パイプベットの角に陰が染みのように燻っている。ベッドヘッドは15センチだけ突き出した出窓のすぐ下に接して、サイドの壁とも隙間はない。白の壁紙に白い光が差しても影は出来るのだと、窓から離れるだけ濃くなっていく薄墨のような影を振り返ってまで追いはしないけれど。 雨の降り出しそうで降りださない湿った空気は窓硝子に閉め出し、薄曇りの空から弱々しく白色灯が点っている。吐き出した二酸化炭素の充満する部屋で 何をやっているんだろうなぁ と、思う。 窓の向こうの薄曇り。外の温度を伝えないガラス。模型のような町並み。作り物。眼窩に収まっている眼球もガラスで出来ているに違いない。 温度がない。 世界に温度がない。 彼が奪った。 ベッドヘッドの格子には革のベルトが絡まっていた。スチールの曇った銀灰色に光沢のある黒は造形を抜きにしてもだいぶん異質だ。ベルトはベットに横たわる裸の青年を縫い付ける。両手首を戒める拘束具を引きちぎろうと暴れたものだから、擦れないようにと隙間なく引き結んだのにベルトから覗く膚は赤く染まってしまっていた。鬱血の痕が残るかもしれない。青年の腹を擦りながら冬獅郎は心配する。朧気に、それは可哀想だと、悼む。 けれど、もっとずっと可哀想なのは自分なのだから仕方ないとも思う。 一護が冬獅郎と別れるなどと言うから。 一護の腹を撫でていた手を彼の脇腹へと滑らせて、その傍らに落ちているペンを拾う。さっきまで彼の肛門へ挿していた直径1センチばかりの水性ペンを濡らすオイルは乾いていない。キャップ側を先に持って一護の脇腹から臍へとなぞれば、冬獅郎が再びペンを手にした気配から緊張していた筋肉が震える。逃れようとして、しかしマットに沈む腰は浮きもせず、ただ腹を反らした。冬獅郎の左腕を挟むために閉じられない膝の、同じく折り畳むための拘束具の間で、隠せない陰茎へとペンを下ろしていく。筋肉を薄く覆う脂肪の軟らかさをペンの先に感じながら。精液とオイルとに濡れる縮れた陰毛の間を掠り、萎れた陰茎の傍から臀部へと分かれる狭間へ滑らせ、口を閉じる菊座を辿る。プラスチックのキャップが襞に引っ掛かるためか単に陰部をなぶられる羞恥のためか内腿をひきつらせ、脚の付け根と結ばれた足首が身動ぎ膝を強張らせるけれどペンを操る冬獅郎の指に感情の変化はない。恐れながら、怯えながらも充血を始める陰茎を見下ろす緑の目にも色素以上の色はない。観察ですらなく、冬獅郎になぶられる身体を目に映す。水晶体に絵を通す。 「一護、どうしてくれんだよ」 勃たねぇよ。 それは冬獅郎が一護に、部屋に置いていった一護の荷物を取りに来てくれるよう頼んで呼び出し、膝をついた彼の背中をバットで殴り体を起こせない内にベッドへと引き摺り上げ手首を拘束しパンツを脱がせながら繰り返していた言葉だった。 別れたい。別れようと言われて冬獅郎は理由を訊ねることも引き留める言葉もなくただ一度首肯して背を向けた。諾とも否とも答えなかった彼はあの瞬間から既にこうするつもりでいたのだった。 身体の自由を奪って暴力を行使してでも一護の別れようという言葉を撤回させる心積もりだった。話し合いなど不可能だった。感情に任せて捲し立てることはプライドが許さなかったし、かといって理性的に言葉を並べることも出来そうになかった。何より、初めに思いついたことが拘束と凌辱による支配だったのだ。それしか考えられなくなった。 道具を集めた。 ベルトは勿論、縄も用意した。幾種類もの中から赤色の細い麻縄を選んだが、暴れるだろう一護に手早く縄を掛ける技量はないと判断し結局ベルトを用いた。革ベルトの軋む音はベッドのスプリングの武骨な音に比べて慎ましく、悪くなかった。 バイブもローターもエネマグラもアナルビーズも買い集めた。カテーテルも消毒してケースに用意してある。陰毛どころか身体中の、場合によっては頭髪も、体毛を剃ってやろうとシェービングクリームも剃刀も用意した。 今のところ使用したのは拘束具とローターとバイブとアナルビーズくらいだ。 