夢を忘れた魚の声では貴方に届きませんか





水の中を漂うように彼を見ていた。

陽の光には融けるように淡く、月の影には凍えるように冴える。彼の髪は研いだ鋼の糸のよう。触れれば肉を切り、骨まで断つだろう。だのに風に弄られる様は柔らかく。
できることなら日の下でのみ見ていたかった。

世界が崩壊を始めたのはいつからだったろう。
初めは悲しく見つめていたが、やがて惰性にも似て慣れてしまった。抗うつもりなど初めからなかったのかもしれない。世界は白い沈黙に覆われていく。

溶けるように抱き合った記憶が虚妄のものか、肉に覚えた真実のものか定かでない。嗅いだ汗の匂いも張り付く肌の滑らかさも、互いを食らおうとするかのような荒々しい息遣いも、鮮明に思い描くこと叶うのに。それこそ肌理の細やかさ、皺の深さまでこの指の先に思い出せるのに。それを真と信ずるだけの頼りが己にはないのだ。空気さへも異質に覚えるこの膚では、いつか己の体が現実に存在するものとして信じることもできなくなった。まるでぽっかり浮き出てしまったかのような虚無を覚える。人々の眼に己は映っているだろうか。

せめて、咲いて枯れ落つる華であったなら、死に花咲かせて魅せたるものを。
水を漂い肉が殺げても尾を打ち泳ぐ、哀れな魚の鱗なりとお前は拾ってくれるだろうか。




 分裂は緩やかに進んでいった。

 おそらく彼の世界は幸福だろうと男は思う。現の世を見ず、夢に耽る彼はこの世のあらゆる苦楽を受け付けない。知らぬものには虚構でしかない彼の真実は、彼を幸福足らしめているだろう。なんとも残酷なことに。
 この世の真実さえなければ己はお前と死んでいただろう。
 だが、彼の首筋に刃を当てることすら出来なかったのは、ひたすら惜しむ心のためだった。愛しむ慕情のためだった。泪を湛うる程に、過去に見えるお前の笑顔切なさを思い出すのに、己は己のために、己を犠牲にすることが出来なかった。それはすなわちお前への裏切りだったのだと、彼の虚ろなる眼を覗いて男は後悔に胸を?き毟られるのだ。

 貴方は何千年生きるのだろうと部下に言われたことがある。揶揄いかと振り返っても予想した眼はそこになく。儚く眺むるような静かな瞳が彼方にあった。
「何をほざいている?」
「酷いですね」
 目を細めて彼女は、艶やかな紅引いた唇を撓ませて見せたが、前歯を覗かせた笑みは自嘲めかせて醜悪だった。
「詰らん顔をしている」
 吐き捨てるように云って己は(真実胸糞は悪かった)翻した半身を返そうとしたけれど
「美人には定評があるんですよ」
 と嘯いた彼女の俯いて歪んだ笑顔にそれを止めた。
 止めたからといって投げる言葉がある訳もなく、顔を上げようとしない部下に飽いた風して体を返した。わずか一寸の時だったかもしれない。長いようでいてそれは、あっけないほどの寸刻だっただろうか。好まない空気を肺腑からさっさと吐き出したくて、己の足は知らず急いていた。




 彼の住まいを移したのは己だ。
 いいや、彼を囲ったのだと表すのが正しいだろう。しかし本当には彼は移動してはいないのだ。彼の箱庭に閉じ籠もった彼を、己の箱庭に移しただけのことなのだ。
 荘厳な扉はその実薄弱だ。門番も居らずば鍵もない。両手で押し開けるのになんの苦も介さない。己の名ばかりが薫きしめた香のように不埒な輩を牽制するのみだ。
 身の丈よりもずっと高い観音開きの戸を押し開いて、銀糸の死神は箱庭を発く。白砂の流れるように空気が入れ替わる。温度の違うそれらが混じっても、彼と男の世界は混じらない。拒絶よりも柔らかく、彼は男を映さない。

「よォ、隊長サマか」
「‥珍しい。お前が出てるのか、ナナシ」

 一瞬、意想外のことに足を止めて男は云った。それを聞いて顔だけ振り返ったそれはさも可笑しそうに蛇の眸で嗤った。彼の形をとった影が嘲笑った。

「俺ぁまだ”ナナシ”なのかよ?そろそろ名前をくれたっていいんじゃあないか?」

 引き攣るような高い声は嘲笑を含めて不快であり、それが単なる影であることを知らしめて安堵でもある。もしこの影が彼を模倣しようと声真似を始めたなら、貌容や纏う彩まで同じでは瞬刻なりと惑うかもしれない。そんな戯れを今まで影が為さなかったのは影なりの自尊心だったかもしれない。男にとっては幸いなことに、たかが影が愛しの人を真似るという侮辱を味わわずに済んでいる。

