相続人 6 両開きのドアへ手をかける、一度耳を澄ませて寝息でも聞こえないものかと確かめたが向こう側を知る手がかりはひとつとして漏れなかった。一歩下がりながらノブを引き、体がその隙間に入ればそれらを手放して慣性のまま開くのに任せた。ドアの目の前、部屋の真ん中に足を向ける形で壁に頭を付け天蓋つきのベッドが置かれている。カーテンは閉め切られ、月の光を期待していた一護はしばし目が慣れるのを待たねばならなかった。 濃い闇が薄くなるころ、瀟洒な刺繍の施されたベッドカバーの上に転がっている塊を見止めた。眠っているらしい彼から寝息は聞こえず、秒針を鳴らす時計もない室内に音らしい音はない。一護はわずか身構えながらベッドサイドまで歩み寄った。ベッドの上のそれを見下ろして輪郭さえ朧な視界にカーテンを開けようかと振り返れば何か、この場には相応しくないような形を見止めた。よくよくみればどうやらパソコン機器だ。それらから延びる配線の束の太さに一体何に繋がっているのかと単純に驚いた。 屋敷の角に突き出すようにしてあるこの部屋は両側に窓がある。ベッドの反対側に回って、そちらのカーテンを開けようと動いたときだったベッドの上のそれが身じろいだ。とっさに息と供に体の動きを止める。起きたのだろうか、懸念して、己はそのつもりでこの場所まで来たのではないか。ドアを開けるまではそうだったが、ベッドサイドまで近づいたのは好奇心だっただろう。そうしてカーテンをあけて光を集めようというのもまた、彼の寝顔を見てみたいという悪戯な考えのためだと思い至って軽い自己嫌悪を覚える。何をやっているんだ。寝ている人間を起こしてまで果たす目的じゃない。 今夜は引くか、と踵を返しかけてそれの足下に目を留める。 靴を履いたままだ。 靴を脱ぐ暇も惜しむほど眠かったのだろうか。もしかすると今日一日は彼を疲弊させるものだったのかもしれない。そしてその大部分に己は関わっているのだろう。 申し訳ないと思う気持ちと、仕様がないなと思う気持ちとで一護は靴を脱がせてやろうと手を伸ばした。簡単な作業だ。彼が目を覚ますことはないだろう。 そう思っていたのに。 弾かれたように起き上がったそれに一護の体も撥ねた。 「と、冬獅郎‥っ?」 起こしたか、と一護は顔を顰めた。悪いことをした。 「悪い‥靴が、寝心地が悪いだろうと思って、脱がせようと‥」 明瞭には窺えないけれど、彼が己を凝眸しているらしいことは分かる。きっと驚いているだろう。いや、間違いなく驚いている。それでもって訝っているだろう。目の慣れた己でさえ向かい合う人間の顔を定かには確かめられないのだ。目覚めたばかりの彼にとって己は闖入者でしかない。だから一護は慌てた。自分が無害であることを示そうと必死になった。 「あ、俺は一護‥黒崎一護だ。昼間お前に挨拶した‥、夕食のとき食堂でもお前の前に座ってたろう?」 あぁこれではますます不審人物ではないかと一護は自分の身振り手振りの様子を客観的に見て評した。いや、でも彼を傷つける道具を持っていないことを教えるにはこれくらいで丁度いいかもしれない。結局一護は掌を上に向けて、軽く腕を開くという格好で動きを止めた。冬獅郎の表情を窺えば、彼は眼は驚きなどなく、ただ平素と変わらぬ様子で一護を見やっているだけだった。腕を下ろして立ち直す。安心したといおうか、冬獅郎という人間に対して自分の予想する反応を返せというのはまだ無理なのだと思い出した。 「‥と、ほんと、悪かったな。驚かすつもりはなかったんだ‥」 自分の望む反応。誰もが返すだろう反応。それをこの子供は知らないのだ。それを自分が教えるのだ。 「ここ、座ってもいいか?」 反応を返さない彼の顔色を一護は一応窺いながら腰を下ろす。ほどよい弾力のスプリングが微かに軋む音を立てた。一呼吸入れて、一護は冬獅郎へと身体を捻る。