[恋]


 初恋を覚えているかと問われて、それが揶揄だと気付いたから素面で問い返したことに気恥ずかしさを覚えて誤魔化すために眉に力を込めた。
『怒るなよ』
 くつくつと喉を鳴らして哂う男の始末の悪さ。己の表情の意味を知っていてそんなことをいうのだから。土台、どこからそんな質問が飛び出したのか。
 どうしてくれよう。あぁ、どうしてくれる柄にも無いこの悪戯心。
『覚えてるぜ。忘れるわけねぇだろ』
 忘れるにはまだ過去にもなっちゃいない。
 己の言葉の意味を正しく解したろうか、男は意味ありげな眼差しと膝に杖ついた手で隠した口元で満足げに笑んでいるようだ。
 視線を合わせられない己にそれは確かめられないけれど。




[愛]


 お前の愛は凶暴だよ。云った己に彼は哂った。
 だったら逃げてみるか?試しにさ。出来ないことを知っているその面の憎らしさ!
 だから己は今日も拳固めて言い返す言葉を探すのだ。
 囚われるのはまだ早い。




[人間]
 なよっちい生き物だと電柱の天辺、蹲るように腰を下ろした彼は息を吐く。夕暮れに染まる大気へ白く濁って直ぐに散る。両掌を擦り合わせればかさかさに乾いて、握りこんでかじかむ指先を知る。
 はぁ、とまた息を吐き、凍る吐息の霞に混じる濃い影被った鮮やかな萱草色が土手の緑に咲くを眺める。はや半刻動かない。
 冷たい川風に晒されそれは大の字に寝転がっていた。先程までの大立ち回りを始めの頃より傍観していた彼は、今そこに倒れている萱草色が、眠っているのだか休んでいるのだか判然としない萱草色が歪な放射線を象って川原に転がる5つの塊とは別な意味をもって横たわっているのは知っていた。
 なよっちい生き物だ。彼は思う。背に負う刀の重さが奇妙に明瞭(はっきり)と感ぜられた。素手から始まった喧嘩は中途敵わないと悟った5人によって凶器入り混じるものとなった。萱草色は最後まで身一つだった。ただ絡まれただけというでもない、おそらく一方的な顔見知りで厄介事に巻き込まれたのだ。巻き込まれた?それは正しくないだろう、あれは彼が悪いのだ。
 鮮やか過ぎる彩が悪い。
 眼に映せる彩の話ではなくて。
 愉快だ、と彼は哂った。愉快だ、だからこの場から離れられない。事の終りまで見ていたい。
 萱草色よ、お前の戦いっぷりは見事だったぞ。擦れて疲れた己の目には子供の遊戯のような軟いものとしか映らなかったが、その意気や好し。
 決めた覚悟の心地よさ。
 諦めることをまだ知らないなよっちい子供の固めた拳の強さ健気さ。側にあればさぞや心を楽しませるだろう。
 退屈すぎる世界にひとつ、これはきっと己への贈り物、贈り主は知らぬ。知らぬで良い。
 はぁ、また一度息を吐く。頬を掠める蝶の羽は彼を催促するものだ。
 待て待てと彼は云う。届くはずもない眼下の萱草色へ声は意識せず潜められ、囁き声で彼は哂った。
 もう少し、まだ暫し。
 なよっちい生き物の群れで見つけた己への贈り物が立ち上がるまで後少し。




[親友]


 親友だよなぁ?縋る眼差しの残酷さ。

 何を恐れているんだ馬鹿らしい。お前とっくに気付いているだろう。気付いているから望むのだろう。知っているから願うのだろう。
 知れよ、君。
 諦めることと覚悟を決めることはこの場合においては同一なのだ。

 質した少年の無理矢理に作られた笑顔へ男は、それはもうこの上もなく、それはそれは優しげに、それはそれは嘘くさくにっこりと過ぎるほど綺麗に笑って見せて
 望む答えを得られるものと期待した少年へ裏切りの答を。




[友達]


 初めからなり得るはずが無かったのか。
 友達なんて過程すっとばして何時の間にやら己の隣(それも両隣!)を占領してしまった男の横顔を、視線の先のテレビ画面を、退屈に眺めやりながら少年は、近頃頻繁に意識へ浮上するようになった傍らの男との別な未来の想像へまた徒に頭を回らす。
 運命なんて信じちゃいないからさ。

