あなたを

 あなたを

      あなたを

   あなたを


 愛するために




[P-2]




人の丈ほどもある烏が落ちてきて真咲は驚いた。本当に、彼女はそれを烏と思ったからだ。墨色の着物の袖は羽、墨色の袴は尾羽。だから、それが堕ちてきた衝撃で舞い上がった砂埃が風に晴れ、黒い塊が片膝をついた状態からのそりと身体を起こした時も彼女は驚き冷めやらぬままに後ずさることも出来なかった。

電線が導くように延び、電柱が圧するように立つその先で熟れて潰れた柿のような夕陽が大気に溶け出そうとして辺りを巻き込み朧にしている。コンクリートの塀に挟まれた狭い道の上、日常のその中でまさか非現実が発生しようとは誰が想像するだろう。否、想像してはそれが真実起こりうるとどれだけの夢想家が信じているだろう。少なくとも真咲はその類の人間には見えなかった。見えなかったから一心は興をそそられたように片眉を上げたのだ。

「何笑ってんだ?」
「いえ‥ふふ」

花の綻ぶように咲う彼女、夕陽の朱に染まる髪は地の栗色をかろうじて教える。少女のような表情(かお)で咲う。

「あなたが‥あんまり突然な登場の仕方をなさるものだから」
「驚かねぇのか?」
「驚きましたとも」
ですから私、呆気にとられておりましたでしょう?

唇に当てた人差し指は細く、白く、小枝のようだと一心は思った。
ひ弱な存在だ、と人間を思った。

「烏かと思ったら‥熊でした」
今度は一心が瞠目する番だった。






案内されたのは女の両親が遺したという一軒家だった。道路とはコンクリートブロックの壁で隔された庭に足を下ろした縁側に二人並んだ。昼間の突き刺すような陽はなく、心地好い熱をもって潅いでいる。秋の気配はまだないが、夏の絶えていく匂いは立ち始めていた。
(変な女だ‥)
流石お前の選んだ女だよ。
内心で友人を皮肉って、一心は女へ振り向いた。運んできた茶を二つ並べて置き、彼女はそれを挟んで隣に足を揃えて座った。少し斜めに正面を向いて、見つめられた一心は居心地に悪さを覚えた。
「女ーーー」
「真咲です」
「あん?」
「真咲。私の名前は、真咲です」
「‥‥‥」
変な女だ。一心はまた思った。
「真咲‥上の名は何と云う?」
少なからず改まった話をしなければならない手前、初対面から下の名を呼ぶことは憚られたのだが
「真咲、だけで十分です」
それを察しないのかと、仏頂面で一心は女――真咲を見詰めた。実のところこの真咲という女は一心の不得手とする類の女のようであった。一心はあけすけな女の方が好い。訳の分からない信条を守っている女は、女ならずも、苦手だった。どうやら真咲はその中でもさらに己の道をまっとうしようとするタイプらしく、一筋縄ではいかないだろうことは容易に見て取れた。傍若無人とも時には窘められる一心も、見た目には穏やかで人畜無害然とした真咲の、それでながら泰然とした雰囲気に会話の手綱を掴めない。他人に対し好きに喋って好きに無視してきた一心にとって、交渉とは相手を強気によって絡めとることだった。強気に出れない相手では‥。その返答の奇怪(おか)しさを教える言葉を探していた一心に、重ねられた言葉は彼の意表を突いた。出会い頭から意表を突かれ続けているのだが。
「きっと貴方の妻になるのでしょうから。苗字など無意味です」
言葉通り、一心は一瞬間言葉を失った。真咲の言葉が硬化した脳に染みるにつれ、遠のいていた五感が戻ってくると一心は途端に惑乱と焦燥に胸肉の裏側を引っ掻かれた。
この女は何だ?
「女‥真咲、」
拗ねるような咎めた眼に言い直して、一心はなんとか、どちらかというと自分を納得させるために、言葉を、なんでもいい、鎮静剤を探した。
「俺が何だか、俺が何のためにここにいるのか、知っているのか?」
女はにこりと微笑んだ。何故だか一心はこのときになって漸く彼女が美しい女で、また滅多にお目にかかれないだろう言い知れぬ魅力を湛えた女性だということに気づいた。柔らかに波打ちながら腰に流れる栗色の髪は陽に透け、燐光を纏うよう。一心だけを見詰める眼は優しく、鳶色には思慮深さが溶け込み、小ぶりな鼻も、緩く撓んだ唇は其処だけに女の色が収束したように紅く濡れている。
「私は」
真咲の声がそれまでと波長を変えたように一心の鼓膜を震わせた。
「貴方の姿を拝見したとき」
甘い。と一心は思った。酒の甘さが舌に広がるようで、一心は戸惑いながら甘受する。しかしその陶酔もすぐに打ち破られる。抑えきれない高揚に飲み込まれようとする半ばで冷や水をかけられ、安堵とともに苛立ちも覚えたがそれは小さく、気づく前に掻き消えた。
「貴方のために死ぬのだと悟ったのです」
貴方と貴方の愛する全てのために
呆気にとられ、そして首を振り。虚を突かれたことに憮然としながら照れを頬に乗せ、一心は乱暴に右足を左膝の上に乗せると、その上に頬杖をついた。
「なんなんだ、お前は‥」
「貴方の妻です」
そぉじゃねぇ!と叫べなかった一心は、ただじっと自分を見詰めている視線のささる肌が戦慄くのを感じながら、正面に風もなく震える葉々を睨み付けていた。