左足が僅かベッドへ乗り上げた。 「冬獅郎、昼間、遺言状の文章を聞いただろう?俺がお前の世話をすることになった。誤解して欲しくないんだが、俺は遺産なんてどうだっていい。そんなもののためにここにいるんじゃない」 では何のためか。浦原のためか?己のためだといえるほどの利得は‥ない、だろう。 「俺はお前と仲良くなりたいと思っている。お互いのこと知って、友達になりたい。冬獅郎‥」 友達になりたい。上手いことをいったものだ。けれど本当にそうか?そう表すことが的確か? 冬獅郎は何もいわない。移動した一護の顔を先ほどとなんら変わらず見つめているだけだ。責められているようだと思うのは、冬獅郎の瞳が感情を映していないからだ。見るものの引け目を誇大に映し出す。 一護のベッドカバーの上に置かれた手が浮いた。 「冬獅郎」 その頬に皮一枚の厚さ触れて、肩を撥ねさせた冬獅郎に一護は慌ててごめんと呟いた。聞こえたかどうかは分からない。心の中でもう一度謝って、一護は止めた手を今度はもう一方の手も一緒に彼へ寄せた。 おそらくは触れた他人の肌に驚いたのだ。これも初めてのことなのだろうか。けれど二度目に彼が怯える素振りはみせなかった。適応が早いのか、好奇心が強いのか、その判別は後に回すとして一護は冬獅郎の頬を包み込んだ。「冬獅郎」もう一度彼の名を呼ぶ。懇願が滲んだ。 「俺の名前、呼んでみてくれないか‥?」 彼の声をまだ一度も聞いていない。心理学だとか習ったことはないし、幸せな環境で育ったと自負できる一護だ。地毛でありながら派手な髪色とそれによって経験せざるを得なかった面倒な人間関係のお陰で眉間が寄りがちの第一印象はよろしくない顔になってしまったが、他人とのコミュニケーションに困ったことはなかった。腐れ縁の友人たちが側にいてくれたし、自ら進んで新しい友人をつくろうとするような人種でもなかったためもある。だから人を懐柔するという行為に不慣れだ。話したくない人間に無理に話させるのは良くないことだったかもしれない、とちらりと頭を過ぎったが言ってしまった後では遅い。強要するような両手も、もはや自分の意志では下ろせないと思った。 陶器のような頬を抓むようにして撫でる。こうやって口を動かすのだと教えるように。 「一護、だ。い・ち・ご。言ってくれないか‥?」 自分の名前を繰り返しながら、一護は自分の声がだんだんと哀願の調を帯び始めていると自覚した。己を見返す眼はまったくガラス玉のようだ。彼が優秀な計算機だとしたら、今その頭では膨大な量の数字が弾かれていることだろう。 「冬獅郎‥言ってくれ、俺の名前は一護、だ」 浦原の言葉が蘇る。『貴方、もう放っておけないはずですよ‥』あぁ、そうだ。そうだろう。ここに残る理由も確かなものになった。この子供は哀し過ぎる。まさか自分がこんなに同情家だとは知らなかった。 助けてやりたい‥ あっていいはずがないのだ。こんな、喜びも悲しみも知らないことが。 触れた頬は冷たい。まるで墓の中で眠っていたように。 起こしてやりたい 「冬獅郎、言ってくれ‥っ」 これはまさしく哀願だ。 冬獅郎の瞳を見つめていることができなくて俯いた一護の耳に、長らく使われなかった声帯を震わす音が聞こえた。 顔を上げれば唇を薄く開いた冬獅郎の貌。それは確かに変化だった。 「冬獅郎‥?」 「‥ちご‥」 い ち ご ? わずか傾いだ瞳に温もりが宿ったとみたのは錯覚だろうか。 けれど一護を見上げる瞳はもはや冷めてはいなかった。 これは微かな変化だ。一歩と呼んでいいのかどうかも分からない。なぜなら一護は冬獅郎にとってそれがどれだけの意味をもつものなのか計るに足るだけの情報を得てはいないから。 それでも一護は嬉しくて。 嬉しくて嬉しくて、たまらないから小さなその肩を抱き締めた。 「あぁ‥」 喜びは溜息となって、かろうじて肯定の形を象った。 |