キャップの先を押し込む。反射的に食い締める肉輪の抵抗が貪欲にも見えて、首を絞められているかのような悲しげな声が搾られるけれど悦んでいるようにしか聞こえない。食い縛った歯牙が肘を合わせる腕の影から覗く。ボールギャグを買わなかったことに後悔はない。 一護が舌を噛むとは考えられなかったし、大声を上げて助けを求めても冬獅郎は一向に構わないと思っていた。むしろ見せてやれとも思う。冬獅郎から離れたがる一護を放してやる方法はもはやそれしかないからだ。 一護の苦しむ姿を見たくないと思う。 一護の恥辱にまみれて泣く様は心地よいと思う。 大切だったのは本当で、大事にしていたのも本当だ。 なのに別れたいと言った。 冬獅郎の愛したその口で。 冬獅郎を愛したその口で。 折り畳んだ膝は2時間ばかりそのままだった。強張って、痛みを通り越して麻痺しているかもしれない。ペンを持たない左手に包んで微かに押し上げようとしたが当然の如く、重い。一護に抵抗する余力は既に無く、脱力しないだけの気力しか残っていないのだろう。完全に諦めてしまうなら散々冬獅郎に犯されたそこをあからさまにしてしまうので。それだけはと恥じる余裕はまだあるということなのだ。まだ、冬獅郎の奪うべき一護の尊厳は残っているということだ。 「一護、勃たねぇんだよ。お前があんなこと言うから、俺の使い物にならなくなっちまった。どうしてくれんだよ。 責任取れよ」 責任を 言った言葉が空寒いほど空虚に響く。頭の中も空なら鼓膜の向こうだって空なのだろう。腹の中も、心臓も、何もかも。 眠りたい倦怠感がある。 一護の上に伏して彼の体温を分け与えられながら眠りたい。臍の緒で繋がって一護とひとつになりたい。 倒錯的な執着を教えたのも、一護だ。 「お前はこれから他のやつとセックスするんだろう?俺はもう一生誰とも愛し合えないのに。お前の所為で不能になったのにお前は」 お前は、俺じゃない誰かと。誰かを。好きになって愛して抱き合って 俺を忘れるんだ。 「一護…」 可笑しなことだ。不条理な目に合わされているのは一護の方だというのに泣き出したい。 可哀想だと思う。可愛いと思う。愛しいと思う。憎いと思うそれら凡て上の空でひたすら泣いてしまいたい。 「一護…」 応えてくれればいいのに。腕に顔を隠すばかりで、驚愕に見開いた目で冬獅郎を見たきり視線を寄越さない一護に少なからず苛立つ。道具を使って犯される抵抗に拘束された腕でもがきはしたが、冬獅郎を詰りもしない口が憤ろしい。 止めてくれれば、憤慨してくれれば、罵ってくれれば、憎んでくれれば それ以上の憎しみでもって愛してくれるのに。 一護は一言も発さず耐えている。無言による脅迫で冬獅郎に強いる。言葉を継げば継ぐほど間抜けのようで、誰も笑わない道化の惨めさを味あわせる。 去勢してしまおうか、一護も己も。勃起しない性器なら必要ない。己以外になぶられる性器なら無くていい。もう誰とも愛し合えないように一護の性器は切り落としてしまおうか。不完全な生き物になって、補填しあって生きて行こうか。 ペンを彼の胎(はら)へと突き立てる。キャップも潜らせ指を離れる奥まで。内臓を傷つけられないようにと仰け反り腰を浮かせば彼が拒んでいた筈の陰部を見せ付ける行為となって、興醒めする。なんて淫らなのだろう。なんと浅ましいのだろう。悦楽には忠実に彼の躯は応えている。ひきつり震える四肢も、優しくない冬獅郎の責めを詰るというよりも足りないと強請っているようじゃないか。 「一護、感じてるのか?」 腹圧で押し出されるペン軸を摘まみ、内壁をキャップの先で広げるように円を描く。腫れた肉襞と、解けた腸壁とで感じるものが何かは知らないが、シーツへ降りずに震えては冬獅郎の操るペンを食い締めて刺激に跳ねるのなら恐れだけではないだろう。勃ち上がり始める陰茎が証明している。 「何回もイったもんな。オレのじゃなくてもイけるんだよな。なぁ、一護…尿道も、いじっておくか?」 無言の難詰。言葉も無ければ視線も無い。誰を弄っているのかも朧気になっていく。 