***




[過去を持たない女]



奇怪(おか)しな女だ‥

「それで早速子作りのことなんだがーー‥」
「はい」
「拒否しねぇのかよ」
「どうしてです?」
「会って少しも経ってない男だぞ」
「時間なら経っておりますよ」
にこりと笑って真咲は指を折って数えた
「出会って、家まで歩いて、一緒にお茶を飲んで、お話しました」
嬉しそうに弾んだ語尾に一心は顎が落ちないよう耐えなければならなかった。
たったそれだけだろ!
自身の主張は正しいとは思うのだけど、そうはっきり云ってやることが出来ないのは、効果がないと見切ってしまっているからなのか。会って少ししか経ってないのに。
それで‥?胸の前で指を交差させ手のひらを合わせた真咲が心なしか輝いている目で続けた。
「今からなさいますか?それとも今晩なさるのでしょうか」
(この女‥っ!)
今までにないタイプである。正真正銘今までになかったタイプである!
誘う女はいる。だけれど真咲のような誘い方をした女はいない。
床板に頭を叩き付けたい衝動をぐっと堪えて、しかし未知の者を見る目を隠すことは出来なかった。驚愕を面に貼り付けて、一心は現代の人間女性の不思議を発見した気分だった。
「一心さま?」
顔を覗き込んでくる顔に邪気も色気もないというのに、本当にこの人間はその”行為”を知っているというのだろうか。色々なものが信じられずに一心は暫く真咲が自分を正気に戻そうと画策するのを彼方から見ているような心地で見詰めていた。



***



「子供が欲しいんです」
何度呆気にとられれば済むのだろう。
「いるだろう。もう」
違います。唇を尖らせれば少女のような幼い表情で真咲が一心を下から覗き込んで言った。
「女の子が欲しいんです」

