これは決して恋じゃあない。 背中。白の陣羽織が風に煽られ本来小さいはずのそれを幾分膨らませて見せる。豊かな銀色の髪が、まさしく彼の名を象るような勇ましい髪が雲を流す風に弄られ定まり無く吹かれている。風が耳を塞ぐようにすぐ近くで啼いている。音が拾えない。音が‥。 手の内の感触を覚えて、知らず掌に力が篭もったことを知る。じとりと汗をかいて、けれど視覚でそれを確かめることはできない。視線が、目の前の象から離れない。放せない。俺の意志はどこへいった。 男の背中をみるたび込み上げる感情は、感覚は、追いつけないことへの届かないことへの並べないことへの悔しさだ。そうしてその場所にいる男への恨めしさだ。 何故、あんたはそこにいる。 そこにいけないわけじゃない。己はきっとそこへいくに足る力と資格を持っている。そうして男はそれを止めやしないし、かといって歓迎もしない。ただちらりとだけ目線をくれて、そうしてまたいつもの通り前だけをみるのだ。 あんたは一体何をみているんだ。 雲の流れが速い。突き抜けるような青さに仰げばくらりと眩暈がする。光が強すぎるのだこの場所は。振り返れば街の居住区域が遥か下方にある。ぼんやりと、帰らなければなと思った。 そういえば、いつもこうだ。いつも己から我にかえる。眼を逸らす。それがまた少し悔しく思えた。 「冬獅郎」 それでも彼は男の名を呼んで、萱草色の短い髪を風の好きにさせて。 じっと、男が振り返るのを待つ。 手の内の刀身を獲物の血に染めたままの愛刀が、きんと澄んだ音で鳴いた気がした。風の悪戯だろう。草鞋は血を滲ませているだろう。 男はゆっくりと振り返る。その顔を、見ない。 逆光に黒く塗り潰されて、それでも目鼻の形は窺えるけれど彼は、見ない。 眩しいといったふりして手を翳し、意図的に己の視界を狭める。男の眼を、隠す。目の前へ翳した手で、すっぽりと顔を隠せる場所に立っている男。常に俺達の間には一本の物差しが置かれている。竹で出来た、柳で出来た、しなやかで折れない物差し。この距離を定義するのは何だろう。 男の唇が動くのを見る。酷くゆっくりとした動作だ。声など出さなくとも唇を読むだけで十分だと、読唇術を心得ない彼にも思えるほどにそれは緩慢に見えた。 雲が流れる。影が流れる。風が微妙に温度を変えながら肌を舐めていく。 汗を掻いている。 「帰ろうか」 それが男の声だったかと彼は反芻しなければならなかった。痺れてしまっていたらしい頭にその声は痛いほどの浸透圧で染み入り、その強さに目に影が差した。それは立ち眩みで、真空へ突き落とされたように鼓膜は外界の刺激を一瞬間だけ全く受けなかった。 「あ‥、あぁ‥」 水を飲みたいとは思わないのに喉が渇いている声が出た。首を絞められる鶏の鳴き声のようだと思った。 男の影が芝生を這い寄り、男の身体が己のものとすれ違うとき、彼は男の熱を感じた気がした。二つの身体が交錯した錯覚を覚えた。心臓が耳の側にまで上ってきたようで、太陽の光が増したようで、地表の柔さが頼りなくて目を眇めなければ定かに物象を認めることが出来ない。 背中で男が己の名を呼ぶ声を聞く。 もう、あの距離は空いただろうか。 よろけるように踵を返し、彼はよろよろと足を踏み出した。 歩く背中を追わない。追うようには歩かない。ただ一定。 広がることも縮まることもない空白に繋がれ足が運ばれる。届かない背中に手は伸ばさない。 時折ちりとした痛みが呼吸を難しくさせることがある。焦燥に似てそれは彼に何かをさせようと強要する。何をしろと? 前に立つ背中へ目を閉じて、何も見ない間に消えてしまえばいいと願いながらそうならないことを知っている。だからそれは戯れだ。 いつでも己の前にある背中。 何故? まるで呼んでいるように思えて、思い上がりに恥かしさが去来する。 その背中はいつでも己の前にある。目を閉じても逸らしてもそこにある。けして消えることがない。 風が方向を変え、足下から吹き上げる。眦を叩いていた毛先が離れ、男の頭の向こうへ目を転じれば街は幾分近づいていた。掛かる影の深さに丘の上から離れた距離を測る。 「黒崎」 「‥、あぁ?」 降ってきた(男は下方にいるのに)声に驚いて、反射でだけ問い返せば男は僅か顎を持ち上げたらしかったがやはり振り返らないまま。その、背中は動かないまま 「刀をいつまで手に持っている気だ?」 抜いたままだったことをようやく確かに意識する。背に負い直そうと腕を持ち上げようとすれば筋が強張っていた。刀を収めても頑なに握り続けようとする指をそれでも開かせ、同じように拳つくっていた左手とともに解す。握ったり、開いたり、ばらばらに動かしてみたり。意識が逸れて男との距離に変化が生じるかといえばそんなことはなく。彼がそれに気づいて顔を上げたときも男の背中は変わらずそこにあった。 「落ち着いたか?」 「あぁ‥」 男は背中にも目を持っているのかと何度疑ったかしれない。なんとも正確に背後にいる己の状態を把握している。 奇妙な痒さが胸元へ上って、何故だかその背中へ駆け寄ってみたい気持ちになったが理由が分からないから無視をした。 日は、まだまだ高い。男の側を離れられる時間まではまだ遠い。 [触れない背中] 1/18の日記に掲載 2006/02/15 耶斗 |