「隊長、あたし、裏切りたいです」 「”裏切る”とは?」 「”裏切る”です。貴方も、護廷も、世界も」 日番谷冬獅郎は呆れ眼を書類の影から覗かせた。視線の合わぬよう直ぐに逸らした乱菊は白い面の横顔までも男の視線から隠そうとするように僅か顎を引き甘い蜜色の髪を呼び、長椅子の上で膝を腕の中へ抱きこんだ。 男はじっと髪に隠れた乱菊の横顔を観察した。腕に伏せ、背を丸める補佐を見つめたが、やがて思惟回らせた眼を一度閉じると諦めたような息を溢した。閉じられたままの口は静謐にそれを隠した。 「この隊が厭になったか」 問いなのか確認なのか、男の語尾は微妙な変化でそれを判じさせなかった。どちらにせよ乱菊は男が本気でそう考えていないことは分かっていたし、「違う」と返したかった。それは首を振るしか出来なかったためで。言葉が詰まった理由は乱菊にも探せなかった。 男はなんらの感慨も窺わせない。何を考えているのか、何を見ているのか。一見分かりやすくさえある彼の姿勢はその実、実に巧く本性を匿している。否、本性と云おうか彼は、言うべき言葉と言うべからざる言葉を明確な線で分け、そうして言うべからざる言葉とそれに纏わる思考と証拠とを完全に隠蔽する。彼自身、忘れてしまったかのように。それを乱菊は時に嫌悪し、時に羨望する。 「男だったら連れて行ってくれましたかね」 「男だったらお前は追いて行ったのか」 言葉足らずの切れ端を男は正確に読み解いて応えを返す。「馬鹿な問答は已めだ」と言って男は筆をとった。 貴方はいい。あの子がいる。男と男の堅い絆はけして貴方方を裏切りはしないでしょう。 「追ってってよかったですか」 「気を遣っていたのか?」 男の声は驚いたといっている風だったので、乱菊は嫌味な人だと愉快に口端が持ち上がった。 「男だったら、どんな手段を取ってでもあいつを追い掛けたと思いますか」 知らん、と男は言ってよかった。そう一言放り投げて今度こそこの不出来な会話を終わらせてよかった。 だけれど男は中途半端に優しく、そして誠実で。だからしばし考え込んだようだった。 「男も女も関係ないなんて言葉を、お前は望んでいないのだろうな」 乱菊の口端が吊り上がる。あぁなんて聡明さ。望む言葉などありはしない。示す言葉も仄めかす言葉も要りはしない。ただ、理解に最も近い予測を拾い上げてくれたなら、それでいい。 男なら、連れて行ったか。己の力を、認めてくれたか。女だからと、侮りはしなかったか。女だからと、憐れを思わなかったか。女だからと護ってやろうなんて、そんな下世話な慈悲を抱きはしなかったか。 「なんで置いていったんでしょう」 「さぁな」 思い出す。嘘みたいに鮮やかだった青の天(そら)に浮かんだ狐の頭。 男に生まれていたならば 女の肉の哀しみを 抱きしめ癒す自慰の痛みを 知らずにいられただろうかと夢想するのだ 「男って好いものですか」 「お前が好いものと考える限りな」 上司は今度こそ会話を終了させた。 女の気紛れと赦してくれていればいいと乱菊は思った。 2006/05/15 耶斗 → |