寂しい、なんて思わないのかな
悲しい、なんて思わないのかな
愛しい、なんて
思ってはくれないのかな



織姫は猫を拾ったことがある。毛色も瞳も皆真っ黒の美猫だった。
仔猫というには成熟しており、しかし成猫というには幼い顔をしていた。
小学生の頃だ。4年くらいだったと思う。
両親の不和と、理不尽な暴力と罵詈に、兄に守られながら怯えて暮らしていた頃だ。
雨の日だったから、放っておけなかったから、そのか弱い熱に惹かれたから。
「ね、猫さん、うち、く、来る?」
この頃織姫は極度のストレスから上手く言葉を話すことができなかった。舌が絡まって、どもるのだ。それが同じ年頃の子供たちの嗜虐心を煽って内でも外でも織姫にとって安らげる場所ではなかった。ただ、一人きりの公園か、兄の腕の中だけが織姫が信じていい場所だった。
だから、この時織姫が云った「うち」とは織姫の腕の中だったろう。愛しそうに、しかし戸惑いながらビロードのようにしっとりと雨に濡れそぼっている黒毛の猫を抱きかかえて、腕と肩と頬とに傘を支え、不器用に家までの道を辿った。
あのまま箱の中にいれば猫の先はなかったろう。夜中であったし、通りに織姫以外の人間はその時には見当たらなかった。織姫は、既に習慣となっている両親の諍いから逃げ出していたのだった。兄のバイト先を探したが、小さな織姫は住所を知らないことに、彼女の遊び場である公園に来て思い出した。しとしとと降り注ぐ雨は公園の遊具も植木にも静謐と沈黙を要求しているようで、独りぼっちだという意識が急激に彼女の小さな身体に広がった。ピンクのビニール傘から透かしみる空は、奇妙な夕暮れの雨空に見えた。
猫はしかし織姫の腕の中でも生き延びることは出来なかった。うちに連れ帰り、いつもの隠れ場所で一緒に丸まることは出来たけれど、自らさえ食事を要求することができない織姫に、猫の食事を用意することはできなかった。猫も既に衰弱しており、ミルクを出したところで一舐めできればよいくらいだった。
織姫は猫を連れ帰ったことを甚く後悔したが、今は争う声は聞こえずとも緊迫した空気の伝わる隠れ家の外へ出る勇気はなかった。兄の帰りを切に願った。腕の中で身じろがずぐったりと眼を閉じている猫は、その毛に含んだ水でぬらした織姫の服越しに弱弱しい体温を伝えてはいたけれど、織姫にはこの命の温もりが長く続くとは思えなかった。泣けもしない隠れ家の、膝を抱えてようやく収まる小さな洞で、織姫は必死に己の体温を猫に与えようとしていた。
翌朝には冷たく硬直を始めていた黒い美猫は、発見した父により窓から放り投げられた。
弛緩した肉は抵抗する術も知らず、為すがままに晴れた明け方の空に弧を描いて消えていったその、抱いた屍骸の弾力も、死してなお滑らかだった毛並みの感触も、織姫の掌に残したまま。










('07/07/14  耶斗)