相続人 4 どうしたもんかなぁ 浦原との会話(と呼べるものかどうか)を終えた一護はのろのろと自分の部屋へ戻ろうとしていたところ、目的の場所へ着かないうちに足を止めた。溜息が零れる。これ以上疲れたくはないのに、それが身体の、否、神経の疲労を増した。 ぽり、と後ろ頭を掻く。どうやら迷ってしまったらしい。情けない。しかし思い返せば己はまだこの屋敷に踏み入れてまだ2日目だ。地図を把握していなくたって不思議はない。外観上そう入り組んでいるわけでもなさそうだったのに中へ入ってみればなんとしたこと、装飾品の数々の所為かもしれない、方向感覚が狂う。階段も規則的に配置されているわけではないようだから足に任せて歩けば当然の結果といえないこともないが‥ 「戻り方も分かんねぇ‥」 情けない。情けない情けない。これ以上の溜息はますます気を滅入らせるだけだと分かるから耐力の要る今、ぐっと堪える。とりあえずというように一護は元来た途から己の前に伸びる途を360度ぐるりと見渡して、第六感を呼び覚まそうと試みた。屋根のあるところで遭難なんて末代までの恥じゃないか。そうして選んだのは前に伸びる途。男ならば前進あるのみだ。気合を入れなおして一護が足を踏み出した丁度その時、目指す先の途中にある曲がり角から見覚えのある頭が現れた。 日番谷冬獅郎‥ 思わず呆気にとられ足を止める。まさか会うとは思わなかった。一つ屋根の下といってもあまりに広すぎる屋敷の中だ、彼との部屋は離れていると教えた浦原の話しぶりからきっと反対方向にあるのだろうと思っていたのだが‥。予想がはずれたのか、己が自分の部屋の反対方向に歩いてきたのか。後者だったら暫く自己嫌悪に苛まれるかもしれない。 廊下の真ん中に突っ立つ一護を彼もまた見止めて、けれどやはりなんらの情動の気配もなく視線を外し(彼に自身の進路を変えるという思考は働かないだろうから、初めからそのつもりだったのだろう)一護の立つ廊下側へと足を向けた。 足音を吸い込む絨毯の上を確かな足取りで冬獅郎は近づいてくる。一定の間隔でならぶ格子模様の窓から大きな正方形の光は翳みながら反対側の壁に届いている。影に沈んだり浮上したり、光とは感触を持ったものだったろうかと一護は思った。それほど滑らかに、それらは冬獅郎の肌を滑っていくのだ。 「あ、冬獅郎‥?」 声をかけなければならないと思った。浦原の、亡くなった男の遺言に従う気はまだ確定していなかったが、兎に角今、彼と接触しなければと一護は思った。窓を挟んで、お互い薄い影の中に立った。 冬獅郎は返事を返さない。じっと一護を見上げて彼の続けるだろう言葉を待っている。冬獅郎の背丈は一護より随分低かった。胸に届くぐらいだろう、それでも幼さを感じさせないのは例えるなら無色の、その空気だろう。本当に感情が表にでないんだろうな。浦原の説明では欠落した人間だということらしいが、一護はそのまま受け取りはしなかった。感情が欠けているんじゃない、人との接点を持てず、その表現方法を学べなかったのなら育まれないまま奥底に閉じ込められてしまっているだけだ。人とのコミュニケーションを増やすことで問題とされているそれも解決されるだろう、そう一護は考えていた。 「自己紹介がまだだったよな、俺は黒崎一護。なんか知らねぇがここの持ち主だったって男から遺産を相続させられそうになってる者だ」 お前と同じ、と一護はぎこちないながら笑ってみせた。 「この国には語学の勉強のために留学してるんだ。大学はこの近くの‥って結構離れてるな、ヴィンセント大学ってとこだ、俺のアパートは大学のすぐ側にある」 話して、そういえばと思い出す。自分には住んでいるアパートがあった、そして通っている大学も。浦原はそのことには触れなかった。彼の話はすべて相続にまつわるものばかりで。どうするつもりなのだろう‥、先ほど話した限りの印象では己をこの屋敷に閉じ込める気だと思えなくもない。 それは困ると一護は慌てた。目の前の人間も目に入らなくなる。浦原の下へ行かなければ。行って話をしなければ。振り返って、先ほどよりも翳の濃くなった廊下を見る。不安が沸いた。だけれど考えてみれば今日は平日のはずだ。当然授業は行われたはずだ。友人たちにはなんの連絡も入れていないし、アパートの部屋にだって鍵をかけてきていないはずだ。なんて無用心な。早々に帰って、それからじっくり突きつけられている問題についても考えよう。歩き出そうとして後ろの人間を思い出す。 そうだ、呼び止めたんだった‥ 「あっと‥、すまない、冬獅郎。呼び止めておいて悪いんだけど俺急に用事を思い出しちまって‥、早く行かねぇとやばいんだ‥」 申し訳ないと詫びる気持ちを顔いっぱいに表して振り向いた一護に冬獅郎は軽く頷いただけで何も言わなかった。 その反応に拍子抜けしたというのも正直な感想だったが、このときばかりは感謝する。 駆け出した一護と、その場に佇みそれを見送る冬獅郎。初めての接触はこうして終わった。 