黒い美猫のその傍に、ルキアは蹲っていた。死にゆく命が猫ならば、人の目の届かぬ墓場を探した筈だ。だから美猫は、己とよく似た全身真黒の少女に寄り添っていたのだ。髪も瞳も着物も黒の、雨を含んでまといつく袴に膝を抱えて、眉間から頬へ流れる髪が顔の皮膚に貼りつくのも意に介す風もなく、大腿に頭を寄せ掛ける猫ではなくうつろに宙を眺めていた。時折涙のように、瞳を打った雨滴が零れ落ちたが、彼女は眺めているだけで、泣いているのではなかった。泣く理由さえ、彼女にはない筈だったのだ。
何故ここに蹲っているのだろう。
消えようとしている命を見守ろうというには無関心に過ぎないか。そうとも、考えているのは今、己に寄り添っている弱い熱源ではなしに、形にならない由無し事だ。靄のように集まっては散っていく、到底捕まえようと腐心するだに無駄なことだ。
予感めいたものがあったのかもしれない。
捨てられた猫が助けてくれる何者かを待つように、彼女にも拾う何かが用意されていると惑ったのかもしれない。
帰ろう‥
どこに帰るというのか。己が浮遊霊になってしまったようだった。抱きかかえる脚は確かに先まで形をもっているのに、まるでするりと、半透明のなにかになってしまったようだった。
「猫さん、うち、くる?」
つっかえながらの子供の声。舌足らずな、聞いていて苛立ってくる女児の哀れみを誘うような声。茫然としていたルキアを覚ますのに、何故だか十分だった声にルキアは視軸を揺らした。そうすれば己が呼吸(いき)をしていたことも思い出して、鼻から抜けていく吐息がやけに明瞭と聞こえた。
ピンクのビニール傘。肩で切りそろえられた亜麻色よりも明るい色の髪は子供らしく細く。柔らかだろう小さな頬には、不似合いな青あざがあった。興を惹かれた。それはまさしく、可哀想な子供へ向ける憐憫だったろう。そしてルキアが自己嫌悪したように、けして純粋な慈悲ではなかったろう。
少女が屈みこみ、折った膝から垂れるスカートの裾に路上を流れる水が染み込んだ。猫はすっかり濡れそぼり、抱けば己こそ塗れてしまう。傘を持っているのに、猫のために濡れ鼠など、子供というのは純粋で莫迦なのだ。知らない故に思考せず、思考せぬが為に純粋だ。ルキアは、少女を初めて目にかけた生き物のように見詰めた。まろい輪郭線に小ぶりの鼻が起伏をつくり、紅色の唇が突き出ている。それがどうにも甘えた香気を放っているように思えて、ルキアはつい手を差し伸べてやりたくなった。頬に流れる細い髪を耳にかけてやりたくなった。
少女の手が、抱えあげようと猫へ伸びて、ルキアは接触するかとわずかに身を引いたが、触れられるわけがなかった。少女はルキアを意識していない。見ぬのではなく、視えぬのだ。ルキアは死神だ。
ルキアの大腿に入り込んで、少女の不器用そうな手が猫の頭をなでてから、くったりと弛緩している四足の獣の身体をこれもまた不器用に胸元へと引き上げた。肩に挟めた傘が揺れて、ルキアは手を伸ばしかけたが、安定したのをみて引っ込めた。
少女は愛しがるというよりも不安げに猫の顎を肩に乗せ、その頭を撫で擦った。その瞳にはこの猫がもはや助からぬだろうと予知している諦念が浮かんでいるように見えた。
少女がゆっくりと立ち上がり、(おそらくは猫の重さのためだろう)よたよたと傘に振られるようにして歩き始めた。彼女が歩き出した方向をみて、ルキアは彼女が己の右手から近寄ってきていたのだと解った。ならば、己を透かして猫をみつけたのだ。それが何故だか無性に可笑しかった。
ついていこうか‥
附いていこう
立ち上がろうとすれば重心が遅れて移動し、立ち上がったなら軸が揺らいだ。長いことよくない姿勢で座り込んでいた。
少女の歩幅は酷く小さい。それも、傘と猫の重みとで進路をとることもやっとの様だ。否、歩き方すこし奇怪しいのは、彼女の脹脛にもおそらくは大腿にも打撲傷があるからだと、白い肌に浮かび上がる奇妙な模様した円形の青痣に思った。大人の拇指と人差し指とが作った円ほどではあるが、庇う歩行に慣れてしまったのだろう。少女はひょこひょこと不恰好に歩いた。
ついていこう
お前に、憑こう。
護れるものがあるかないかを考えはせずに、ルキアは少女の後から数歩後を、少女の頼りげない歩調に合わせて付いて行った。










('07/07/15  耶斗)