初めに出会った時、彼はまだ唯の流民だった。漂流者だった。西流魂街最も治安の良い第一地区潤林安に祖母と二人で暮らしていた。

 統学院にも入れば様々な毛色の人種を見る。特に銀色は見慣れている。ずっと、小さい頃から見続けた色だったから。だけどその子の髪は幼馴染のそれよりもっと冴えた銀色だった。死神となってから見た十三番隊隊長の髪の色に近いかもしれない。極限まで色素を排した白銀は白金と表すべきだったろうか。十三番隊隊長の髪は新雪のそれのようだが、あの子供の髪は氷を研いで造った剣のようだった。氷雪系の力を顕現させるのだ、あながち的外れの表現でもないだろう。あるいは、氷の焔で錬成した鋼だろうか。

 彼の髪色は彼の住まう狭い邦では畏怖の対象となっているようだった。子供のみならず大人までもその子の手を取ることさえ厭う様は非常に偏狭な文化といわざるを得ないが。眉を顰めるに留まらず口も出たのは長年で培われた出しゃばりの気質だろう。勝気なのは性格ではなかったけれど、やがてそれすらも身に馴染んでいたのだろう。人は外見に添う性格を求められる。役割を。私はそう割り振られた。そう思っている。哀しく思うことも寂しく思うことも悔しく思うこともない。時折ふらりと出て行っては足跡だけを残すあいつの背中を想うことだけが、私の孤独だった。

 着物に納まらない豊満な胸で突き飛ばして(頭を)しまったのは事故だ。前ばかり見ていると重いばかりで距離感など薄れてしまう。感度まで下がるのはいただけないがそれは気分にもよる。地面に突っ伏しているから泣いているのかと襟首を引っ掴んで引き摺り起こしてみれば、眦にうっすらと滲むものはあれども諦念に馴れた双眼が強く見詰め返した。憤慨に嵩じてはいるらしいが冷めた目だ。静かに睥睨する眼差しだ。鮮やかな翠色が深い思慮さえ覗かせるから、彼をより大人びて見せる。否、大人染みて見せるのだ。そうして姿形と相まって、彼の異色を引き立てる。
 


 力の片鱗は眼に覗く。翠の眼の中央、さらに深く沈む暗色の緑にゆらりと揺れる火が視えた時、共振のような震えが私の心臓を僅かばかり硬直させた。氷だ―――。
 意識が覚めている今には抑えられているが、自覚して行っているようではなさそうだ。器用なのだろう。そして、敏感なのだろう。己への処遇のためにそうならざるを得なかったのか、先天的にそのような性格だったのか知る由は無いが、瞳に紛れた諦念が去ってしまえば悟りを開いたかのような静寂に他人への侮蔑は微塵も混ざる余地は無かった。彼の眼を見詰めていると己が春めく太陽の下にいることさえも忘れてしまいそうだった。近辺の住人たちがこの子供を忌むのには本能的な恐怖であろうと予想された。

 霊力のある住民は時折見かけるが、彼ほど明確に将来を予感をさせる力には初めて出遇った。大いなる力の可能性を偶然に発見したことへの昂奮に満足感を膨らませても良かったのだが、まず胸中に浮かんだのは不安だった。放っておいて良い筈がないという使命感だった。大きすぎる力は災いだ。自らで制御できなければ尚更に。
 私の手を払いのけて走り去る背を見送りながらその小ささに、不安は否応無く広がっていった。




 数年後再び彼と見えた時、私は拝跪していた。
 板敷きの部屋は半ば程から一段高く造られており、先には床の間も設えられていた。細い壷に季節の枝が生けられた後には太い筆で達筆に画かれた文字が躍っていたが、読み解く暇など無かった。

 頭の先にいるのは違うことなきあの時の子供であった。前髪が後へ撫で付けられてはいるが、初めて会った時から寸分違わぬ姿のままで、彼は唐突に一隊の長となって登場した。席を飛ばしての隊長就任など十一番隊の隊長くらいしか知らない。あの男ほど絶大な霊力を有し、残忍性も暴力性も他に類を見なければ、瀞霊廷に現れて早々隊長の一人を切って捨て、その席に納まることさえ不思議とは思われないが、額を床に接するほど頭を垂れている私の前にいる男は死神となるべく鍛錬をつむ学舎を通過した者なのだ。席官から始まることには貴族といえど目立った別例は無かった筈だ。