実を言うと、最初の子は女の子だと思ってました。
「一姫二太郎と申しますでしょう?」
ですからね、最初の子は女の子で、二番目に男の子が産まれるものと思っていたんです。
それは理想論としての順番だろうと、云おうとした一心だったが、気配を察したかそんなことは百も承知とばかりに真咲が重ねて言った。
「一護が産まれたとき残念だったなんてことはありません。勿論嬉しかったです。ですけど一人っ子なんて寂しいでしょう?兄弟が欲しいでしょう。家族は多いほうが嬉しいでしょう?」
最後の「家族」には自身も含まれているのだろうなぁ、と未だにしっくりこない響きにむず痒いものを感じながらそれでも一心は真咲の言説を遮らなかった。
「ですから私、次は女の子が欲しいです」
一姫二太郎が叶わなかったなら一太郎二姫でいいです。一護もきっといいお兄ちゃんになるはずです!
力説する真咲も、やはり一般と比べると控え気味だ。だのに、否、だからこそか、どんな提案でも応諾させてしまいそうな迫力があると一心は思う。
「駄目ですか‥?」
気弱げに窺う女性に男性が否と云えるか否か。など、真咲のことは女というよりも珍獣とみている気のある一心には当て嵌まらず
否とも応とも答えず踵を返して自室へと閉じこもった。


(なんだってあの女は‥)
もはや何度目か。真咲への自問を溜息に溶かして一心は部屋の真ん中に敷いた布団へ寝転がっていた。だんだんと暮れていく空を布団の上で眺め、月が昇る頃合になっても青白い影の差す中じっとして動かなかった。途中、真咲が夕餉に呼んだようだが一心は応えなかった。真咲は不安に思うだろうか。考えて、どうでもいいと首を振った。死ぬまで傍にいてやると約束はしたが、不必要に馴れ合うことはない。なにより、全てを赦そうといっているような彼女の眼が、苦手だった。
ごろりと寝返りを打って廊下へ開く襖に背を向けたときだった。
静かに襖が開かれた。
其処には女が正座しているだろうと一心は背を粟立たせる気配に思う。
「一心さま」
昼間の言説が思い出される。夜這いをかけにきたのか。本質的には能動的な真咲である。そう考えても自然のようであった。
「お情けを」
しっとりと、湿度が増したように思われ、そうしてそれは冷たかった。肌に、心地よく。
一心は、自分に拒否の選択肢も、迷う権利もないと思っている。一人の人間の一度しかない(そうだまさしくこれっきりの)生を大きく歪ませるのだ。いくら好きに生きてきたと自負する一心も負い目を感じていないわけではない。
(だから、これは、つぐないみてぇなもんだ)
一心は手振りで女を呼び
女の顔は、見なかった。
声は一心の鼓膜に届く前に溶けたようにして。月明かりにも、女の顔は、見なかった。



***



あの頃家では母さん中心に宇宙は回っていて
俺たちは全員母さんが大好きだった。

ともあれあの頃の俺たちには世界は母さん中心に回っていて
俺たちは全員、何より母さんのことが大好きだったんだ。



”それ”は暗い昏い水底のように冷えた暗闇の中で目覚めた。天へ頭を向けていたのかもしれないし、奈落へ逆さに落ちようとしていたのかもしれない。
目が覚めて”それ”は己が嘗てそうであった動物たちと異種の存在であることを感じとり、そして確信した。俺はクダラナイ虫けらどもとは別格だ。翅のない虫たちのなんと醜悪なことだろう。
奴らは俺に喰らわれて初めて価値を得るのだ。
餌どもよ、喜べよ


「どうすることもできないのか」
顰め面で問うというより難詰するような調子で、屋内でも帽子を脱がない無精髭の男に尋いたのは一心だった。腕を組み、ちゃぶ台を挟んで二人、向かい合っている。8畳の部屋だ。三方に襖が、そして一心の左手側、男の右手側にすりガラスの障子があり、それらのどれもぴったりと閉ざされている。男は音のないため息を吐き、それは何を今更と一心の発言を呆れているようだった。
「歪は後々になるほど大きく、苛烈になっていきます。この時期に訪れるというのは返って幸運というものでしょう。あなたや‥あの子達にとって酷なことには変わりありませんが、せめて選択しうるもっとも楽な方法で逝かせてあげるのが情けというものではありませんか」
男の声には一心に対する情が籠められていた。友人の心を少しでも慰めようとする努力が覗えた。諭すようで、そしてそれは確認でもあった。嘗て一心自身がそう考えていたことを思い出させようとしていた。
「いかせてあげなさい。そして出来るだけ長く、傍にいてあげなさい。あなた方は‥夫婦なのですから」
ぐっと歯を喰いしばったために唇の歪んだ一心が何を考えたのか、男には分かっていた。


