悲歌慷慨






 狂っていく彼女を見ていられないと、けれど顔を背けずその背を見つめる冬獅郎はいつか現世で見たサナトリウムの結核病患者を思い出した。
 頬のこけ、蒼白い肌の死待ち人。海浜に近いそこでは鳴り止まぬ潮騒が涼やかでもあり、迎いの足音のようでもあった。
 だけれど彼は今や身を置くこの世界に静寂を誤魔化す海もなければ迎えなどという救いのないことも知っている。白々と、日光に侵される窓の前で空を見上げる陰に塗りつぶされて輪郭も淡い小さな背中は弱く。寝台から降りればその両脚は目を背けたくなるほど痩せ細っているだろう。
 今にも振り返って己へ顔を見せてはくれないかとも戸口に立つ冬獅郎は思いながら、こけた頬を見たくない。時々、目を爛々と輝かせながら夢想を語る黒曜の瞳は哀れと悲憤を交互に呼び起こした。
 白の鈴蘭が寝台の枕元に飾られていた。瑞々しく光を照り返す背を丸めた花弁と、花瓶の足に溜まっている水滴とがつい先程見舞い客のあったことを教えた。冬獅郎は何故だかそれが自分の親友の置いていったもののように思った。次第次第に足の遠のいていった冬獅郎が、それでも訪ねることをやめられないのを知っているかのようにそれは何時でも冬獅郎より一足早くこの病室に飾られ、もの言わず項垂れている。

――――わたし、蝶にはなりたくないわ。蛾(ひむし)になって飛びたいの

 知らず項垂れる白い花を注視していた冬獅郎は鈴の転がるような歌声に意識を呼ばれ、探した。

――――わたし、蝶になんてなりたくないわ。陽光なんて眩しくて、私を追い立てるばかりだもの

 少女の名を、呼ぼうとして‥已めた。寝台の下で影が躍り、彼女が節にあわせて足をぶらつかせているのを知らせる。心持ち上体を逸らし後ろへ手を突いた彼女の、肩をそびやかした背が楽しそうで。そこに一片も己の入る隙のないことに俯きたいほどの寂しさを覚えた。
 いつからかその名は呼ぶことを憚ってならなくなっていた。いずれ唯一所有しうる彼女の欠片まで失くしてしまうだろうことを冬獅郎は予知している。こちら側に繋ぎとめることなど、彼女が心をあの男へ飛ばしたころから不可能なのだ。彼女の真の幸福は彼女の姿を見る限り明らかなのに、彼は自分がそうすることも、そうさせるよう上へ取り計らうことも出来ないでいる。どだい、あの男は彼女を迎えに来ない。来たことなどない。それに安堵しながら憤慨する。あの男の下へ行って彼女は幸せになれるだろうかとそう疑って、結局その疑念は言分けに過ぎないのだと頭(かぶり)を振る。望むままに‥彼女を往かせてやることこそ憐憫だったと知りながら、様々の言分けが現状への途を許した。全ての機会が過ぎ去っていた。

 心ばかりの見舞いの花を手に冬獅郎は今度もまた活けれず帰るのだろうかと情けなさも交えてぼんやり思う。だから鈴蘭の贈り主はいるのだろうか。ささやかな来訪の証も残せず去る己のために、鈴蘭の贈り主はいるのだろうか。彼女へではなく、己のために慰めを与えようと‥
 馬鹿らしい、と冬獅郎は自嘲する。けれど確かに慰めを必要としているのは己の方だ。既に夢へと飛び立った彼女は幸福の中にいる。自分達がこちらの世界へ引き戻さない限り。

 誰かがこの行為を愛と呼んだ。
 揶揄ったのかもしれなかったが、誰かはこの行為を巡礼と呼んだ。
 愛への巡礼。
 皮肉ったのだろうか。
 たとえどうであれ己(おれ)は、この少女の下へ運ぶ足を止められないでいる。義務という言分けさえもたない己(おれ)は、やはり彼女へ巡礼しているのだろう。何を赦して欲しいのか、分かりはしないまま。

 冬獅郎は踵を返す。空気がそれを哀れむように肌へ纏わりつき、身体は倦怠へ漬かっていた。
 閑散とした廊下は突き当たりの窓からのみの明りでどうにも寂しく。廊下を挟んで並ぶ12の病室のどこからも物音一つ、息遣いひとつ聞こえずに、彼女の歌声だけが彼の背中を送り出す。廊下の端から端へ、彼女のもとから左手に開く階段の踊り場へ歩き付いた冬獅郎は一度声の零れる病室のドアを振り返り、そして無力を噛み締めるように目を閉じ、階段の影へ消えた。
 持つことに耐え切れなくなった鈴蘭の、紐で括っただけの小さな花束だけその場に落として。








2006/06/10  耶斗