ただ、コレは一護だという意識だけで醒めている。指の先へ伝わる信号をキャッチしている。 「尿道から管入れて…膀胱から直接前立腺刺激すんだよ…。やったことないから失敗して血ィ出るかもしんないけど。どうせならやれること全部やっておくか? 血尿出るってさ、痛ぇらしいぜ?」 屈んだ腹が震えて声が弾む。笑っているんだ。何かが可笑しくて。ペンをまた押し込み、蓋するように親指を当てて、頭をもたげる陰茎を支えて舌先に鈴口を擽る。ここから挿れてやろうかと慣れた苦味を掬い取る。 くぅ、と啼く声が鳥に似て、くびり殺そうとしているかのような錯覚を覚えるその苦しさは同時に己の頚にも覚えて、僅かながら彼と同調しているのかと そんな訳はない滑稽さにまた、喉を転がる笑声が湧く。 「震えてる…。怖がるなよ。――――途中までにしといてやるから」 「………ッ」 テーブルへ置いたカテーテル入りのケースへ腕を伸ばそうと体を起こす冬獅郎の本気を感じ取ったのか、今までになく顕著に怯えを見せて一護が全身を強張らせる。それを横目に流して冬獅郎がその節張った長い指の先にケースを押さえて引き寄せれば、テーブルの上を滑るプラスチックの音にますます体を縮こませる。催しているのを我慢しているような格好だと冬獅郎は思った。 己の目の前で排泄させればさらに彼を追い詰めることが出来るだろうか。喘ぐ先には己しかいないと、己の下でだけ息をすることが出来るのだと 思い込ませることが出来ればいいのに。 嗚呼、ほら、また… 泣きたい。 涙を流して請うなら赦しとなるか 音がやんだきり伸びてこない男の手を不思議に思って身動いだ一護は腕の間から、テーブルの上空を凝視して呆けているらしい冬獅郎を見付けた。焦点も合っていないようにして彼は静止し、一護に向けられる筈の凶器は冬獅郎の手から離れてテーブルの上に置かれたままだった。 冬獅郎、呼ぼうとして声が出ないことに気付く。声を、息を殺し続けた喉は嗄れ、口腔も渇いている。しかし、悪魔のような仕打ちを受けてなお、一護の目には冬獅郎が捨てられた子供に見えた。 捨てたというならそれは一護だが、一護としてもただあんな言葉を伝えた訳ではない。言葉に隠して、気付いて欲しい想いがあった。迷いも残っていたし、不安は常に肺腑を占めていた。選びに選んだ言葉も結局その通りには出てこずに、緊張と高揚で狭まる喉から一言、 『別れよう』 と。言った自分の言葉にショックを受けて顔も上げられないまま、去っていく男の足音を聞いていた。 呆気ない了承はあの日を再現するようで、去来する悲しみと空しさをやり過ごせば、これで良かったのだとも思った。 終わらせてみれば何も始まってなどいなかった。箱の中の猫は死んでいた。己は賭けに負けたのだ。 なのに、どうして今になって未練を残しているかのような行動に男は出たのか。一護の元恋人は。 (恋人、なんて…) 恋人だなんて。 恋人だと、安心したことなど一度もない。 呆然と宙を見上げる冬獅郎は正気でなく見えた。恐らく、全く正気とは言えないだろう。誰より理性的で合理主義の男だった。感情的になる場面など一度も無かった。いつの場合にも。 「試したんだ…」 「…………、ぇ?」 「試したんだ。お前を。…冬獅郎」 声が細い。掠れて、上擦り、聞き取りにくい一護の声へ我に返った冬獅郎が耳を傾ける。唇からも読み取ろうと注視する。 「試したんだ……俺はお前が好きだけど…お前から好きだって言われたことはないから…」 試したんだ。 試した。そう、試した。冬獅郎の心を試した。 一護の告白を受け入れた男を試した。 日番谷冬獅郎という、近すぎて遠すぎる男の本心を知りたかった。来る者は拒まないのか、去る者を追わないのか。己は男にとってそれだけの価値しかない人間なのか。 知りたかった… 知って、区切りを付けたかった。 なのに、男の口から聴こえた言葉は滑稽でしかなかった。 「セックス…しただろ」 抱いただろ。 一護には笑うしかなかった。 好きじゃなけりゃどうしてそれまで友達だった男を抱ける。 