相続人 10 傍から見れば兄弟か、毛色が違うから遠い親戚くらいには思ってくれるだろう。一護と冬獅郎は手を繋いで通りを歩く。一年ほどこの街で過ごした一護はそのさっぱりとした性格から顔見知りが多かった。歩いていれば声をかけられる。 「暫く見なかったな旅行してたのかい?」「隣の子は誰だい?」「昼飯はうちで食ってけよ」 わざわざ店の中からも声をかけて、この街の人間はまったく人懐こいと一護は思う。だからこそ観光客もこの町を穴場としているのだ。 パンの焼ける匂いがする。香ばしい香に朝食をすませてまだ時間は経っていないというのに腹の虫が騒ぐ。今歩いているのは飲食店が立ち並ぶ通りだった。目指す服飾関係の店はこの通りをさらに進んだところにある。中央広場から放射線状に通りは伸び、それぞれに同ジャンルの商店が軒を連ねているのだ。屋敷から近い通りは飲食店の並ぶこの通りだということらしい。 広場について、一護は冬獅郎を振り向いた。気さくな住人たちの挨拶に応えながら彼らと彼らの店と、自分との仲を説明しながら、驚かせていないかと心を配りながらその手を引いていた。二人で街を歩くことに緊張しているのは自分の方だ。合わせた掌の間に篭る熱が、冬獅郎に不快を感じさせてはいないだろうか気になった。気になったが放すことが不自然に思えて一護は意識を言葉に向けようと目に付くものを示しては冬獅郎に説明した。 「あの向かいの通りが服を売ってるとこだ。これからお前の服選ぼうと思ってんだけど、どんなデザインが好きとかあるか?」 歩を止めないまま二人は広場を横切っていく。噴水で足を休める者や、路上でパフォーマンスする芸人、オープンカフェで休む人々はちぐはぐな組み合わせの二人に好奇の目を向ける。東洋人と、英国というよりは北欧の血が濃そうな子供の二人組み。服装も彼らの判断を助ける材料にはならなかった。 冬獅郎は首を振った。簡単な意思表示はそれで終わる。いいさ、店で質問しまくれば冬獅郎も口を開かざるをえないだろう。思いついた悪戯事に一護の口端が持ち上がる。 綺麗な造形である冬獅郎だ。顔だけではなく体のバランスも。選びがいがある。なるほど欧米人だと一護は思う。東の島国生まれた自分とは違う。かくいう彼も痩躯のバランスのいい体つきではあったが自身への関心は薄いのだ。 どの店から入ろうなどとは考えなかった。とりあえず目に付くところから入ってみて、冬獅郎にみせていこう。とはいっても既に持っているような服を売っている店は除外だ。問題はサイズだが‥、さてどうしたものか。やはり子供サイズだろうな。そうして思い当たる。冬獅郎の身につけている服がどれも無駄に高級感をかもし出している訳に。オーダーメイドなのか‥。でなければあのようなデザインで彼に合うサイズを見つけるのは難しいだろう。よくもまぁ同じような服ばかり作らせたものだと一護は呆れる。彼らとしては都合が良かったのかもしれないが金のかけどころが違うんじゃないか。一護の財布には浦原から押し付けられるようにして渡されたカードが入っていた。 一護は大体において直感で動く人間だった。目に付いた色、デザイン、冬獅郎に似合うと思えば手に取り彼にあてて鏡を見せて、それからたまに趣向の異なるデザインも選んでみて冬獅郎に訊ねた。喋らせたいと思ったのもあるが、自分の趣味だけで買うのは憚られる。話さない冬獅郎は訊ねるばかりの一護に困ったような視線をくれる。それは初めてのことだと一護は内心で喜んだ。顔の筋肉が解れ始めている。これから色々な表情がみれるようになるだろう。心が浮き立つ。服選びに自分ばかりが夢中になりそうで、一護は自らを抑制した。 冬獅郎は戸惑っていた。これまで選択を迫られたことはなかった彼に橙色の髪をした青年は趣向の異なる服を差し出しては意見を求める。正直に、彼に好みというものはなかった。与えられてきた品々が画一的で、かつ差し障りのないデザインばかりだったからだろう、彼がそれらを意識して眺めるということはなかった。 だのに今、目の前には極彩色だとかメタルだとか悪戯に選んでいるとしか思えない奇抜なデザインが突きつけられている。お目にかかることのなかった色彩は目の表面を傷めるようだった。 困惑を表す冬獅郎に、しかし一護は極々楽しそうだ。からかわれていると見えなくもないが、冬獅郎にそう発想するだけの知識はなかった。ただ何と無く面白くないな、とそう思った。 「一護」 「お?なんだ?冬獅郎」 名前を呼べば喜んだ顔をする。それは声を聞かせたからだと知らない冬獅郎は、一護が名前を呼ばれることが好きな人間だと思い込んでいた。 「それ、と、それ」 蚊の鳴くような声だった。遠慮がちに声帯は震えて。冬獅郎は指差して首を振った。