「お前はもしかして」
 言いかけた言葉を、云い終わらせぬ内に浮竹と対座した男は否定した。
 そりゃそうか。


 その男の影が障子に現れたとき、浮竹は刀へ手を伸ばすことも出来なかった。まさか、である。しかし直ぐに障子が滑り、現れた顔に浮竹は得心した。これは影だ。
 物に投影された思念。男の飛ばした、恐らくは無意識の、霊圧の残滓。
 時折そうやって遊んでいたのだ、嘗ての己らは。親友であると自負も公言もする春水さえ知らぬこと。浮竹と、障子を開けて現れた、いつかのように前髪を下ろし眼鏡をかけた男はそうやって暇を潰したものだった。
「入れよ。と云っても、自分で障子を開けたんだから尋くまでもないか」
 その通り、影は勝手知ったる部屋へなんの衒いもなく腰を下ろした。一言も発さない唇は淡い微笑みを湛えて、膝を折って正座するときには伏せられた眼が上げられればそれは穏やかな色に浸っていた。浮竹は呆れたような心持ちになって、浮き上がる顎を押さえる気も起きず、そのまま首を傾げた。浮竹の眉根は困憊したように寄せられて、口も何をか云わんとへの字になった。処遇に迷って眇めた眼はまるで睥睨するように見えただろう。それでも影は微笑んでいる。物も云わぬし微動だにしないから、新手が現れても人形だと云えば納得させられそうな。それほどに影は物としての在り様を体得し過ぎていた。
「声、は届いたりするのかな」
 だって君(本体)は虚圏だから。
 世界を別たっても伝心は叶うのか。
 答を持たないのは浮竹も彼も同じようで、影はただ黙して座している。顎を引けばかくりと落ちた頭のまま、上目遣いに彼を見てもやはり真直ぐに見詰めてくるだけで。その視線は押しも引きもしないから、これはやっぱり唯の物なのだろうかと浮竹は思案した。何を切っ掛けに懐かしい友の形をとり、かつ動き出したか知らないが、自分ばかりが喋るようではなんだかキチガイ染みているしなにより報われない。ふむ、と顎に指を当てて、浮竹はこれを片付けることに決めた。十二番隊にでも持っていけば嬉々として解体してくれるだろう。解剖、解体、分解、検分、そして廃棄が趣味のような彼らだから。
「どっこいせ」
 と年寄りさながらに腰を上げて、さてどうやって運ぼうかとまずはどう立ち上がらせるか考えながら男の下まで歩いていく。付いてくるかと思われた視線は浮竹の座っていた文机の前へ固定されていた。文机は床の間の前、障子と向き合って置かれている。簡単な書き物をしていた筆は墨を吸って濡れ、硯の横に置かれた。小筆である。浮竹の細く長い指の、しかし大きい手はそれを器用に操った。また、浮竹の書風は彼の大らかな性格よりも、時折見せる繊細さを顕して、春水などは女の手のようだねと表する。実に、君らしいと、他の者なら云わないだろう親しい故の評価をくれる。ふ、と浮竹の居住である湖上の庵を訪れ、そうして開け放された障子の影から不意に彼の書き物をする姿を見る者は例外なく声を掛けることを躊躇う。否、思考することも忘れ、見入る。凛と伸ばした背と、優しい眼差しと、白く繊細な指の流れに目を奪われて、幾度かゆっくりとした瞬きの後我に返るのだ。
 男の左膝の横に立てば、優男の風貌からは予想しないがっしりとした肩が見下ろされる。そうして漸く、一体何を契機になのか、はたまた初動が遅いのか、友の形をした影は顔を上げた。変わらない微笑。震えもしない口角に畏怖を覚えるのはまだ先だ。
「さて、立ってもらわなきゃならないんだが‥」
 腕を取れば従ってくれるだろうか。皺の無い真白の羽織に隠された腕へ、しかし手を伸ばせない。
(なんだかなぁ‥)
 やり難い。
