相続人 12






 リビングの、もはやそこが一護の定位置になっている窓辺に置かれた一人掛けのソファに一護を座らせ、浦原はキッチンへ向かった。少しの時間が経って、身体を抱き締めるようにして背もたれで背中を温めていた一護に浦原は湯気を立てるホットミルクともう一方の手にはガウンを掛けて戻ってきた。
 立ち上がって迎えようとした一護を制し、浦原はソファの前のテーブルへカップを置き、一護へガウンを渡した。戸惑いをみせる一護へ微笑んで、寒いでしょう?と袖を通すことを促した。
 礼を言って一護がガウンを羽織ると、浦原は一護と向き合うソファに腰を下ろした。思わず身構える一護に浦原は苦笑を浮かべて、どうぞ、とカップを示す。あなたにとって都合の悪いことは訊きませんよというように。
 両手で包み込んだカップから、飲むというよりは舐めるようにミルクを啜り、一護は落ち着かなげに視線を彷徨わせた。一人にされればまた不安が甦るだろうけれど、目の前にいられると腰の据わりが悪い。カップの中身が半分ほどになって、それまで観察するように一護をみつめていた浦原はさて、と億劫そうに腰を上げた。
 どこに行くのかと目で問うた一護に浦原は「ちょっと」と笑いかけて玄関ホールへと出て行った。
 止めることもできなかった一護は、しかし一人になっても、否、一人になったことで落ち着きを取り戻した。
 嘆息して会話を拒むために持っていたカップをテーブルに戻し、背もたれに沈み込む。
 ガウンにも身体を温められ、リビングならとの安堵でゆるゆると眠気が身体を包み始める。一護はそれに抗わなかった。


 薄い闇が目蓋に掛かっている感覚が、自分がまどろんでいるのだと教えていた。壁時計の針が時を刻むのを何の気なしに数えていた一護は扉の開く音へ目を向けた。浦原が戻ってきたのだろう、そう思った。しかし横目にみやったそれらを視認した一護は跳ね起き、ソファは膝裏に弾かれて床を数センチ擦った。
「なんで‥っ」
 浦原と冬獅郎が並んでこちらを見つめていた。
 どきどきと、また心臓が明瞭に鼓動を伝え始める。浦原が連れてきたのか‥?冬獅郎を招きいれるように立つ彼から一護はそう考えた。窓の桟に掌を押し付け、一護は背後に穴でもないかと探すように背中を緊張させた。入り口の二人を凝視し、右にも左にも動かない足はその場に座り込みたいと云っているようだった。
「黒崎サンのお部屋でぼんやり座り込んでおられましたので連れてきたのですが‥」
 何か問題でもあるのかと問いかけるように浦原は首を傾げた。何も察してなどいないと、その顔が装っているだけだろうことは一護にも分かった。
 窓に貼りついている格好の一護から彼らの表情はよく読みとれた。床へ落ちる月影は彼らまでは届いていなかったが、薄闇に彼らの顔を隠してしまうだけの濃度はなかった。
「どうされました?黒崎サン」
 鹿の警戒するような目で冬獅郎を凝眸する一護に、浦原はその肩に触れてみせる。ほら御覧なさい、これは無害な動物ですよ、としかし一護の目にそれは虎の入れられた檻に触れているようにしか見えなかった。
 安全などではないのだ。アンタはその本質に触れちゃいない。
 毛の先にも触れれば噛み付かれる。
 冬獅郎の肩に触れる浦原の掌を信じられないといった目で見つめ、一護は唾液を飲み下した。己を見つめる冬獅郎の瞳を探るには距離が空きすぎていた。
「う、らはらさん‥」
「一護」
 俺は部屋に戻ると伝えようとした声を遮って、彼が一護を呼んだ。
 冬獅郎は逆光に立つ一護の顔へ目を凝らすような表情をして、それが何故だか切なげに見えた。一護は戸惑う。未だ狂猛な獣の顔を眼前に見ていたから。
「一護、さっきは‥‥」
