訳が分からないと男が云った。 何を、お前は天才なんだろう?と己は揶揄かった。 唐突に訪ねてきたと思ったら、挨拶も前置きもなしにそんなこと。珍しくて、そうして肩越しに振り返った先にある顔が困惑しているようだから可笑しかった。 何を分からないと云うんだ?問えば 分からねぇことを説明できるか。と機嫌悪く返され どうやら思考は混乱しているようだ。まともな会話能力は残されているか? 窓を玄関に侵入した男は無遠慮な足取りでベッドのスプリングに悲鳴を上げさせ、床に胡坐をかいてビー玉を転がしていた己の背後に立った。 迷っているな。 小さなガラス玉は妹が分けてくれたものだ。少女らしい彼女の優しさは、こうして時折己の部屋へ装飾を施していく。 指で弾けば転がっていく。弾性衝突。極力摩擦を失っしたSiO2、球になってフローリングの床を滑っても完全非弾性は叶わないか。 保持された運動エネルギー。磨り減り磨り減り、タンゴからワルツへ。舞踏は終わる。 項の辺りがくすぐったい。男の視線の先は、確かくは何処だろう。動物の眼が動くものを追うというのなら、もう一度ガラス玉を弾いてみようか。 男の息が、己の名を呼んだ気がした。 なんだ?訊けば 応えはなく。否、動揺した空気が伝えたもの、それが男の応えだろう。 本当に、今日はどうしたことだろう。込み上げる愉快に喉が震える。 そうすればまた、不機嫌を滲ませ己を非難するのだ。 首筋を風が掠めた。それは男の着物だった。 細く、白い腕が緩く首へ回される。そんなに怯えたようにしなくとも、己はそう容易く壊れはしない。 どうしたんだよ?手を触れれば直ぐに離れてしまうだろうか細さだから、身動ぎもできず問う。 分からねぇ。 それでも暫くこうしていたいと耳の裏、安堵したような熱い吐息には苦笑するしかなかった。 |
背に回された腕は細かった。貝殻骨へ届きそうな手は小さかった。 布地越し腹の上、唇から吐き出される息は、熱かった。 気だるい腰のむず痒いような感覚に、少しは楽になるだろうかと仰向けの身体を反す。傍らには何の警戒もなく眠る男。痛みにもならない腰の違和感を植えつけておきながら安らかに眠っている男が小憎らしく思えた。 おかしな時間に目が覚めてしまった。妙に目が冴えてしまっているから、目蓋を縫い合わせる耐力ももちそうにない。 どうしようか。 枕に沈み込みたい欲求は確かにあるのに、そこに用意されているはずの安堵を感受できない。 仕様がないから彷徨わせた眼は肩にかかる吐息の先に留まった。 こんなにも、安心してるなんて顔。見せてしまっていいのだろうか。 時折、哂ってやりたくなる。綺麗な貌。 階下には家族がいる、とそんな懸念を抱かなくなってどれだけが経つだろう。遅すぎるということはないだろうに、己は随分と早くに馴らされてしまったようだ。 悔しさは、それを保つことで自尊心を守れると思い違いをしていた頃の話だ。 あぁ、だから今、馴らされて、いるのだろう。 男の頬に指を伸ばす。あんまりにも近いから、少しだけ身じろがなければならなかった。身体が重くて、常ならなんでもないはずの動作も億劫だ。 背に回された腕は細かった。貝殻骨へ届きそうな手は小さかった。 布地越し腹の上、唇から吐き出される息は、熱かった。 そうして、触れた頬はすべらかだ。 薄く開かれた唇からもれる呼気がまるで自分を呼んでいるようで、あぁ駄目だな、と思う。そんな風に思うなんて、本当に、己は‥。頭を抱えて目を逸らしたかったけれど、それもまた効のない抵抗なのだろう。 ――― 一護‥? 男の、幼い表情(かお)が覗き見える。こんな機会を得られた者が今までどれだけいただろう。今は、どれほどいるだろう。先は、思案するだけ無意味だろう。 夢の間淵に漂う眼。すぐにも戻りたいという目をしているくせに、留まろうと、醒めようと、引く手に抗っているようなのが可笑しくて目を細める。見詰めていたら、己にも睡魔が慈悲を与えてくれるだろうか。 ――― 冬獅郎?俺な‥ 悪戯心に似たものだろう。男があんまり無防備な顔を晒しているものだから。 こそりと吐息で一護は囁く。まるで強請るように枕を這って、明瞭としない男の瞳を覗きこむ。彼の意識は肌寒い現の夜へ浮上しようとするように、焦点を一護へ定めようとしていた。 ――― |