「裏切りたいんだと」 冬獅郎がまるで朝の挨拶でもするような気軽さで、そう一護に言った。 「何?」 穏やかならざる台詞だってそんな調子で言われてしまえばとんと現実味など皆無に等しく。一護は啜っていた茶を座卓へ戻しながら冬獅郎へ顔を向けた。 「裏切りたいんだと。松本が」 「‥‥裏切るって、瀞霊廷を?」 手元の書類へ目を通しつつ、冬獅郎の声は淡々としたものだ。一護はやっぱり正確な意味を掴めなくて首を傾げて再度問うた。 「乱菊さんが何で裏切るんだ?」 そうすれば彼女の理由を問うことが何か愚かしいこととでも云うように、ちらと視線を上げた冬獅郎は、その翡翠の眼で上目に一護を見るとまた直ぐに視線を落とし 「市丸の野郎を追いかけるんじゃないのか?」 その口調が自身の言葉を露も信じていないのが明らかで、一護はなんだ知らないのかと片眉を上げて肩を竦めると熱い茶の入った湯飲みへ再び息を吹きかけ始めた。 暫し先程までの茶を冷ます吐息と紙の擦れる音が戻ったが、どうやら消化不良を起こしたらしい一護が気に掛けた思念を顕わに冬獅郎の額へ視線をやった。すべらかな白磁の皮膚は斜めに差しいる午後の陽に半ばまで照らされている。 「止めるか、とか、聞きたかったか‥?」 一護は冬獅郎の少ない言葉が自分とそう変わらないことを知ってはいるが、それでも自分より判じ難い鉄仮面じゃないだろうかと思っている。六番隊隊長の朽木白哉も寡黙だが彼は能面に近く、思惟が読めぬのは同じであっても四六時中眉間に翳を刻んでいる十番隊隊長殿よりは悪戯に人を怯ませないと思う。 十番隊の隊長殿は一護の問いを意外に思っている風もなく、またさらりと受け答えた。書類整理の片手間にも見える。 「さぁな。だが仮に俺がそう質したなら、お前はどう答えた?」 冬獅郎は一護と二人でいる時には眉間の力も緩めるのだと、一護は最近になって気付いた。睨むというより眇める目が書面に落ちて和らがない様には視力が低いのかと思いもしたが、どうやらそうではないようだと、だから一護はその問いを口にしたことはなかった。存外早い段階で彼等は近しい関係となったのだ。領域(テリトリー)への侵入を許した者同士、相手の意図が読めるのもしばしばである。 冬獅郎はまた紙を一枚捲った。座卓の上のみならず、彼の傍らの畳の上にまで積み上げられている大量の書類を彼は事も無げに片付けていくそのスピードに一護は毎度のことながら目を奪われる。冬獅郎の右手、一護の正面にある縁の障子は開かれて緩やかな春の暖気が時折匂いを運んでいた。 「止めさせたいか?」 「お前に訊いてる」 「俺は‥、俺は」 止める理由がなくて、だけれどそれを口にのせることは躊躇われる。冬獅郎は己(おれ)に何と答えさせたいのだろう?望む答を持っているのかどうかも定かでない男に表情を探っても無駄だとは分かるけれど 「止めれはしねぇ‥と、思う」 土台、己が踏み込んでいい領域ではないだろう。かといって冬獅郎と乱菊二人の問題というのでもない。乱菊一人の問題かと云えばそうでもない。 目的を持って去る人間の足を、止めさせるに足るだけの理由も道義も己は持っていない。意味も、見出せない。 行くというのなら俺は、ただ見送るだけだろう。 「お前は?冬獅郎、お前だったら止めるのか?」 「さぁ。止めねぇだろうな」 云うだろう応えを予測しないでもなかったが、あんまりあっさりしたものだったので一護は、冬獅郎が自分と同じようにこの仮定を現実的なものとして捕らえていないのだろうと思った。だって、馬鹿らしい問答じゃないか。だけれど漸く温く冷めた茶へ口をつければ耳に届いた男の言葉に尖らせた唇を元に戻して吃驚したように目蓋を持ち上げた。 「行けば、斬るだけだしな」 「斬る‥?」 問い返した一護に己こそ驚いたような目をして、冬獅郎は紙面から目を放した。 「斬るだろう。敵になるんだから」 「あ‥あぁ、そう、だよな‥」 「何だ?何か不思議か?」 いや、と一護は前置いて。無垢なようにも見える翡翠の眼から目を逸らして言った。視線を絡めたまま、透度の高い眼を見たまま応えられそうにはなかった。 「お前等って、時々、変だよな」 「‥‥」 お前等、とは死神を指すのだろう。直ぐには感想も返さなかった冬獅郎は暫らく一護の横顔を観察するように見つめていて、やっぱり淡白で層の薄い声で云ったのだ。 「そうか。そうだな‥」 そうして二度中断した雑務へ再び戻っていった。温い茶を啜る一護はだから考えだにしない。見もしなかった冬獅郎の表情が何を孕みそう応えたのか、想像だってしなかった。薄く笑ってそうかと目元を和らげた、珍しい微笑を浮かべた男が「その内お前もこうなるんだ」と言葉を飲み込んだことも推して知ることはなかった。 2006/05/15 耶斗 → |