それだけのことにも一護は嬉しそうに目を細める。 選ぶ、というその行為。好き嫌いを覚えていく変化。それが、嬉しい。 「じゃ、これはなしな。こっちはどうだ?」 まだ店はたくさんあるからな、と一応差し挟んで一護はブティックのさらに奥へと冬獅郎を誘う。その背中に冬獅郎はこっそりと溜息を吐く。外に出て歩くことから疲労か、言葉を紡いだことからの疲労か判然とはしなかったが、悪い気はしなかった。一護の後を追って服の隙間を進む。照明だとか匂いだとか、外には随分様々な違いがあると冬獅郎は知る。こうして一護に連れられてみると今まで自分がいた場所こそ現実離れした処だったのだろうか。一護との差が少し、広がっていた。 白いだけの部屋、隅の陰まで打ち消すように天井に嵌め込まれた照明、並ぶ試験管、薬品だな、もの言わぬ機械たち、それら全ては異様だったのだろうか。床の感覚が怪しくなっていくことに冬獅郎は気付かない。一護の背中が歪んで見えた。背中、背中? 橙色の髪。 突然目の前に現れた横顔に驚いて足を止める。止めたつもりだった。体が落ち込む感覚に、咄嗟に膝に手をつき堪える。肌色、橙色、滲んで形が分からない。テレビ画面が乱れたような映像になって、それは冬獅郎の平衡感覚を狂わせる。 頭痛が‥、頭の奥で何か膨らんでいくような圧迫を感じる、額を押さえたがその勢いを止めることは出来なかった。 変事に気付いた一護が振り返る。何事か、おそらくは己の名前だろう、を叫んで駆け寄ってくる。網膜の影と被る。彼をもう少し若くすればこんな顔だろうと思った。肩に触れる彼の掌を感じて、そうして冬獅郎は意識を手放した。鼓膜を震わす振動を感じたが、それが記号に変換されることはなかった。 春は日に日に溢れんばかり、陽光を増していくというのに。一護のいるリビングは嫌に清涼として薄暗かった。室内に蟠る影は窓辺の椅子に座る彼の横顔に届かんと昼下がりの陽に抗っている。 冬獅郎が倒れた。 それは一護にパニックを引き起こし、今ようやく落ち着いてきたところだ。組んだ両手を額に押し付け、一護は苦悶を漏らすまいと歯を食いしばる。 何が起こったのだろう。車の中では回らなかった頭はゆるゆると思考を始める。 何が起こったのだろう。突然倒れた冬獅郎。頭痛を耐えるように頭を抱える彼を抱き起こすと息の薄弱さと体温の低さに不安が心臓をわし掴んだ。 必死で名を呼んで、反応のない彼にどうしてよいか分からなくなる。店員が聞きつけて二人の姿を見止めると、慌てながらも冷静に「救急車を」と電話に向かおうとして一護は浦原を思い出した。店員を止めて携帯を取り出し、言うことを聞かない指を叱咤して短縮を押せばのんびりとした声に泣きそうになった。 一護は自分が何を口走ったか、送話機に向かって何を喚きたてたか覚えていない。酷く混乱して、酷く堰きたてて、事情の説明などまったく出来ていなかったように思う。それでも浦原は事態を察して場所を問い、真剣さを帯びた声に瞬間我に返った一護は辺りを見渡し、思い出した店の名前を伝えたのだ。 重苦しい溜息が一護の口から吐き出される。まだ、心臓は落ち着かない。一護は浦原を待っていた。冬獅郎を運んでくれたのは浦原だ。惑乱し、まるで母鳥のように冬獅郎を腕から放そうとしなかった一護を宥めに宥めぐったりと筋肉を弛緩させた小さな身体を受け取り、車の中でも冬獅郎の具合を調べていた彼である。その彼は今冬獅郎の部屋でより詳しく診察しているはずだった。走行する車の中、縋るように浦原と冬獅郎を見つめる一護に浦原は言った。心配ありませんよ、と。 負荷がかかったのでしょう、と。 負荷、その表現を一護はただ聞き流したけれど、思考する力が戻りつつあるこの時には微かな違和感を覚えた。 浦原は何より冬獅郎を第一に考えていると思っていた。負荷とはまるで彼を機械か何かのように表したようだ。‥勘ぐりすぎだろうか。気が立っているな、と一護は自身を宥めるために緩く首を振った。 「黒崎さん」 一護が身を起すとほぼ同時に浦原が開いたままの入り口に姿を現した。 「疲れたでしょう、貴方もお休みになられたら如何です?」 「浦原さん‥。いや、俺は‥」 断ろうとして一護は自分が酷く疲れていることに気付いた。身体が重い。今この場でも眠りについてしまえるだろうほどに。 一護はすみません、と謝って重い腰を持ち上げる。擦れ違う際、夕食はどういたしますかと訊ねた浦原に一護は緩慢に振り向いて、逡巡する様子を見せた後、呼んで下さいと答え玄関ホールの真ん中にある階段へ向かった。 見送る浦原の姿が見えなくなって、覚束ない足取りで絨毯を踏み締める一護は冬獅郎の加減を聞かなかったことに気付き、しかし後悔しながらもベッドを求める身体に引き返す強い意志は生まれなかった。 |