 謝るにはどうすればいいかと答えを求めるような声だった。たどたどしい言葉の繰り様に一護は昨日までの彼を思い出す。
「喧嘩でもなさったんですか?落ち込んでおられるご様子でしたよ」
 浦原の声は純粋に質す者の声だったが、一護には非難の色が含まれているように聞こえた。まるで子供の喧嘩を執り成す大人のようだ。この場合、弱い立場は冬獅郎の方で、一護は自身の怒りを治めねばならない責任のある立場なのだろう。それも尤もだと頭の中で声が称えた。
「冬獅郎‥か?」
 怖々といった風に一護は訊ね、窓に寄りかかっていた身体を起こした。スリッパを引き摺りながらテーブルとソファの間を抜ける。近づくにつれ明瞭となる冬獅郎の顔に先ほどの出来事がただの悪夢だったように思えてくる。縋るような眼。怒っているような表情は泣き出す前のようでもあり、感情の表しかたをしらない顔だった。
「冬獅郎‥」
 彼の前へ膝をついて、その顔を覗きこむ。冬獅郎だ。あの面影など微塵もない。これは、冬獅郎だ。
 子を取り戻した親のように、一護は愛しさが込み上げるのを感じた。一護の顔が歪んで、噛んだ下唇を離そうとしたとき、冬獅郎の身体が飛び込んできて一護は驚いて抱きとめた。
「一護‥」
 ごめん、と繰り返す耳元の声の引き絞られるような辛さと、首に縋る腕の細さに庇護欲が一護を満たした。密着する身体をさらに抱き締めて、一護は冬獅郎の頭を撫でた。頷きながら。
「おやま、仲直りされたようですね」
 良かった良かったと笑う声に仰向いた一護はばつの悪い思いをする。揶揄かうように自分たちを見下ろす男は満足そうに目を細めていて、自分まで幼い子供に戻ったかのような気恥ずかしさを覚えた。
「あの‥、浦原さん‥っ」
「さて、夜も遅いことですし、ベッドに戻られた方がよろしいのでは?」
 場の空気を切り替えるように手を鳴らした彼はそう提案して、一護に首を傾けてみせた。返答は是だったが、首に巻きついている腕をどうしようかと迷った。
「日番谷さんもお部屋に戻られないと」
 自分の言葉を代弁してくれた浦原に心の中で感謝する。自分から離してくれということはできそうになかった。
 しかし冬獅郎はじっと一護の肩に顔を埋めたまま反応を返さない。
「冬獅郎?」
 もぞもぞと、話せるように顔を上げた冬獅郎は拗ねた子供のように言った。
「一緒に寝たい」
 驚いたのは一護だけでなく浦原もだろう。思わず浦原を見上げた一護は彼が自分と似たような表情を浮かべているのを見止めた。
「冬獅郎‥?それは‥」
「駄目か?」
 身体を起こし、一護を見下ろした顔は急激な成長を遂げていた。その顔は確かに感情表現の方法を得て、一護に甘えている。
「あ‥っと‥」
 そんな顔をされると弱い。しどろもどろとなる一護に浦原は助け舟を出してくれた。
「日番谷さん、黒崎サンも困ってらっしゃいますよ。今日はとりあえずご自分のお部屋で‥」
 焦る素振りが似合わなくて、一護はふっと笑いを零した。
 傍らの浦原には目もくれず己を注視している冬獅郎に向かって笑いかける。
「いいぜ、俺の部屋で寝よう」
 いいんですか?と問う浦原に快く頷いて、一護は冬獅郎の片手を取ると立ち上がった。
「それじゃあ、俺たちは部屋に戻ります。お騒がせして申し訳ありませんでした。ミルク、ありがとうございました」
 丁寧に頭を下げて、一護は冬獅郎の手を引き自分の部屋へと引き上げていった。二つの背中を見送る浦原の目は胡乱に眇められていた。
「一護」
 ベッドへ入り、冬獅郎は横たわる前に一護へ手を差し伸ばした。二人に掛ける布団を整えていた一護はその細い指が頬に触れるのを許した。
「どうした?」
 冬獅郎の右手が左頬に添えられている。右隣の冬獅郎は身体を捻って一護を見上げていた。
