己がけして綺麗な魂にはなれないと悟った時、ならばと、せめて美しいものを守るものになろうと考えたこともあったが、結局はそれさえにもなれないのだと思い知るしかなかった。
不可解だった。だから彼は理解した。
これは己の意志の及ばぬことなのだ。自然の意志によるものだったのだと。こうなるより他に道は無かったのだと。
ならば彼は彼の道を行こうと決めた。用意された道であるかも知れずとも、足の赴くままに、己の最も安静な在り方を生きようとするならば、例えあの男を狩る側になるとしても。

世界は己を敵と定めるだろう。それがどうした。己は綺麗なものにも、綺麗なものを守護するものにもなれない。なるように出来ていない。昼に太陽に焼かれるよりも、夜に月へ微睡むことが己の性質なのだ。
綺麗なものを愛でる心は変わらない。ただ、そこが闇夜であれと願うばかりで。夜が恋しい。静寂(しじま)が愛おしい。星の散る黒い海こそ我が揺り籠。全ては静寂に沈めよ。私の願い。沈黙には在らざるとも猥雑な声はなく、原子の擦れあう静けさこそ私が求める平安。
心地よく冷たい大気。私を包む羽毛。
我唯一人の空、海。私を愛するもの。

そこに何人も要らず
永遠の微睡に漂い

漂い漂いてやがて
微睡の中にて彼を見つける。

愛しい愛しい静寂(せいじゃく)
僕は彼を夢見たいだけなのだ。










【釣りをする人】










きれいな人
貴方を連れていきたいけれど
僕の世界できれいな貴方は少し…………邪魔






 池の畔に浮竹が蹲っている。長く白い髪を垂らして水中を覗き込んでいるようだが、そこには小粒の貝殻もなく、さらさらとした白い粒子しかないことを知っている藍染は、彼が物思いに耽っているのだろうと当たりをつけて、ささやかな砂を噛む音を立てながら近寄っていった。
 5歩ほど手前で足を止めた藍染は浮竹へ声を掛けることはなく、自身の気配を当に認めているだろう壮齢の人が口を開くのを待った。浮竹の背中を見つける時、彼らに挨拶というものはなかった。前置きはなく、本題に入ることを常としていた。浮竹がじっと景色に身を潜めている時は、決まって沈思している時だというのを、藍染はよくよく承知していたので、藍染もいまや唐突な浮竹の演説に戸惑うことも無くなった。のみならず、十三番隊の隊長である男が、度を忘れたようにして語る様を果たして己以外の誰が知り得ようかと、密かな優越にも浸るのだった。恐らくは、浮竹の一の親友である勇壮とした歌舞伎者でさえも見(まみ)えたことはないだろう。浮竹は己にのみ、通常は沈んで現れないマスクの下を暴かせるのだ。

「卍解は、尸魂界の始まりの頃には誰もが至る事の出来る境地だったのじゃないかと、俺は最近考える」
 彼はいつでも唐突だ。話し相手には人形でも石塊でも構わないのだろうと思わされる。声は藍染を素通りして消えていく。
「昔は誰もが…、戦う死神の誰もが簡単に、否、簡単ではないだろうが、持つことのできる力だったのじゃないかと……、今ほど特別に貴重なことではなかったのじゃないかと考えるんだ」

「黎明期‥‥、始祖と呼ばれるものが皆絶対の力を持つものとして描かれるのは約束事みたいなものです。貴方の想像の中でそういった者たちが、現在の我々よりも強大な力を有していたと考えるのは不思議じゃありませんね」

「始まりの頃…黎明期……、そうだ、混沌の時代、暗黒の……俺たちが知りえない先史の時代…」

「虚や、それ以上の魂の捕食層が蔓延っていたとも考えておられるのですね」

「そう……。虚圏、尸魂界と世界が分かつ前のこと。卍解が生まれるならばその時代であった筈だ。力なきものが力あるものに立ち向かい、生存力を凌駕するためには力の進化しかない。あらゆる技術の練磨しかない」

