腕を払えばさらさらと、削り落とせそうな闇の中で彼はまどろんでいた。背後の窓から銀色した月がその文様も顕わに浮いている。
 残業が終わっても帰る気のしなかった零時過ぎ。日番谷冬獅郎は己の執務机に頬杖をついて舟をこいでいた。
 幸せな夢を、見ていたやもしれぬ。
 しかしそれも、戸口の滑る微かな音に掻き消され余韻だけしか残らなかった。
「冬獅郎」
 薄く開かれた冬獅郎の眼は机上の一点をぼんやりと眺めている。目を上げなくとも訪ね人が誰か、彼は知っていた。
 白髪を背に流した、お人よしの十三番隊隊長だ。
 月の光の届かぬ戸口に立ったまま、彼は翳の中に沈んでいる。
「黒崎が、死んだよ」
 現世で、人としての命を、全うしたよ。
 彼は持っていた書類の束をぱらりとめくり、既に暗記してしまった文字を闇の中で辿った。
「彼の記憶は消去され、彼の魂は更新された」
 抗ったことだった。彼も、彼の友人も部下も。幾人もが抗った、けれど。
「魂葬(迎え)には一番隊の隊員が向かったそうだ」
 冬獅郎。未だ一度も応えぬその男を彼は呼んだけれど、椅子の影にも隠れるその小さな身体が身じろぎもしないことは予想できた。思惟を重ねているのかもしれない。それとも忘却を図っているのかもしれない。そのどちらもいいだろう、と浮竹は目を閉じた。脱力感に座り込みたくなったが、場所を弁え、そうして”彼”の前だと己を律し踏み堪えた。


 黒崎一護。かつて旅禍として侵入して後死神代行人として人の身ながら魂を司ってきた少年は80年の人生を終えた今、世界の理に従い尸魂界へと渡ってくる。しかし彼の魂に刻まれた膨大な量の情報は隠蔽のために彼の記憶ごと抹消される。
 ”真血”であり、”仮面の軍団”であった彼の力を”死神”として使うために。
 それが四十六室の伝えた指令文であった。
 そうしてその正当性を冬獅郎に説明したのは浮竹であった。
 冬獅郎がその命令にあからさまな反意を示したためである。
『何故そんな必要があるんだ!』
『あれは常に皆のため戦ってきたじゃないか!』
『記憶の消去も魂の浄化も必要ない!!』
 これまでになく激昂した彼は辺り構わず当り散らし、十番隊隊長室は我楽多で埋もれた。
『冬獅郎、これは決定したことだよ。四十六室への申告も却下された。覆すことは難しい』
 難しい、それは不可能と同義だ。
 平静を保つ浮竹の声は冬獅郎の神経を逆撫でした。
『お前は‥っ、お前はそれで納得できるのか!?納得しているのか!消去するってことはあいつの今までの生を否定するってことだぞ!』
『冬獅郎、どの道こちら側へくる以上、なんらかの記憶の改編は仕様がない。誰しもが現世での記憶を失くしていくんだ。それが早いか遅いか、という違いだけだ』
『それは人間だった奴の魂だろう。あいつはもう死神だ。死神ならば』
『死神として教育しなおさなければならない』
『浮竹‥っ』
『それも、上の意向だ。諦めろ冬獅郎。もはやお前に為す術などない』
 俺たちに、為す術など残されてはいない。
『それに、彼がこちらへ来るということは、これからが始まりということだ。彼は一からやり直すに過ぎないんだ。』

『納得してくれ。冬獅郎』

 様々の装飾品が打ち払われた書棚の上、震える拳に顔を埋めて冬獅郎は、天を突こうと慟哭する心を押し殺した。
 もはや正義が何になろう
 正義とはつまり、絶対的多数を護るための言い訳に過ぎないのだ。


 やがて、気を落ち着かせた彼は云う。その声は疲弊し掠れていたけれど、流れぬ涙に嗄れていたけれど
『分かった‥けれど、ひとつだけ頼みを聞いてほしい』
『‥っ、あぁ何だ?』
 何をしてでも叶えてやる覚悟で、浮竹は問うた。
『あいつが‥渡ってきたら‥』
 浮竹は、了承した。



 黒揚羽が浮竹の側を掠め、冬獅郎と浮竹の間で踊った。
「冬獅郎、彼が到着したらしい。東流魂街47地区だ」
 その地獄蝶は内密の用件を伝えるよう十二番隊の人間へ預けていたものだった。座標計測は彼らの役割だ。偵知も彼の人徳あってのものである。
「行こう。君の義子になる子だ」
 下級貴族、日番谷家の。
 新たに貴族と認められる死神の例は少ない。日番谷冬獅郎はその実力と実績から貴族の称号を戴いた数少ない者の一人であった。
 貴族ならば養子を迎えることができる。
 唯一”所有”を認められる身分だ。
『あいつが渡ってきたら』
 冬獅郎の望みは合か否かの瀬戸際に打ち勝ったのだった。






コネタ。
まぁありだろうとか自分を励ましてみる。

2005/08/26 耶斗