 彼の声に頭を上げると、厳しいながらも深慮を湛えた眼が真っ直ぐに己へ向けられており、情けないことに、また、喜ばしいことに、私は畏敬の念を抱いたのだった。この方が我らを率いる十番隊の隊長なのだと。戦慄と安心だった。任せてしまえるという確信だった。しかし私もまた新たに副官への昇進とそれに伴う移動とを申しつけられてこの部屋へ召喚されたのだ。長らく空席だった隊長席が埋まるのだと、それまで隊長代行を任されていた十番隊副隊長が仰せられたのにはその場で言祝ぎの礼をするところだった。それが隊長には新たに外からの死神が就くのだと教えられ、新参者同士新しい十番隊を作ってくれとも励まされた。心の準備をする間も与えられず謁見の場へ案内されて、幾ら肝が据わっていると自負していようと緊張はするのだ。前情報がこれから自分が従う人物だという以外何もない相手への緊張は昂揚でもあったけれど。

 久しぶりだなと彼は挨拶の代わりに口にした。憶えていたのかと己の双眸が正直に開かれるのを見ても彼は表情を変えなかった。親しみは無いと言って良かった。仕事上の関係を既にして築いていた。

 お前を副官にと指名したのは俺だ。
 お前には礼を言わなければならない。
 お前のお陰で、俺は大切な人を失くさずに済んだ。

 耳に心地よい少年の声が力強く流れてくる。お前と呼ばれることにも、男がお前と呼ぶことにも違和感は無かった。当然としての人称だと飲み込めた。彼の声に尊大な響きは皆無であり、むしろ敬意をさえ感ぜられたことも一因だったろうと思われる。
 隊内のことについてはお前に教わることが多いと思う。面倒がらずに教えてくれ。
 俺は護廷にも入ったばかりで右も左も分からないからと、背を真っ直ぐに伸ばす彼の、強い両肩の、揺らがない眼差しの全てに彼の威風堂々とした貫禄が表れている。作られたものならば虚勢と判る。そうではないから彼は真の大器なのだ。

 私に、出来ることならば

 私はそう、もう一度、今度は背を強張らせることなく低頭して応えたのだったか。云と頷いたらしい男の気配を感じ取るだけで精一杯だった。






 短い時間では無かった筈だ。
 寝そべれば埋まってしまう個室で座を正して、見詰めるものが目前に無いから己の膝を見詰めている。膝の先の、少し褪せた、畳の目を見つめている。
 短い時間では無かった筈だ。彼と私の共に過ごした時間は。
 信頼の糸を堅く結ぶ程には心を行き交わした上司と部下の関係であり、盟友とも呼べる関係の筈だった。
 去り際の瞳の、苦悶に歪められた迷いの光が忘れられない。
 伝えようとしたろうか。彼は、私に教えようとしたろうか。あるいは、踏み留まろうと、してくれたろうか。
(否‥)
 彼の迷いはそのようなものでは無かった。私たちに向けられたものでは無かった。
(草冠‥宗次郎‥)
 彼の語らぬ過去の片鱗。
(知られたくないから隠すのか。知らせる必要がないから語らぬのか)
 後者だろう。既に終わったことについて知ったところで、私たちのすべきことは何もない。

 障子越しの陽の変化は緩慢だ。自身と障子が落とす濃い影が周りへ溶けだし一様になって、物の輪郭を見分けるのに瞬きが増えて漸く、昼が夜に変わったのだと認識する。思索に沈むではなく思想を忘れたように、時間はこの身を素通りしていく。長いようにも短いようにも覚えながら、眠る時刻も近いだろうかと目を閉じる。視界を閉ざせば意識されていなかった疲労が眼の表面から肺腑へ落ちるように滲んで、己の内にのみ向かっていた五感が外へと開く。そうすれば時間の感覚も戻ったようにして、それまでの外界の情報が、この狭い居室に在って伝えられる分だけ思い起こされた。それらは意識しないままに己の中へと溜め置かれていたらしかった。

 昼には食事が運ばれた。背を向けて閉じた障子の向こうで、二番隊の隊士が運んだ食事は夕に取り替えられた。声を掛けられたが、言葉のいちいちは憶えていない。己を哀れむものだったか、軽蔑するものだったか、その声音も憶えていなければ、返事を返した記憶もない。食事を運んだ隊士はそれを承知で義務的に言葉を並べていたようだったか。

 腹は減らない。今夜も食事は摂らない。
(隊長は食事を摂っているかしら)
 見慣れた男の貌に幼い面貌が混じる。変わったのは空気だけではない。面立ちも、発声の仕方も、見据える眼も、およそ外へ示される彼の外殻は綺麗に刷き替えられた。
 その面貌に、幼い頃二度見た未熟さが入り混じる。
(あの人は、私が、私たちが知らなかった不安定さを持っていた)
 近しい者のために激昂する情熱を秘めていることは知っていたけれど、彼を動揺させるものがあるなどとは知らなかった。
(草冠、宗次郎)
 可能ならばこの手で。
 多くの隊士の頂点に君臨する者は、けして揺らいではならないのだ。












2009/04/02  耶斗