「完全に凌駕することは叶わなかったが、領土を確保……あるいは己たちの安住の地を手に入れることは叶った」

「尸魂界……この世界」

 静謐にして、陰惨な、欲望を隠すからこそ入り乱れ混迷する泥濘の如き幻惑的な世界。と藍染は繋がなかった。水を差す気がした。

「今では歴史に名を刻まれるほどに希少になってしまっている。死神も…弱体化しているのじゃないかと、考えてしまうんだよ…」

「種が種として完成したとき、滅ぶことは必然ですよ。宿命付けられた回避すべからざる道です」

「そう…、………そうだろう…」

 藍染は言い含めるというよりも慰めるように言った。水際に蹲る男の稜線がそうさせたのかもしれない。ただし、浮竹にとってそれが慰めとなりえたかどうかは藍染の判断には難しかった。だから、返ってきた応答は非難を含んでいるように聞こえた。諦めの響きを帯びた呟きは静かで、藍染の胸には鋭い針先となって染み入った。
 藍染は、虚と死神でなくたって貴方と己の世界は断崖によって分か絶っていると、このような時常に思い知らされる。
 そうしてまた、ふと浮竹が重力を感じさせぬ仕種で腕を上げたかと思うとその先の手に繋がる人差し指が何かを指すように垂れていた。
 此方と、あちら、と浮竹は呟いたようだった。

「此方(尸魂界)、と、あちら(虚圏)。今は二つしかない純粋に霊魂だけが住まう世界。昼と夜の対極を成し、寒暖の差を肌に刺す。こちらとあちらの世界」

 それは独り言だったのだろう。独語に指の一本もつられるのは彼の癖だった。その後で顎を上げ、光を眼に通して漸く彼は藍染の立つ湖岸に戻ってくるのだ。

「彼らの食すべきものが他の魂ならば何を致すべくもない。生存は本能だ。使命や天命と名付るものより重い。理性などどうしようもない。
 滅びたくない俺たちは彼らと戦うしか術はない」

「しかし僕らの生存力は低下している」

「平和が長すぎたんだ。これも必然なのだろう」

「しかし僕らは戦わねばならない。生き残るため。だけれど、その目的が薄弱となったならば、滅びを避けることは難しい。先人たちの意志を思いださない限り。その意味を悟らない限り。
 僕たちは、滅ぶだけだ。それは最後の一人の肉の一片まで昇華するということ…。これは、平和呆けした後輩たちに想像しろというのは難しい」

 だから僕たちは弱くなっていくことを止められないのです。藍染は笑った。そんなこと何でもないことですよと言う様に。

(理由付けしたいのだ貴方は)
 背後で藍染は苦笑したようだったが、彼の表情は変わらないままだったろうと浮竹は推測する。そうして藍染は、己が嫌に饒舌になっていることを自嘲していた。この白髪の死神の前では要らぬことまで口を突いて出るようで、それは都合の悪いことになりかねない。望まざる冗長であるのに、己の舌を統御することが出来ない。今ばかりはいいかと許すことが悪癖にならなければいいがと心配だけをしている。平和呆けなら己の脳髄もだ。

「戦わねばならないのでしょう、僕たちは」

 問い掛ける藍染の声は穏やかだ。花弁を震わす微風のように優しげでさえあり、口調に起伏はなく、湧き出でる泉の水のように冷ややかだ。鼓舞する調子は欠片ほどもなく、叱咤する激しさもなく、押し付ける堅さもない。それでも浮竹の心が解けないことを藍染は正確に感じ取っていた。

「もはや進化は終えてしまっても、生き残ろうとするならば怠惰の壁に抗い続けなければならないのですよ。単調で、退屈な、変化無き年月を、僕らは戦い続けなければならないのですよ」

 それはなんて詰まらないことだろう。けれど口舌には乗せないまま、藍染は浮竹の背中を見つめ続ける。丸まって、縮まった、頼りなく小さな背中を。放埒に笑うことを知っている男の背中はこんなにか弱くもあるのだ。これが彼の弱音なら、己はそこに立ち入ることを許される程には彼に認められているのだろうか。踏み込んで、いるのだろうか。

「戦い続けるの、ですよ」
「……………………うん」

 思えばこの一言が欲しいがために言葉を継いだのかもしれなかった。
 しかしながら浮竹の返事を返すまでの沈黙は、躊躇は、藍染の言葉を否定するもののようにも聞こえた。全く逆の考えを持って、それでも無理やりに納得しようとしているように聞こえた。思案気な首肯がそうだと、藍染に、それは違うと、別の生き方があると提案したくて具体化出来ずに引き下がった余韻があった。例え浮竹が反意を提示したとして、彼の言語を藍染が理解しえたかは知らない。理解しえないことを理解していたからこその、ただ一言の首肯だったのかもしれない。
 兎に角、浮竹の沈黙は藍染の胸に具合の悪いものを生み出す。征服仕切れない感情があるということを藍染に教える。

 藍染と浮竹の会話にならない議論は何時だって治まりの悪いまま終わるのだ。










釣りをする人たち

2009/05/05  耶斗