寒くはなかった。雨も降ってはいなかった。霞んでいく視界の、昏くなっていく意識の底で、腕(かいな)を広げて待ってくれている者が在った。

豊かな胸と、たおやかな曲線と、柔らかく波打つ栗色の髪と。

(あぁ、井上‥)

彼女の肌のぬくもりを感じていた。直接触れることなどなかったというのに。

微笑んでいる。まどろみを与える優しい瞳。紅く色付く艶やかな唇。白い肌は燐光を纏っているようで

眩しい

眩しい‥

抱きとめられて安堵が溜息を落とした。闇の底に姿を見留めた刹那から焦がれていたのだと分かった。彼女の名前を呼びたかったが、私のかさかさに乾いた不恰好な唇からは無様な喘鳴しか漏れずに私を苛立たせた。

井上は微笑んでいる。桜の蕾が綻ぶような、たえかな春風のような微笑だ。

(井上‥)

私は呼ぶ。声を作り出せないから念じる。ありったけの思慕を、願いを、祈りを瞳に込めて一心に井上を見詰める。井上の瞳も私に語りかけているようだった。諦めないでと叱咤しているようであり、眠っていいよと慰めているようであり、嬉しそうにも寂しそうにも見えた。私は、井上に抱きかかえられながら私は、私達がピエタの聖母子像を忠実になぞっていることに気付いた。幸福だった。ならば井上は聖母だったのだ。私の母であり、誰もの母であり、世界の母であるのだ。誇らしかった。

しかしそれでは井上は悲しんでいるのだろうか。彼女の微笑には涙が隠されているのだろうか。

いいや、井上は咲っている。握れば折れそうな細い骨の、潰れて溶けそうな柔らかい肉の、裂けて弾けそうな瑞々しい肌の腕で私を抱きかかえ、微笑んでいる。

(井上‥井上‥)

寒くはなかった。悲しくはなかった。温かかった。愛しかった。命を抱いて死ぬのだと思った。命に抱かれて死ねるのだと慶んだ。井上に抱かれて眠るのだと安堵した。ただ、看取る彼女がどんな想いで私の屍(かばね)を抱くのかと、そればかりが気がかりだった。









2007/04/15  耶斗
ルキアが串刺しにされたときの。