白銀の綺麗な髪を見た。煩雑な人混みの中それはいやに映えて。奪われた視界に電柱の影は入らなかった。



「歩いてて電柱にぶつかったって?」
 ばっかでぇとそれこそ馬鹿笑いする赤髪を睨みつけて橙色の頭した一護は不機嫌に椅子の背へもたれた。真っ赤な長い髪をひとつにまとめ高く結わいている恋次が先の醜態を知っているのは彼の隣に座っている艶やかな黒髪の
「ルキアてめぇ誰にも言うなっつっただろ」
 彼女が告げ口をしてしまったからに他ならない。ほんの少し間小用に立っただけで彼女は己の頼みを忘れたらしい。
「是とは言っておらぬ。任せろといったのだ」
 だからつまりそれは俺の願いを聞き入れたってことだろうと、今更視線に恨みを込めてみたってストローを唇に挟みながら意地悪く笑う彼女には無意味なのだ。
「お前がんな間抜けなことやらかすなんて珍しいな。何に気をとられてたんだ?」
 待ち合わせ場所に指定された喫茶店のテーブルに片方の肘を載せて身を乗り出した恋次へ一護は鬱陶しいという風な目をくれたが、興味を抱けば己の欲求が満足するまで質問を繰り返す恋次である。そのしつこさを知っているから一護は諦めの溜め息を吐き出した。
 しかし一護はようよう口を開くより早く
「こやつ、何者かに見惚れておったようだ。私が声をかけようとしたらどこか一点を見つめておった。あの視線は確かに人混みの中だったな。気になる女でも見つけたのだろう」
「てめ‥っ、ルキア!」
 説明する手間が省け、かつ自分の口を使わずに済んだおかげでこれ以上根ほり葉ほり訊かれずに済むかもしれないという希望は見えたが勝手な分析は余計だ。それも当たらずとも遠からぬ解釈だから一護は焦った。だけれどもそれをあからさまに表せば揶揄う彼らに拍車をかけるだろうし、折角の希望さえ砕かれかねないから平素を装う。己をじっと見つめる2対の眼は大人しく騙されてくれているようではなかったけれど。
「へぇ、遂に一護もそっちの興味が出たか。いつまで経っても決めた相手つくんねぇもんだから俺達も心配してたんだぜ?」
 その『俺達』には学校の悪友たちも含まれいるのだろう。自分のいないところで交わされる会話は一体どんなものなのかと、どうせありがたいが下世話な心配なのだろうと一護は額を押さえて息を吐く。それから現状からの脱出を叶える穴をみつけて悠然と笑んでいるルキアへ視線をあげた。
「んなことより今日はお前が用あるんだろ?何の用なんだ」
 学校で、今度の土曜遊ぼうと提案した恋次にそれなら付き合ってほしいところがあると横か割って入ったのはルキアだった。大体いつもこの3人で集まる彼らは今回もお決まりのメンバーで出掛けることを決め、集合場所をデパートの中にある喫茶店に定めたのだった。
「おぉ、それだがな今人気の美容室にいきたいのだ。丁度髪を切りたいと思っていたのだ」
「美容室?なんでそれで俺達なんだよ。井上だとか他の女子誘えば良かっただろ?」
 嫌そうに顔を歪めた一護は先の仕返しも含めたのかもしれない。
「良いではないか。気の安い者たちで集まって。それにお主ら、高校に入ってから何かと男同士でつるみおって私だけ仲間外れか」
 3人仲がいいのは幼なじみという理由もあった。確かに最近では男と女、つるむ頻度が変わってきてたかなと成る程寂しく思っていたらしい幼なじみに一護は気分を変えることにした。今日はお姫様に付き合って差し上げよう。なにより、隣の幼なじみを大事に思っている赤髪の幼なじみもそれに思い至っての了承だったろうし。
 分かったよ、と苦笑してみせて一護は立ち上がった。それに倣って彼らも立ち上がる。レシートを覗きながら一護が尋ねる。
「で、その美容室とやらどこなんだ?」
「このビルの中にある。ploomという店だ」
 ルキアは嬉しそうに答えた。




 連れて来られたそこは一面ガラス貼りの、いかにもといった雰囲気のシックな美容室だった。中ではスタッフたちが忙しさを見せずに立ち動き、よく教育されていることが伺える。ルキアが率先して入り、その後に恋次が続いて、女性客ばかりのそこへ入ることにやや躊躇していた一護が遅れて入ればカウンターでスタッフと話をしているルキアと恋次の向こうにある影を見とめて押し戸のガラスを支えたまま足を止めた。
 細いはさみを片手に客の注文を聞いているらしい鏡を見つめている一人の美容師。けして作り物では出せないしっとりとした質感の見事な白銀。まさか1日に二度お目にかかることになるなんて。そうしてそれが、見間違えるはずがない、全くの同一人物だなんて。入り口に突っ立ったまま動かない一護に気付いた恋次が呼ぶまで、一護は歩けることを忘れていた。