 それは抵抗か、はたまた揺るがぬ確信への地固めか。




[兄弟]


 それは確かに否定できない。

 だけどさ、あいつ目茶目茶機嫌悪くなるからさ、それ、あいつの前で言うのは勘弁な。
 珍しい黒崎一護の威嚇なしの要求に、クラスメートで友人の彼らはぽかんと開いた口が塞がらなかった。

 随分丸くなったもんだなぁ‥
 銀髪の小学生の話題は一度きり、それ以後彼らの間に上ることはなかった。




[永遠]


 永遠の一瞬を君で埋めていく。

 時間ってのは相対的なものなんだ。どこでそんな知識を得たのか、それとも経験から学んだのか、己とは比べ物にならない膨大な時間を過ごしてきた男は己の首に敷かれた腕で己の頭を抱きこみながら鼻先髪に埋め、熱い息を頭皮に吐きかけながら云った。
 男の云ったことは、男にしてみればごく最近のことになるだろうが、100年前に確立されていた理論であった。苦せずしてそれに触れることは許された後世の人間たる一護の感覚にそれは既知の事実だった。それがどうしたんだ?と重い目蓋を瞬かせながら律儀に応えるもそれはおざなりなものに聞こえた。
 冬獅郎は特に意味はないと緩く微笑み、二人の匂いが染み付いた一護の髪の匂いを吸い込む。冷えた空気が障子の隙間から畳へ染みていってくる。
 重ならない時間が歯痒いだけだと、一護の鼓膜を憚るように囁かれた言葉に一護はことりと頷いた。言葉を聞き取れた訳でもなく、その意味を解した訳でもなく、男が何事か囁いた、それが分かるから頷いた。夢現のことである。 
 布団の隙間から冷気が侵入する。ごそりと一護は身を捩って冬獅郎の身体に腕を回した。隙間無く身を寄せ合えば空気の入る余地はない。
 切ないなぁ。冬獅郎は息を吐く。
 愛しい彼が与える熱が、愛しい彼に流れる時間が
 相対的でなければ確かめられないことが現実存在としてあることの哀しさだ。
 ひとつになりたいんだ。
 永遠も一瞬も、君となら変わりないものとなるはずなのに。

 思考を廃棄する一瞬が永遠に欲しい。




[夢]


 夢のようだなんて云わないで欲しい。儚すぎる君だから。

 どこか浮世離れした奴だなとは思っていた。これだけ明瞭に視認できていながら今にも霞か何かのように霧散してしまうのではないのかと、漠とした不安を抱いた。
 その子供、冬獅郎と名乗った子供は気付けばこの家にいた。
 父と同じく医者となった俺はインターン後、とりあえずということで飛ばされた田舎町で一軒家を借りた。都会ならばいざ知らず、田舎の一軒家は東京の6畳一間のアパートと値段はさして変わらない。医者は俺ともう一人。だけども町の人とか交流だとかなんだとかいって昼間っから酒を呑むことも珍しくないからもっぱら俺一人で診療所を支えているようなもので、自然診療所に泊り込むことの方が多かったがそれでも週末には掃除のためにも帰るようにしていた。
 それで、ある日帰ればその子供が居間でぼんやり外を眺め座っていたのだ。
 驚いた。当然だ。何処の家の子かと慌てて訊ねてみても、むしろ彼の方がより驚いているような顔をして見つめ返すばかりで。耳が聞こえないのか、喋れないのかと思ったが、いいや彼は己の声を聞いているし理解している。ただ、驚きすぎて言葉がないといったところのようだ。
『なぁ、お前どこから入ったんだ?』
 なるだけ咎める調子にならないように気をつけながら訊ねる。診療所には幼児から老人まで訪れるから言葉遣いは慣れたものだ。
 ふと着ているものに目を落とす。和服だ。田舎とはいっても着物を着るのは祭くらいで平常からそれを着用するものはそういない。それでも着慣れた様は彼がそれで日々過ごしていることを教えた。
 夏の日差しが容赦なく縁側のガラスから開け放した居間の障子の中へ照りつける。部屋の半ばほどまで差し込むそれで子供は足を温めていた。じわりと汗にシャツが張りつく。窓を開けて風を入れなければ。だけども一護は片膝ついて屈みこんだまま、結ばれた子供との視線を剥がせなかった。
 ただの子供じゃあない。それは判る。だからといってそれで解決するわけもなし。
 どくどくと、やけに自分の鼓動が五月蝿い。それは悪い予感のためだったかもしれなかったが鼻腔へ吸い込む空気さえ熱い室内で一護の六感は鈍った。
『名前‥何ていうんだ?』
 恐る恐るという風に紡がれた声は密かな秘め事を抱くことへ震えていた。危険と呼ぶには生温い、だけども放してしまうには惜しい温度でそれは一護の腕の中へ落ちてきた。 
 警察にも役所にも届けるのはまだ後でいいかと普段の彼なら考え付かなかっただろうに。熱に浮かされたように一護は彼へ手を差し伸べたのだった。

