藍染は嘗て浮竹十四郎という男を愛していた。否、情熱でもって慕っていた。愛という概念をその男によって否定されたためである。 いつか、藍染は浮竹の庵で彼と二人の夜問うたことがある。 『狂おしいほど愛している人がいるのですが、僕はその人を手に入れることができるでしょうか。どうやら僕はその人を傷つけたいほど愛しているらしいのです』 『藍染、愛と情熱とは別物だよ』 浮竹十四郎という男は藍染よりは幾許か歳を重ねた死神であった。であったから彼が藍染よりも少しばかり多くのことを知っていても悟っていても不思議ではなかった。緩く、春日の中では温かな、月光の下では寂しげな白面の浮竹の応えに藍染は暫し逡巡した後再び問うた。 『愛は情熱があればこそ生きるのではないのですか』 『藍染、人は苦悩あればこそ執着する。執着は情熱に変わる。情熱はすなわち恋だ。恋は簡単で、愛は難しい。愛は穏やかで、ともすれば退屈なものだ。忍耐と努力を要し、二人共に育てていくものだから。恋は陶酔を与えてくれるけれど、愛はひたすら現実的だ』 浮竹は諭すような言葉の前には必ず前にした人間の名前を置いた。それがまるで子供の馬鹿げた話をいかにも辛抱強く聞いているような印象で、藍染はそれが腹立たしくも、また可笑しくもあった。 『先ほどの、答えになっていませんね浮竹さん』 思い出したように苦笑した藍染へ、うん、そうだなと浮竹は目を臥せて笑った。藍染は、それが自分を映さない為のように思えて少しばかり面白くなかったから、少しばかり意地悪をしてやろうと思った。 『貴方は愛を失ってしまったんですか?』 意外だと浮竹が藍染を映した。瞬いた眼はあどけなくさえあって、藍染は先の意地悪も忘れそうになる。 『何故?』 『そんな顔をなさっているから』 『薄倖そうか?』 はは、と誤魔化したかったろう浮竹は乾いた笑声を溢し、藍染はしたりと云うように悪辣な笑みを口端に刻む。 『愛を失くすことが不幸だとは思いません』 おや、と浮竹の眼が二度瞬いた。月影に透く翡翠が美しくて、藍染はうっとりと満足するように微か首を傾けた。それを浮竹が正しく理解することはないだろうけれど。 『先ほど貴方が仰いました。苦悩こそ情熱を生む。貴方は失くしたからこそ愛を求めて、その為に満たされている』 『そうだろうか』B 『だって貴方はそれだけを見つめていればいいのですから』 それが非難を含んだものと浮竹は察した。視線を絡めていることが耐えられなくて目を逸らす。藍染が浮竹の失くした”愛”の正体を知っている筈がなかった。浮竹さえ、己が失くしたという”愛”を知らないのだから。浮竹は藍染が気付かぬよう溜息を吐いた。それは明確な失望だった。 失望を重ねて浮竹は飽いていく。やがて雨乾堂を囲む湖のように失望が己を満たしたならば、其処で溺れて死んでしまえるだろうかと期待する。その時、浮竹は自分の望んでいるものが何かを理解したような気がして、その答えを藍染が持っていでもいるように藍染の眼を探した。 『どうかなさいましたか?』 『‥いや』 持っているはずがないじゃないか。 『君の質問に答えてなかったことを思い出してね』 『あぁ、そうですね』 『忘れていたのかい?』 『すっかり』 馬鹿だな。浮竹は失笑し、懐に手を仕舞って居住まいを正した。藍染が面白そうに見ている。 『思考する時の癖ですね』 『もう少しまともな答えが返せるようにね』 先ほどはどうかしていたんだよと、笑う浮竹に 月に酔っていらしたのでしょうと、揶揄かうように藍染は笑った。 その夜に藍染は考えを改めた。情熱は愛でなく、情熱で彼を所有することは出来ないと悟ったためである。愛が穏やかで詰まらないものだと知ってしまったら、退屈を何より厭う己がそれに甘んじることなど出来るはずがないからである。 いずれ跪いても得られぬものなら貴方の上に立つことでもぎ取ろう。 何より惨酷で、何より非情で、何より彼の非難と誹謗と憎悪と苦悩を受けられる、すなわち彼の執着、情熱を獲得する最大の方法を。 安寧など要らないのだ。陶酔にこそ浸りたいのだ。 夢のような貴方との時間を。 藍染はもはや浮竹十四郎という男を愛してはいない。情熱でもって慕ってもいない。 ただ、獲得したい。 狩するように彼の秘密と神秘を暴き、彼の眼を自分にのみ向けさせる。 全て暴露させた後は、髪の一筋、爪の一片まで残さず喰らってやろう。 この想いは、愛じゃあなくてよいのだ。 2006/07/30 耶斗 |