「それでは、行きますね。あなた」

「泣かないでくださいね」

子供たちを守ってくださいね。
一護を苛めてはいけませんよ。
遊子と夏梨を困らせてはいけませんよ。
一心さん

「少しは私も、あなたに愛されることができたでしょうか」


突き動かされるままその細い体を抱きしめればよかった。
胡散臭い大儀なんてものどぶの中に捨ててしまって我儘に身を任せればよかった。
抱きしめてやればよかった。気丈に堪えながら不安に揺れる瞳を。
塞いでやればよかった。二度と逢瀬叶わぬ死出の路を。
永遠の別れがどんなものか、己は解っていなかったのだ。永遠に愛し続けられると見付けた女(ひと)を、永遠に失う苦悶を知ってなどいなかったのだ。



いつかの、己の言葉が再生される。
『土台俺たちゃ人間じゃねぇ。化けもんだ』
そして己は自問した筈だ
―――それではこの女は?
己を殺す男と識って愛すというこの女は
いずれ幼い子供を置いて先に逝くと識りながら孕む女は
「俺が化けもんだから化けもんになっちまったのか、それとも化けもんが化けもんに惹かれてやってきたのか」
俺を、諌めるために、命を投げ出すのか――――‥だとしたらお前は菩薩の権化
「お前は本当に、人間だったのか‥?」
降り注ぐ雨に、天(そら)は明日などないと諦めているようだった。




真咲の背、ぴったり心臓の上を貫いた爪を怖気の立つ音で肉から抜き取った”それ”は再び凶刃を振り被った。子を川原の石ころと自分の胸に挟んで、真咲は横目にそれを見ていた。逸らす力も、背を支配し四肢に触手を伸ばそうとする激痛に引き裂かれないよう堪える為に残されていなかった。
(一心さん‥)
あの日、貴方をみた寸刻に、私は貴方のために産まれたのだと、知ったのです。
この世で出会いうる最上級の幸福を、私はあの時知り、そして包まれた。幸福に、捕らわれた。
離れることなど不可能だったのです。
貴方が私を捕まえていたのだから
(一心さん‥)
化け物の巨大なカオが迫る。せり上がり喉を塞ぐのは恐怖。混ぜ物のない、純粋な恐怖は麻薬にもにて脳髄を痺れさせ、幸福な記憶ばかりを蘇らせる。
「愛してます」
声にならない吐息の囁き。それだけが、最後に残される言葉なのだろうと、真咲は魂が肉体から剥がされる苦痛の中で悟(し)った。

「ご苦労じゃったな。真咲‥」
端正な顔立ちをした一匹の黒猫だった。柔らかろう毛皮をしとどに濡らし、艶をました毛並みから滴をしたたらせた黒猫は、青白く凍り始めた女の前に腰を下ろし女の鼻先に小さな鼻を寄せ、そこにもはや彼女のもはや欠片さえ残っていない魂の残滓を嗅ぎ取ろうとするかのようにひくつかせた。
雨に打たれる嘗て女だった人型の肉塊と、それに護られ生き残った我らの希望
(それとも、罪の証か)
逃げること叶わぬ罪の証か
そう、もはや逃げ道は絶たれた。進むしかない。迷っているなら今この瞬間に振り切らなければならない。
「一護、お前が我らを裁くのだ」
幼子。我らがために産み出され。我らがために苦悩の生を送るだろう。地べたに這い蹲るようにして、大地に爪立て、天を仰のき大気へ慟哭しながら
我らがために、生きるだろう。
化け物は猫の発した気配により退散した。この頃”それ”はまだ強大とはいえない力しか有していなかったからだ。
「母の骸の下で目を覚ましたときがお前の真の誕生なのだ」










2006/08/27  耶斗