 夢のようだと彼は云う
 初めより見違えるほど穏やかになった血色で彼は笑う。
 夢のようだなんて云わないで。そんな幸せそうな顔して笑わないで。
 現実はあまりに儚く脆いから
 しがみついていないと共々風化し消えてしまうのだ。
 共に生活を始めて幾年月。彼がただの子供でないだけでなく、人間でないことも知った。それでも共に生きている。一人だけ歳をとりつつ彼といる。
 夢のようだと笑わないで
 今にも降り注ぐ太陽の光の中、粒子となって溶けていきそうな君に手を伸ばす。




[現実]


 現実と夢の境が判らないのだと瞳を揺らす彼を惟只必死で抱きしめる。

 現実とは厳しいものだと、十二分に思い知っていたはずなのに己にはまだ甘い部分が残っていたらしい。
『世界は誰にも僕らにも、けっして優しくはないんだ』
 世を拗ねて逝った君。それは違うと己は正してはやれなかった。それは確かに彼にとっての真実であったからだ。
――――現実を見据える強さ、それが僕に無いことは知っているんだ。だけどね、この身を苛むのもまた現実さ。それを僕は言葉通り身に沁みて分かっているから、僕もまた現実と正面向いて対峙しているといえなくはないのかな
 寸陰の友。幾つも幾つも年下の彼は、幾つも幾つも年嵩の眸をして、世に厭いたように哂っていた。真、世を厭うていただろう。
――――君、僕を殺しにきたんだね?
 胸の風穴が寂れた音を生む。
 剥げかけた仮面を貌に貼り付け、幼い貌は醜悪に歪む。
――――君、僕を殺すのだろう?
 地べたに座り込み、膝を抱えて己を見上げる彼は母を待つ子供そのものだ。それでも縋る格好のようでありながら爛々と狂気に光るその眼は喉笛喰らいつかんと牙剥くようだった。
 まだ生きたいと叫んだ。違うお前は死んだんだと叫んだ。
 かろうじて人の形を保った彼を、彼らを己は切り裂き続ける。
 何度も何度も、殺し続ける。

 現実と夢の境が判らないのだと彼は泣く。僅かの光さえとりこまんとするように眼、かっと見開いて。乾く眼球から、しかし泪が零れることはない。
――――無理だったか
 男は思う。
――――お前にこの役目は重すぎたか
 心優しすぎる子供の鮮やかだった萱草色の髪は疲れ、艶やかだった肌は荒れている。
 人とていずれ狂いながら年を重ねていくというのに、この子供は汚れぬまま歪まぬまま失わぬまま生きるを果たし、そうして渡ったこの世界で彼はあまりに綺麗すぎた。
 男の胸に顔埋め、己が腕に抱きこめるその身体を掻き抱いて彼は慰めの熱を求める。
 疲れた髪を撫で付けながら、男は加減も知らず抱きしめる腕を拒まない。
 息が詰まるが、構わない。
――――ごめんな
 謝るべきことは特定できぬ。この世界を構成するいちいちが凡て彼へ謝罪する因子である。
 狂うことを知らぬ子よ
 程好く狂わねばこの世界は立ち行かぬのに。
 心痛めて泣く君よ
 狂わぬ限り、君はいつまでも泣き暮らすしかないのだ。
――――まだもう少し、頑張れ
 早う、早う、狂うてしまえ。
 やがてお前も我等と同じように、どこか歪んで、どこか整って、無味乾燥にそれを振るうことができるから。
 一層の苦悶でもって自身を押し潰す彼の嘆きが心地好いと思う自分は確かに狂うているらしい。






11/19の日記から
2005/12/27  耶斗