散々走りまくって見つけたその男はもはや第一印象の『有能な秘書』からは程遠く、どこかひょうきんな空気さえ纏ってリビングで寛いでいた。 「おんや、随分息を切らしておいでのご様子。どうしたんです?服も替えずに」 「浦‥原さん‥っ、あんたに、訊きたい‥ことがっ」 肩で息をしながら開け放したドアを掴んだまま一護は背を屈めた状態で浦原を見上げた。ソファに腰掛け茶を飲んでいる男は揶揄るような表情を浮かべて一護の視線を受け止めている。 「俺、大学とか、アパートとか、すっかり忘れてたけどすることいっぱい残してあるんだ。昨日は成り行き上泊まっちまったけど今日は帰るよ。車はいらねぇから帰り道教えてくれ」 スモークガラスの車に乗せられてきたから道なんて覚えているはずがない。走った距離から考えて徒歩ではきついとも思ったが、生憎着の身着のままで連れ去れたため手持ちの金もない。こうなれば意地しか残っていないだろう。しかし男の反応に眉を顰める。 「お帰りになる?」 言葉の意味を理解していないような顔でことりと浦原は首を傾げた。とぼけたような表情だ。見目がいいはずの造りも十人並みに見えてしまう。 「えぇ、帰るんですよ。俺の部屋に」 「部屋なら上に用意してありますでしょ。あの部屋ではご満足いただけませんでしたか?」 「何を言っているんです。俺の部屋ですよ。俺の住んでるアパート、昨日あなた方が押しかけた‥っ」 ついつい語気が荒くなってしまう。とぼける浦原に苛立つ。 浦原はさも今思い出しましたといわんばかりの動作で手を打ち、大きく頷いてまっすぐに一護を見詰めた。瞳の色が変わったことに一護の勢いは押される。 「あの部屋なら既に解約しています。大学の方も、ひとまずは休学という形で‥」 「な!?何を勝手にしているんですか!」 「いやいや、そういきりたたないでくださいよ。あなたまだ決心がついておられないようでしたから、といっても昨日のうちに済ませてたんですけどね、こちらのことに身をいれていただくためにこのような行動に出させていただきました」 「それが勝手だというんです!昨日のことといいあんたら人をなんだと思ってるんだ!」 頭に血が上り言葉を選ぶこともできない。力任せに絨毯を踏み締めながら浦原に近づき、ティーセットの載るテーブルに拳を叩き付けた。 それを浦原は静かに見つめ、悠然と膝に肘をのせ、口元を擦った。その口元は微かに笑い、一護の怒りをさらに煽った。 「何が可笑しい!」 「いえ、貴方結構直情型なんですねぇ。昨日の印象ではもう少し大人しい方かと‥」 ふざけたことを‥っ 第一印象で相手を考えていたのは自分も同じだが、この言い振りはなんだ!まるで残念そうにいいやる男がどうしようもなく腹立たしかった。 「兎に角俺はここを出て行く!泊まるあてくらいならある。遺産も冬獅郎のことも知ったことじゃない!」 冬獅郎、と彼のことに触れて浦原の眉がぴくりと動いた。不興を買ったとしれる反応だった。 「幸い荷物もなにもないし、服は郵送で返す。俺のは焼き捨てるなりなんなりしてくれ!」 言い捨て、踵を返そうとして不穏な浦原の声に身体が固まる。身体の熱は一息の間に冷えて、心臓が早鐘を打つ。男の逆鱗に触れた、それは反発心さえ殺すものだった。 「あたしは貴方でしか駄目だといったはずですよ黒崎さん。それが旦那様のこの世に残していかれた願いです。あたしはどうあってもそれを叶えたいんですよ。はっきりいいましょう、貴方の都合なんて関係ない。貴方は日番谷さんを人間にする、一年なんて時間も本当はどうだっていいんです。相続の権利が無くなった後だって、あなたには彼を人間にしてもらう」 肩を引かれ、その容赦のなさに骨が軋んだ。己を見下ろす眼の冷ややかさに足下から恐れが這い上がってくる。 「貴方だって、もう彼が気になってしょうがなくなっているはずですよ」 にっこりと、唇だけで哂うこの表情こそが男本来の顔なのだろう。造りが整っているだけに和らげるフィルターがない。飲み込みたい唾液さえ乾く。 応えない、応えられない一護に浦原は言葉を重ねる。 「放っておけないはずです。たとえ今貴方に元の生活に戻るための部屋があったとしても、必ずここへ帰ってくる。そうなるしかないんです。そうなる、仕組みなんです」 浦原は不可解な言葉を使う。これまでの会話でも端々に理解に困る表現を使った。そうして問うことができないように上手く流してしまうのだ。浦原は一体何を云おうとしているのだろう、彼は一体何を見ているのだろう、何を知って、いるのだろう‥ 一護の両肩を掴んでいた力を緩め、浦原は今度は柔らかく微笑んだ。もう刺すような眼差しは奥へ潜っていた。 「暫くここで休んでおいでなさい。直に夕食の時間です」 浦原がそこを離れて扉の閉まる音がした後、一護はへなへなとくず折れた。心臓を握られるような恐怖だ。それがまだそこにあることを確かめるように、一護は心臓の上の肉を強く握り締めた。 |