念に近いのかもしれない』 特別といえば特別だが、愛だとか恋だとか、暑苦しいものでも綺麗なもんでもなくて、逃げたくて逃げられない観念なのかもしれない。 そういえば、誰かは俺の行為を巡礼と呼んでいたそうだぞ。 冗談めかして笑うから、一護も応えて笑ったのだ。 「まだ、待つんですか」 「うん、待ってる」 「来ますかね」 「来てくださらなくても、私の方から会いに行くからいいの」 「どうやって行かれるんですか」 「もうすぐなの」 「‥‥なにが」 「もうすぐ、私に翅が生えるから」 感じるのよ、背中が疼くの。 もう、それ以上は隣に立っておくことが出来なくて、一護は帰りましょうかと彼女を促した。 応えて頷いた彼女の車椅子を押して、一護は踏み固められて乾いた白い途を療養所へと辿る。きぃきぃと耳障りな軋みが、車椅子を進める度に鳴った。いくつかの起伏を越えた先に彼女の「家」はある。 「冬獅郎のこと、好きですか」 俺たちのこと、好きですかとは訊けないから一護は、きっと最も彼女を引きとめ得るだろう男の名前を借りて舌に乗せる。 「シロちゃん‥‥のことはね、大好きよ」 きっと、『シロちゃん』を明確には憶えていないのだろう彼女の嘘で塗り固めた言葉は苦しくて それを何度も確かめてしまう己の愚かさが哀しくて 一護は結局のところ、日番谷冬獅郎という男のために彼女のもとへ訪れてしまうのだと笑い出したくなるのだ。 あの男の代わりになろうとも、あの男を慰めようとも思っているわけではない。一護自身、理解できない感情のために足が勝手に動くのだ。 恨んでいるのかもしれない‥ それが今のところの、彼女へ抱く感情の名前に思えた。 けれど多分にそれへは、贖罪の念も孕まれているのだ。 巡礼‥俺も、赦しが欲しくて訪ねているのだろうか。 だとしたら同じ穴の狢じゃないかと、自嘲にやはり笑いたくなるのだった。 鈴蘭の花を運んでいる。 意味するところは知らぬ。 何故だか贈るならばその花と、手を伸ばさずにはいられないのだ。 贈ることさえ已めればいいのに、贈ることも、選ぶことも已められぬ。 彼女の愛した男の花 知っていて已めぬ己はとことん性格が歪んでいる。 彼女の中で日番谷冬獅郎は成長を止めた。 現実の日番谷冬獅郎もまた、同調するよう幼い姿のままでいる。 そうして己も、男と出会った頃の姿のまま、何百年も過ごしている。 その意味を、はた知らず。 2006/06/11 耶斗 |