 翡翠の瞳が何かを伝えようとしているのは分かるのだけれど、読み取ることのできない一護は冬獅郎の言葉を待つしかない。
「どうした?」
 少し首を傾げてもう一度問えば、冬獅郎は薄く唇を開き囁くように云った。
「キス、してもいいか‥?」
 驚いた一護は目を丸めて冬獅郎の顔を凝視する。視界の端に掛からぬところに数時間前の嫌な記憶がこびりついていた。
「駄目か‥?」
 応えなければと口を開くが、どう答えるべきか分からなかった。冬獅郎に対する嫌悪などなかったが、やはり迷う。言葉を発さぬまま口を閉じた一護に冬獅郎は寂しそうに眉を寄せた。
 大丈夫、これは、冬獅郎だ
 胸の動悸が何に対する緊張か分からなくなったが、一護は空唾を飲み込むと自分の頬に触れる手に自らの手を添えて「いいぜ」と首肯した。そうして表情をくだけさせ
「ただし、友達のキスな」
 と笑った。
 冬獅郎も笑い返した。
 薄く、温度の低い唇が頬に触れる。一護は目を閉じてそれを受け止めた。
 大丈夫、冬獅郎はもう、”冬獅郎”だ
 吐息のような軽いキスが離れた後、覗き込むような翡翠の瞳に耐え切れず白銀の頭を掻き撫ぜて布団の中へ入るよう肩を叩いた。身体に腕を回した小さな体を両腕で抱きしめ返し、二人丸まって布団に潜る。
 大丈夫、大丈夫と已まぬ不穏な動悸に言い聞かせながら。







 その夜を境に一護と冬獅郎の関係は逆転したものになった。
 兎角、冬獅郎が一護から離れないのだ。ライフサイクルも変えるほど彼は四六時中一護の側にいるようになった。
「黒崎サーン?」
 当初より少しずつ口調を崩してきた浦原だったが、今ではもう友人ほどの気安さになっていた。
 茶を載せたトレイを一護たちの寛ぐ温室へ運ぶのもほぼ日課となった。
 ひょっこりと顔を突き出した浦原はおや、と目を丸くする。一護は唇に人差し指をあてて悪戯気に浦原を見やっていた。
「お休みでしたかー」
 僅か声をひそめて浦原は笑った。一護の膝には陽の粒子を躍らせる白銀が広がり、透き通る白い肌に影は薄くその輪郭を模っている。
 ありがとう、と言って一護はトレイからカップを受け取る。冬獅郎の分と菓子はテーブルの上へ。
「懐かれたものですねぇ。まるで親鳥の気分でしょ」
 揶揄かう浦原に一護は苦笑を見せる。悪い気はしませんよ、と応えて彼を見下ろした眼差しは柔らかかった。雛鳥。まったくそうだ。何をするにも一護についてゆき、一護の部屋は半ば冬獅郎との二人部屋になっている。
 人間にするだとか遺産だとかの話題は長らく一護と浦原の間に上っていなかった。一護には端から興味もなかったし、浦原もそれは野暮なことだと考えているのだろう。とりあえずは来年の夏まで話が持ち上がることはなさそうだ。
 しかし一護は考えはじめている。このままの生活が続けばいいなぁと。来年も、再来年も、穏やかなこの時が長く長く続けばいい。そうしてそれは叶うだろうと、一護は信じつつあった。休学が明けたら己はまた大学の日々へ戻るけれどこの家から離れることはない。通学には遠いからアパートを借りたいとも思うけれど冬獅郎が嫌がるなら止めたっていい。それとも彼と二人暮しを始めようか。
 一護は冬獅郎の成長していく姿を見るのを楽しみにしていた。その聡明さには驚かされることもしばしばあるが、こうして自分の側で休んでいる顔は幼いものだ。吐息に微笑を混ぜて一護は読みかけの本へ意識を移動させた。
「ごゆっくりどうぞー」
 おどけるように囁いた浦原は軽やかな足取りでその場を去っていった。  穏やかな‥、穏やかな日々は夏に移ろうとしている。







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