 来いよ、と男が云った。来いよ、と反応を返せなかった一護に二度目は顎で鏡の並ぶガラスの壁を示して男は云った。
「え‥?」
 漸く返した返事がそんな間の抜けたもので、一護は後悔した。
「だから、来いよ。髪切ってやるから」
 次の予約キャンセル入って暇なんだと云った男は見惚れる程綺麗な白銀の髪。
 ルキアの仕上がりを恋次と二人、入り口近くのソファに座って待っているところだった。上がろうとする視線を無理やりに抑えつける一護の様子を、外見では分からないが世話焼きの男は敏感に察し、どうしたのかと訊いた。それに一護が気を引き締めなければとなんでもないと恍けたところだった。
「そこのお前」
 と何故だか自分が呼ばれたと思った一護が振り向けばそこに、己の勘を肯定するように声の主が一護を見つめて立っていて。
「来いよ」
 と、しゃくった顎の先に、一護は返すべき反応が分からないまま男に従ったのだった。
 椅子に座ってから一気に思考は戻った。
 来いと云った男の意味も、切ってやるといった言葉の意味も。しかし理解できたからといって今更なことだった。助けを求めるように右手側にいる恋次へ顔を向けようとしたがまるでそれを阻むように男の手が頭の両側面に添えられた。指が髪の間に差し入り、手のひらが頭皮を撫ぜて、覚えた気恥ずかしさの奇妙さに僅か眉を顰める。そうしてそれに続くように囁かれた声に振り返らなかったことを褒めてやりたい。頭の両側に髪絡ませその手はあり、髪に唇を寄せるように(それを一護は気のせいだと思おうとした)男の顔があった。直ぐ側に。振り返ればその顔が目の前に来ただろう。訳は分からないが鏡に映るその顔から逃れたいと思った。
「綺麗な髪だな。天然か?」
 そうだろうなと訊いておきながら一人で納得した男は短い橙色の髪を摘んでは感触を確かめるように毛先へ指を滑らせる。
 答えるタイミングも必要も、そもそもあったかどうか知らないが、失った一護は首を動かすことすら憚られて、やっとの思いで声を出した。何を緊張しているのかと、しかし馬鹿馬鹿しい自身を笑い飛ばすことは出来そうにない。
「あの‥髪‥」
 切ると男は云ったけれどそのつもりで己は入り口をくぐったのでは無かったことを思い出す。それを言わなければと口を開いたが
「心配するな。軽くカットして後は‥、少しいじらせてくれればいいだけだ」
「くれれば、って‥」
 承知していたらしい男はそう言って、だけども不可解な言い様に問えば鏡の中の男は笑って(なんと綺麗に笑うのだろう!)
「お前の髪に触りたかったんだよ。嫌ならワックスだけにしとくが?あまり短くしないようにはするつもりだが‥」
 言う相手を間違っているんじゃないか、思ったけれど身を起こして顔が離れて、感じるはずもない熱が離れたことに名残惜しさを覚えてしまったから一護は何がなにやら分からなくなる。
「あ、いや‥好きにしてくれて構わない‥」
「好きに?」
 笑った貌の含んだ意味は揶揄に変わっていたがそれに気づかない一護はただ頷いただけだった。
 そうしてそれを察した男は苦笑気味に笑ってタオルを一護の首へ掛けた。


 耳の側で鳴く鋏と、落ちる髪の立てる微かな音。時折、長さを見るために毛先を摘む指先とそのために少しだけ近づく男の顔。
 鏡に映るそれらのどれをも見ていられないために、自分の髪型がどうなっていくのか、過程を一護は見守ることが出来なかった。
 何を話しているかも分からないまま返事を返す。当たり障りのない、合いの手に過ぎない程度の。けれど男は気を悪くするでもなく話しかけ続けた。それは仕事のためだからだろうと、男の指名を受けてそこに座っていることを忘れた一護は解釈した。
 耳をくすぐる、男の微かな笑い声は心地よかった。
 出来上がった己の髪はなんら変わったようにも見えなかったが、確かに雰囲気は変えられていて。すっきりとまとまっている。
 見てみろと云った男は一護が鏡へ目を戻してからそれまで饒舌だった口を閉ざしてしまい、感想を期待する男の目が深い翡翠の色をしていることに今頃になって気づく。
 何を言っていいのか気の利いた文句が出てこなくて一護は云い淀む。せめてありがとうと、気に入ったと、その気持ちは伝えたいのに。だが、それさえ男は見抜いたように目を細く笑ませて
「また来いよ。カットじゃなくても、この髪いじらせに」
 気に入ったんだと笑った男に一護は自分が了承したことだけはかろうじて分かった。



 あの男はあの店のトップなのだと、いつの間にか仕上がっていたルキアが店を出てから一護に教えた。一護だけに向けて云ったのは恋次には既に一護を待つ間に教えていたためで、興奮した様子なのは予約無しで彼の手に触れられることがどれだけ大変なことなのか、一向に理解できないらしい一護に理解させようとしているためだった。しかし一護もぼんやりとは理解していたのだ。
『また来いよ』
 また?連日予約でいっぱいの彼に?
 まさか先客を差し置いて自分のところへくるような半端なプロ意識はなさそうな男がどうやってと、男の言葉を笑おうとするけれど二度目にあの店へ行く日は存外近そうだと予感は一護の胸の奥をくすぐる。
 そんなことを考えていたから生返事になる一護へルキアはまた怒ったのだけれど。





 終

2005/12/04  耶斗