「影ごとき。虚(うつろ)ごときに名をつけてやるほど酔狂じゃあねぇよ」

 足を進めて男は影の胡坐を掻く3歩後ろに立ち止まり、見下ろした。影は見上げることを慣れたように、首を傾げてさえみせて腕を組み、尾?骨が床につくほど重心を傾けた。押し上げる頬肉に撓む目元は彼の貌であっても別の個体だ。彼とは違う顔を見続けて、憶えた筈の彼の貌はますます精彩を放っていく。思い出は至極身勝手だ。

「影を閉じ込めるのは酔狂かい?」
「影が隙間も脱けられぬのは無様だな」
「そりゃあアンタの結界の所為だ」

 呵呵と哂って影は仰け反った。男との言葉遊びを楽しむように。影の言葉が男の平静を乱すことがないように、男の言葉も影の興を逆撫ですることはないと見せつくように。
 笑い終わって影はまた、口角を吊り上げて男へ指差した。男の表情を具に観察し、微動だにでもすれば嗤ってやろうと意地悪く。

「アイツを抱く夢を見たかい?」
「コイツの躯を貪る夢を見たかよ?」

 重ねて影は言ったが男の反応はほぼ無だった。否、眼に認める反応は皆無だった。しかし影は己の言葉の効果を知っている。男は平静を乱しはしないが、理解できない言葉は考える。影にとっては馬鹿馬鹿しいまでに面倒臭い生真面目さを男は備えているからだ。言葉を振りながら待たされる間の、胃のものを戻したいほどの厭悪に抱えなければならないとしても、影が鬱屈を吐き出すにはそれを刺激する他ないのだ。抱えても耐えることを厭うから、影の言葉は重ねられるのだ。

「コイツと肌を重ねた記憶を信じるか?コイツの腕を項に回させ、コイツの膝を屈し抱え上げ、コイツの腹を発いたかよ?」

 段々と高まっていく笑声はガラスを引?く音に似て、空気を激しく振動させる以外の用を成さない。男には。
 口を閉じ、眼も閉じて聞く男は、影の哄笑が最高潮に達した後水を打ったように落ちるのを知っている。何度も何度も繰り返して、諳んじるほど繰り返して、尚飽きることのない影の悦ぶ蔑みを。

「だがそんなのぁ幻覚だ!」
「アイツの夢の伝播だ。アイツの夢を拾っただけだ。それもテメェが望んだために!」

 裏返った哄笑が爆発する。滑稽だと笑う影こそ滑稽だと男は瞑目したまま嘆息を隠す。煮える腹を凍てつかせるにはまだ反復が足らない。

「知っているか?ナナシ」

 穏やかゆえに影の狂笑を裂いた声音に笑うのを止め、影は男を見遣った。興を殺がれた目をして、悪態を吐くように口を開いて。

「アイツは花になりたかったんだ
 凡ての魂が初めの命、植物に戻りたかったんだ」

 理解できないというよりも理解を拒んで、白けた眼を影は向ける。脅嚇しようと曲げた首は、口を半開きにした表情のために白痴にも見せる。それは合図でもあったろう。再び影が影となり沈む予兆であった。

「統べる国を失くした王は王じゃねぇ」

 辛うじて呂律を繋ぐ酔漢のように影は喋った。

「騎馬から落ちた王は頭蓋を踏み砕かれなきゃならねぇ」

 瞳に差した狂気であれ正気に見せていた光が陰っていく。穴を穿ったように虚を広げて、焦点を暈して視線も泳ぐ。残り二言、三言かと男は計る。

「なのにアイツは消えちまいやがった。馬上に居たまま消えちまいやがった。アイツの世界は真白だ。俺の征服すべき世界を根こそぎ奪って、アイツはとんずらしやがった。俺の世界は真白だ。この部屋も‥」

 がくりと頭を仰け反って、影を容れた体は大きく振れながら横様に倒れた。組んだ脚も解け、弛緩する筋肉に任せて胴体へ付属する。見下して男は言った。沈んだ影へ向かって独語した。

「そしてお前は言うんだろう。アイツを讃えて見下して、思っていたより器用な奴だったと」
「だが俺はアイツよりも器用なんだ。それを証明するためにも、俺はその身体を手放さねぇんだよ」
「てめぇごときを納めてまでな」

 淡々と言い終えて男は、男へ斜めに背を向けて横臥する身体に背を向けた。加減を診る用は済んだ。次は三刻後だと。











2008/01/26  耶斗