体を重ねることが何よりの証だろうと冬獅郎は思う。けれど、傷ついた目をして笑う一護にはそうでないのだ。気付いて惑う。 「友達…、だったから、お前が…。友達のままでいるために、俺の気持ちを裏切らないために」 気遣って 遠慮して ふりをして 「本当は…あんな関係、望んでないんじゃないかって…」 薄い茶色の目が冬獅郎を映す。充血した白眼は潤んで、眦も。 泣いている。冬獅郎を映さなかった瞳が、今、泣いている。彼の涙の理由を知る。 彼が悲しんでいた事実を知る。 別れようと言われて頷いた。 止める言葉も時間稼ぎもしなかった。彼の真意を問うことさえしなかった。 「好き…?」 冬獅郎の口から溢れた呟きに一護が頷く。開いた唇から伴うはずだった声は喉につかえたらしく、くんと飲み込むような音が聞こえた。 「一護、俺を好きなのか?」 「…っき、だよ…。好きだよ…好きだ、好き…じゃ、なきゃ… 告白なんて気の狂ったことしねぇよ…っ」 別れようと言われて頷いた。 止める言葉も時間稼ぎもしなかった。彼の真意を問うことさえしなかった。 好きだと言われて頷いたあの時と同じに。 すぅと息が抜けていき、溜まるばかりだった鬱憤の通り穴が細く胸に空く。 冬獅郎が一護の上へ被さる。閉じられた膝は苦しくないよう向こう側へと倒して。それでも少しは胸苦しいかもしれない。無理な体勢ならずっと取らせている。 「俺は執着心が強い」 我慢は嫌いだし奪われるもの嫌いだし差し出すのも嫌いだ。 公平ではないし寛大でもないし心優しくもない。 だけれどそれではやっていかれないからふりをする。 心有るふり、公正なふり、冷静なふり。 我慢を諦めにすり替え、なんでもないことだと言い聞かせ、無くてもよいものだと説き伏し 磨り減っていったのだ。 磨り減り、摩耗し、薄っぺらになって、何も感じられなくなった時に 『お前のこと、本気で好きなんだけど。……そういう意味で』 愛の告白というよりも死の宣告を待つような面持ちだった。一護はそれまで第一の親友だと言って憚らなかった冬獅郎に押さえ切れない想いを明かしたのだ。 涙が出そうになるほど感動した。 いいや、実際に涙が浮かんだ。零れそうになるそれを瞬きを繰り返すことで誤魔化した。 一護からの告白は全ての苦しみという苦しみを洗い流し、紙のようになっていた己の心に空気を入れてくれた。元の形まで膨らませ、地に張り付いていたそいつを浮かせてくれた。 そうして、与えられた甘美に夢中になって、欲しい欲しいと欲しがるばかりだった。 与えることはせず。 自由を奪った身体を抱きしめる。筋肉質の、しなやかな肢体。硬く、頑なな彼の尊厳のために容易くは折れなかろうと思われていた膝は己の下で呆気なく開かれ、誰もに差し伸べられた二本の腕は己の首のためにだけ絡んだ。 彼の意思でなく脚を開かせ、与えられた腕の温もりも自ら縛めた。 馬鹿だ。 失うからなんて、奪ったところで同じことなのに。 けれどそれすら一護が戻ってくるという安心から生まれた見せ掛けの後悔でしかないことも自覚している。 知っている。もう、知らないふりも出来なければ、いつか止まるだろうと楽観視して見ないふりも出来ない。 「俺は欲張りだし傲慢だ。お前に執着してる」 放すことは出来ない。離れることは出来ない。この苦悶は正当では無いし、後悔は陶酔でしかない。正しい在り方ではない。それでも 「勃った。挿れていい?」 一護は笑う。 まるで俺が出来の悪い子供であるかのように、慈しむ表情で咲う。俺は我慢を知らなければならない。正しい在り方になるために、適切な距離を測らなければならない。 けれどきっと現状維持だ。何とか折り合いをつけて生きていこうとするだろう。早々楽にもなれないのだ。何と言っても、一線を踏み外す勇気もない。自我を放棄する覚悟もない。 一護がいれば保てる。 一護が居てくれるなら、俺は 一護のために、一護といるために 万の嘘を吐き続け、千の針を飲み下し続ける。 2009/12/20 耶斗 |