 そうだ、自分達は肌の接触を持たなかった。それは常に微笑みを湛える男がその笑みでもって一定の寸尺を保っていたからだが、浮竹が気詰まりに思うことはなかった。男と接する時、その距離は当たり前のものになっていたからだ。寄らず離れず、男は他人との距離を守るのが上手いものだと折々感心したものだ。今となっては心遣いか警戒か判らないけれど。
 影の脇へ手を差し込もうとした時、不意にそれは口を開いた。身を屈めた浮竹の目前で動いた厚い唇は紅色して、浮竹は突然のことに驚いた。そうして、影の言葉を直ぐには飲み込めなかった。
「移動しませんか」
 瞬きを繰り返すばかりの浮竹を暫し眺めてから、それは再び唇を動かした。吐いた息の余韻が届いて、浮竹はまた瞬いた。
「縁側に、移動しませんか。貴方は少し陽に当たった方がいい」
 その顔が与える印象は些かも変わらなかったが、細めまった目は一層優しげに見えた。
 毒気を、抜かれたのだろう。口をきくとは思っていなかった。浮竹は影の肘の裏から差し込んでいた手を抜いて、身体を起こした。影も立ち上がり、丁度3歩で廊下に出ると、まるで無防備に腰を下ろした。撫肩がその背中を柔和に見せる。影の姿は陽だまりによく似合っていた。
 戸惑っている浮竹を影は声を掛けずに待っている。浮竹の存在を忘れたような背中は、浮竹が隣に座ることを些かも疑っていないようだった。浮竹は一度迷いを立つように唇を噛むと、容易された己の席へ身体を収めた。と、影が浮竹へ振り向きにこりと笑う。喜んでいるような笑みに浮竹はまたわからなくなる。果たしてこれは本当に残り滓なのか。違える世界に在る男が直接糸を操っているのではないか。浮竹に判断するだけの材料は渡されていない。
「いい天気ですねぇ」
「‥そうだな」
 影は眩しそうに目を眇めて空を見上げた。浮竹は影の視線を追わず、影の横顔を見詰めている。縫いとめられたように視線を離せない。判らなくなる。
「また、痩せたんじゃありませんか?」
「そうかな‥」
「きちんと3食食べてらっしゃいますか?貴方は唯でさえ食が細いから」
「食べているよ‥大丈夫」
「そうだ。ここへ来る途中スズナが咲いていましたよ。もうすっかり春ですねぇ」
「そうだな‥温かく、なったものな」
 何故だろう。泣きたくなった。
「浮竹さん?」
 影が不思議そうにこちらを見て、浮竹は慌てて顔を逸らしながら俯けた。俯いた拍子に流れ落ちた己の髪に顔を隠して、素早く目元を拭う。
「光が、目に染みて‥」
 影が緩く噴出すように笑った気配がした。きっと目元は皺を刻んでいるだろう。楽しそうに笑っているのだろう。
「本当だぞ。光が目に染みたんだ。今日、初めて外に出たから」
 はい、と影は微笑して視線を湖と林との境に転じた。
 迷う。惑う。
「藍染‥」
「はい」
 迷う
「惣右介‥?」
「はい」
 惑う
「お前は‥」
「はい」
―――藍染惣右介なのか?
―――はい
 分からなかった。



 暫らくそうして変わらない景色を眺めていた。
 こんな風に誰かと並んでただ呆としていることなんて随分久しぶりのようで。傍らの存在を忘れるくらい安心していた。溶け入る様な、交わるような。けして同一には為り得ないなに、重なり合う錯覚。同じ存在のようだと、何故思うのだろう。
「お前は‥」
「違いますよ」
 ぽつりと口を開いた浮竹の、継ぐ言葉を聞かずに”それ”は否定した。
 驚いた浮竹が、それでも蕩けた神経に緩慢な動きで影へ振り向けば
「違いますよ」
 ややばかり、陽に火照ったような、柔らかさを増した顔で微笑んでいて。
 そりゃそうか。
 納得したのだった。

 お前は、お前が虚圏へ行ったのは
 お前が、王鍵を求めるのは

 こういった目的なのかとの浮竹の問いを
 藍染は否としたのだ。






 そりゃそうか。







2007/03/13  耶斗